譬如五百千万億。那由佗。阿僧祇。三千大千世界。仮使有人。抹為微塵。過於東方。五百千万億。那由佗。阿僧祇国。乃下一塵。如是東行。尽是微塵。諸善男子。於意云何。是諸世界。可得思惟。校計知其。数不。
【譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国に過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意に於て云何。是の諸の世界は、思惟し校計して、其の数を知ることを得べしや不や】
(文上の読み方)
前のところで、釈尊は仏になりましてから、無量無辺百千万億那由佗劫を経ているといいましたが、それは、どのくらい前かということを、次に明らかにしたわけであります。
この、五百千万億那由佗阿僧祇という数は、五に百を掛けて、千を掛けて、万を掛けて、億(十万)を掛け、那由佗(千億)を掛けて、那由佗の何千億倍以上の阿僧祇を掛けた、それくらいの三千大千世界があったと思いなさい、といっているのであります。
仏教で用いる数は掛け算であります。よく老人が二七日というでしょう。二十七日のことではなくて、二七の十四日をいいます。三七日は、三七、二十一日のことであります。七七日は、七七、四十九日という、仏法では数を並べてあるのは、みな掛け算した数をいうのであります。五に百を掛け、千を掛け、万を掛け、億を掛け、那由佗を掛けて、阿僧祇を掛けて、それくらいの三千大千世界があったとしなさい。それを人があって、それだけの世界を集めてきて、うどん紛のような細かい塵にしてしまうのであります。
それから、まず、ロケットのごくいいものに乗れというのであります。経文には書いていないけれども、バケツに一杯、その粉を入れろというのであります。そうしてロケットに乗って、飛び出すのです。そして、五に百を掛け、千を掛け、万を掛け那由佗を掛けて、阿僧祇を掛けただけの三千大千世界の国々を通ってゆくのであります。そして、そこへ、一粒を落とせというのです。一塵を下せというのですから、二粒落としてはいけないのです。それからまた、五に百を掛け、千を掛け、万を掛け、那田佗を掛けて、阿僧紙を掛けたほどの三千大千世界の国々を過ぎて、また一粒落とす。それからまた、五に百を掛け千を掛……バケツの粉は、なかなか減りません。また、なくなったとしても、こっちには、まだ、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界の国々を粉にしたものが、いっぱいあるのですから、バケツに、一杯やそこら減ってもダメです。こうして、この微塵にした粉が、ことごとくなくなったときを考えよというのであります。どのくらいの国になるか、あなた方は、それを計算できるか、あなた方は、これがわかるかどうかというのであります。ちょっと頭で考えても、すごい数字になります。
釈尊は、その通り過ぎた世界の数を、わかるかどうか聞いているわけであります。
弥勒菩薩等。倶白仏言。世尊。是諸世界。無量無辺。非算数所知。亦非心力所。及一切声聞。辟支仏。以無漏智。不能思惟。知其限数。我等住。阿惟越致地。於是事中。亦所不達世尊。如是諸世界。無量無辺。
【弥勒菩薩等、倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず。亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞、辟支仏、無漏智を以っても、思惟して其の限数を知ること能わじ。我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於いては亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり】
(文上の読み方)
ところで、弥勒菩薩等は、仏が「あなた方は、これだけの国の数がわかるか」と問うたのにたいし、仏に向かって「世尊よ、わかりません。無量無辺の数で、計算してもわかりません。また心の力の及ぶところでもありません」と答えました。
この辟支仏というのは縁覚です。弥勒菩薩は、さらにつづけて「声聞や辟支仏が、無漏智と申して、もう、煩悩のなくなったころの智慧をもってしてもわかりません。では声聞や縁覚の階級でわからないものなら、菩薩の階級ではどうかといいますと、われらまた阿惟越致地、これは、アビバッチヂとも申しますが、不退転ということであります。不退、もう全然、仏道修行を退かない、もう仏になると定まった、そういう地位にいる、阿惟越致地という境涯にいるわれわれでも、まだおよびません。わかりません。要するところは、さっきの国の数というものは、無量無辺という以外にありません」といっているのであります。
すなわち、数学家でも、無漏智の声聞・縁覚でも、不退転の大菩薩でも、その無数の国々の数はわかりませんと、弥勒菩薩は答えているわけであります。次に、この無数の国々の数を、時間に変えてゆくわけであります。
爾時仏告。大菩薩衆。諸善男子。今当分明。宣語汝等。是諸世界。若著微塵。及不著者。尽以為塵。一塵一劫。我成仏已来。復過於此。百千万億。那由佗。阿僧祇劫。
【爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に汝等に宜語すべし。是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を尽く以って塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由佗阿僧紙劫なり】
(文上の読み方)
そこで仏が、はっきりさせるために、大菩薩衆に次のようにいわれるのであります。もろもろの善男子よ、今、明らかにお前らに宣言しよう。この無量無辺という世界がある。その微塵をおいたものも、おかないものも、全部の国を集めてきて、それをまた塵にしてしまいなさいというのであります。
そして、その一粒を一劫、八百万年と計算せよというのであります。塵をおいた国ですら計算できないというのですから数学では出ません。その時間よりもまだ、百千万億那由佗阿僧祇という前に、自分は仏になっていたのだというのであります。
釈尊がインドで仏になったのだと思っていたのに、釈尊はインドで仏になったのではない、計算ができないほどずーっと昔に、釈尊は仏になっていたのだと宣言したのであります。五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界とか、五百千万億那由佗阿僧祇の国等と、五百五百とありますから、この長い時間を五百塵点劫と仏法上いっております。
(文底の読み方)
それで、この五百塵点劫に仏になった釈迦如来を、先ほど申しましたように、久遠実成の釈迦如来、または文底仏法の立ち場から、これを第一番成道の釈迦如来といっております。
日蓮大聖人の仏法からいいますれば、五百塵点劫の当初という時代があります。南無妙法蓮華経という仏は、五百塵点劫の当初、無始無終という時に御出現になったのであります。
ですから、この本門の文上の仏といえども、久遠元初の自受用報身如来の垂迹した迹仏ということになるのであります。第一番成道は、日蓮正宗の立ち場からいえば、迹仏の成道になるのであります。
(別釈)
その久遠元初の自受用報身如来が、釈尊がこの寿量品を説き、さきほど話した従地涌出品のときには、地涌の菩薩となって現われ、末法には日蓮大聖人となって現われたもうたのであります。そして、日蓮大聖人の仏法を信じたものは、ことごとく地涌の菩薩であり、久遠元初の自受用報身如来の眷族なのであります。ですから、われわれが、南無妙法蓮華経と御本尊に向かって唱えるときに、われわれのこの体、そのまま、大御本尊と同じうすることとなり、尊い生命になるのであります。
ゆえに、三世十方の仏・菩薩・梵天・帝釈・鬼子母神等、あらゆるものがきて、われわれを守ることになるのであります。もし守らなかったならば、梵天ともいわせません、帝釈ともいわせません。正法を弘める者を守るとは、仏にたいする彼らの約束なのであります。末法において無始無終の大生命たる大御本尊と、われわれの肉体とがいっしょになったとき、梵天、帝釈は、かならず守りにくることになっているのであります。守らなかったら、つかまえてとんでもない目にあわせてやればいいのであります。
祈りというものは、ここまでいかなければなりません。「梵天・帝釈、なにをボヤボヤしているのだ。私が困っているのではないか。早くわれを助けよ!」といえばよい。それを、題目も満足に唱えないで、折伏もしないで、そんなにいばっても、もちろんダメです。折伏もきちんとし、信心もやって、それでも自分の商売が思うようにいかなかったら、梵天・帝釈を呼びつけて、叱りつけてやればよいのであります。かならずいうことを聞きます。それぐらいの、信心にたいする大確信がなければなりません。