一切世間。天人及。阿修羅。皆謂今釈迦牟尼仏。出釈氏宮。去伽耶城。不遠坐於。道場得。阿耨多羅。三藐三菩提。然善男子。我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由佗劫。
【一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり】
(文上の読み方)
ここで、釈尊は、永遠の生命を、はっきり、いいきっております。
一切の世間の天界の人や大衆や、阿修羅や、菩薩方は、今の釈迦如来、自分を、釈氏の宮殿を出て、伽耶城を去ること遠からざる道場に座して、阿耨多羅三藐三菩提、すなわち仏の智慧を得たと思っております。
しかしながら、善男子よ。そうではないのだ。自分が仏になってから、すでに無量無辺百千万億那由佗劫、すなわち、八百万年(一劫)に無量無辺を掛け、百を掛け、千を掛け、万を掛け、億(十万)を掛け、次に那由佗(千億)を掛けただけの年数を経ているのだというのであります。
「私はインドで仏になったのではない。無量無辺百千万億那由佗劫という、もう計算もなにも成り立たないほどの大昔、そのときに、私は仏になっていたのです」と説いたのであります。今まで説いてきた釈尊の学説を、一遍でひっくり返し、初めて釈尊の本地を明かすのであります。これが如来の秘密なのであります。
(文底の説み方)
ところが、日蓮大聖人の仏法からこれを見ますと、日蓮大聖人は御年三十二歳で、われわれ末法の衆生に向かって、南無妙法蓮華経をお説きになったと思うであろうが、実は無量無辺百千万億那由佗劫よりも前に、すでに南無妙法蓮華経の仏であったのだと、おっしゃるのであります。
これは観心の読み方です。教相の釈迦如来は、無量無辺百千万億那由佗劫に仏になったとされ、これを久遠実成の釈迦如来といっております。ところで、日蓮大聖人は、別の名を久遠元初の釈迦如来と申し上げるのであります。
インドの釈迦如来の本地というものは、この次にやりますが、五百塵点劫に仏になったというのですが、日蓮大聖人は、その以前に、久遠元初という時に、わが身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開かれたとおっしゃっております。釈迦如来のように修行をしたのではありません。わが身が地水火風空、すなわち大宇宙それ自体の生命であるとお悟りになった、その時に定まってしまったのであります。
ですから日蓮大聖人の生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということなのであります。これを久遠元初といいます。始めもなければ終わりもありません。大宇宙それ自体が、大生命体であります。われらの本地は大宇宙それ自体であります。大宇宙ですから、始めもなければ終わりもないのであります。このままの地球だけなら、始めも終わりもあるのであります。
教相の上の釈迦如来は、五百塵点劫という区切りが、まだあります。それでは、まだ生命に区切りがあって、ほんとう
のものではないのであります。
(別釈)
釈迦牟尼仏について申し上げますと、釈迦というのは人の名前ではありません。インドの北方にあった釈迦族という種族の名前であります。釈尊のほんとうの名前ば瞿曇というのです。この釈迦の国の一番偉い仏、聖人でありますという意味で、牟尼といい、釈迦牟尼仏と呼ぶのです。釈迦というのは日本語に訳せば、能忍ということです。ですから、よくたえしのぶ人という意味になります。
次に無量無辺百千万億那由佗劫とありますが、お経をあげるときには気をつけて下さい。他のところは、みな那由佗阿僧祇劫となっておりますから、ここでもそのようにいってしまいそうになります。ここは那由佗だけであります。
劫というのは、仏法では、次のようなことになっております。釈尊の時代が、人寿百歳の時であります。この平均年齢は仏法では、今の国民保健率の取り方とは違うのです。たとえていえば、今の日本国民の命の平均ですが、今はずいぶん命が延びているそうであります。そのため死ぬ人が少ないそうです。一番困っているのは、葬儀屋と邪宗の僧だそうです。
ある宗教の僧の娘が「昔は調子よく死んでくれた。金のなくなったころ死んでくれた。このごろはいい薬ができたから死なないで困ったと、おとうさんがコボシている」といっているそうです。そのように延びたのだそうだけれども、仏法では、そういう取り方をしません。ケガをして死んだとかはやり病で死んだとか、そういうのは平均率の中に入れないのです。今、日本では、赤ん坊が生まれると役所に届けるでしょう。届けて十日間で死んでも、それは一人分にはいるので。九十になった人も一人分にはいる。ケガして死んだ人も、みんな足して、割るのです。仏法では、そういうのは入れないで、自然に生きていた者だけ、いわゆる天寿をまっとうして死んだ人だけの平均をとるのであります。
釈尊の時代は、百歳が平均です。それから千年たちますと、平均率が九十歳になります。それから、もう千年たちますと、八十歳になります。もう千年たちますと、七十歳になる。今は、釈尊滅後約三千年ですから、七十歳が仏法上の平均率になります。
七十歳まで生きないと損することになります。七十歳を越したら、もうよいと思わなければなりません。それが、だんだんと少なくなってきて、今から六千年もたちますと、十歳が平均年齢になります。「おじいさん、いくつになった」「十三だよ」「お前も、もう、四つになったから、嫁をとったらどうだい」ということになるわけであります。次は、それから今度は逆に、千年に十歳ずつふえてくるのであります。そうして人間の年が八万歳が平均率になった時までを一劫というのであります。八万歳という時に生まれてきたら得です。「お前は、ずいぶん若いじゃないか、いくつだ」「一万五千歳だ」というわけです。そういう時代があると、インドの釈迦仏法では、いっているのであります。
また、こういうこともいわれております。大きな須弥山という山、日本の富士山よりまだ大きいヒマラヤのような山です。そのくらい大きな岩石がある。それを年に一回、鶴が飛んできて羽でなでるという、いくらか減るでしょう。一年に一回ずつきて、いつかは、その山がしまいになくなってしまうという、その間を一劫というそうであります。
この「我実成仏已来、無量無辺、百千万億那由佗劫」これが大事なところです。仏法上、これは体内・体外という言葉を使いまして、いろいろと論ずる場所なのでありますが、今日本で、学者を相手にして一番困るのは、仏法といいますと、釈尊の仏法だけだと思い込んでいることであります。これが非常に困るところであります。いろいろの仏の教え方の違いによって、仏法は違ってくるのであります。
釈尊の仏法と日蓮大聖人の仏法とは、仏が違うのですから、仏法も違うのであります。ところが、日本じゅうの人は、日蓮正宗の学問をした以外の人でありますと、釈尊しか知らないのであります。
釈尊の仏法と、日蓮大聖人の仏法と、二色あるのだというと驚くのであります。
しかし、これがわかりませんと、日蓮大聖人の仏法を弘めるわけにはいかないのであります。邪宗身延派などでは、日蓮大聖人の仏法と、釈尊の仏法をゴッチャにしておりますから、インドの釈尊だけが仏で、釈尊の弘めたものだけが仏法だと信じております。ですから、功徳もなにもありません。
しかし、日蓮正宗におきましては、はっきりしているのであります。この次のところで申しますが、仏といいましたら、身延では、この教相の五百塵点劫、久遠実成の釈迦如来をもって、仏としております。教相の本尊です。それで南無妙法蓮華経といっている。それならば、日蓮大聖人が「如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄」とおっしゃった、観心の本尊と、教相の本尊との相違がわからなくなってまいります。
そこで身延は迷うのであります。身延では、教相の本尊、五百塵点劫、久遠実成の釈迦如来をば仏の宝にして、日蓮大聖人を僧宝、法の宝は南無妙法蓮華経としております。五百塵点劫のここに現われた釈迦如来は、南無妙法蓮華経を唱えていないのであります。南無妙法蓮華経を唱えられたお方は、今生において、この人間界において、日蓮大聖人が初めてであります。
かんたんに考えても、南無妙法蓮華経を法の宝にする以上には、日蓮大聖人が仏の宝にならなければなりません。それならば、これを弘めた第一回のお弟子さんである御開山日興上人が、僧の宝にならなければなりません。ここに同じ南無妙法蓮華経を唱えていても違いがあります。ですから、教相と観心という立て分けをしませんと、末法の仏法はわからないのであります。
われわれも同じことであります。われわれの生命というものは、だれがこしらえたというものではありません。おとうさんとおかあさんとで生命をつくったと思うのは誤りであります。
われわれの生命というものは、無量無辺百千万億那由佗劫という、いやそれよりも先からあるものであります。ですから、われわれも、どうせ死ぬでしょうが、お気の毒ですが、また生まれてこなければならないのであります。この世の中へ、また生まれてきて、また死ぬ、また生まれてこなければなりません。それがために、仏法ということを、やかましくいうのであります。いわざるをえないのであります。
死んでしまえば、おしまいだというのなら、仏法は必要はないことになるではありませんか。
この生命が永遠だと叫ぶ、永遠であるから御本尊をきちんと拝んで、仏の境涯をつかまなければいけないとやかましくいうのであります。
もしも「めんどうくさい。なんだっていいではないか。私は死んだら、それっきりだ」という人なら、そう貧乏したり、苦労して生きている必要はないではありませんか。さっさと死んだらいいということになります。
そのかわり、自殺なんかしてごらんなさい。この肉体というものは、法の器と申しまして、仏からの借り物になっております。仏の入れ物を勝手にこわすのですから、生々世々に貧乏に不幸に生まれてきます。世の人々は、そんなことはないというかもしれませんが、かならずあるというのです。知らないことは、無いというのではありません。みんな、自分の背中を見たことはないでしょう。見たことがないから無いというわけにはいかないのであります。
知らないのと、無いのとは違います。われわれも、この次また生まれてこなければなりませんが、あきあきしたでしょう。四畳半あたりに、家族五人も暮らして、また生まれてきて、それをつづけるつもりでしょうか。借金だらけで返せないで、フウフウしている、満足に飯も食えない、中には、男と生まれて女房に着物の一枚も買ってやれない者がおります。
ですから信心して、この題目の数だけは未来世の時、福運になるのですから、きちんと積んでおいて、今度生まれてくるときには、生まれてきたとたんに、自動車の五台ももてるような福運をもって、生まれてきたい。それがために、信仰するのであります。だれの生命も永遠なのであります。これが如来の秘密であります。われわれが、そう思うと思わないとにかかわらず、そうなのですから、しかたがありません。
一生懸命に信心して、今度は、大いなる福運をもって生まれてきたいものであります。