教相と観心
この寿量品を朝晩読む意味でありますが、この法華経の読み方に二種あるということは、前にもよくいっておりますが、
釈尊の仏法の立ち場から読むのを、教相といいます。
また日蓮大聖人の悟りの境涯で読むのを、観心といいます。
教相と観心と立て分けて読みませんと、日蓮大聖人の仏法における寿量品の位置がわからなくなってくるのであります。
釈迦仏法の立ち場からみますと、東洋において、法華経の解釈では、天台の右に出るものはありません。天台は、実によく法華経の説明をしております。ところが、世界じゅうの人が全部それに迷っております。天台の説明の仕方は教相であります。像法の時には、あれ以外にやりようがないのであります。末法になって日蓮大聖人がお読みになっているのは、観心の読み方であります。それが御義口伝と、本因妙抄と、百六箇抄、この三部の御書を、はっきりと胸にたたんで法華経をみれば、初めて天台の読み方と、天地雲泥の相違があることがはっきりするのであります。
「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という御書は、日蓮大聖人の御書の中で、もっとも重要なものであります。この御書の読み方は「如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄」であります。この読み方が大事なのであります。日寛上人は、はっきりと、この読み方を決定されておられ「の」の字を、わが形見とも思えとおおせられております。
なぜ観心本尊抄と読むかといいますと、今われわれが拝んでいる御本尊は、観心の本尊なのであります。そうしますと、他の本尊はどうかということになります。邪宗身延派などで拝んでいる釈尊の像は教相の本尊というのであります。
教相・観心ということを、別に立て分けてみますと、文上・文底ということになります。
今から読むところは、五百塵点劫というところでありますが、これは久遠実成の釈迦如来と仏法上ではいっておりますが、五百塵点劫に成仏した久遠実成の釈迦如来は、文上の釈迦如来になるのであります。教相の本尊になります。
文底となりますと、久遠元初の自受用報身如来、久遠元初の釈迦如来となるのであります。久遠元初の釈迦如来と申しますと、観心の本尊、観心の仏になるのであります。ここの立て分けがはっきりしませんとはじめ教相で読み、次に重ねて観心で
読みますから、読みましても、混乱してしまうのであります。
久遠実成の釈迦如来は、脱益色相荘厳の仏というので、文底の仏になりますと、下種益の仏、下種凡夫のお姿の仏になる
のであります。釈迦仏法と日蓮大聖人の仏法とに、はっきり立て分けがあります。
今、この題号を妙法蓮華経如来寿量品と読むに当たりましても、教相の上で読みますと、如来というのは、あらゆる仏を指すのであります。寿量とは、功徳を量るということですから、あらゆる仏が妙法蓮華経から出生している、その一切の仏の功徳を量るという意味であります。
ところが、先ほど申し上げましたように、日蓮大聖人は御義口伝において、不思議なことに、寿量品のところだけ「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」とおおせられております。日蓮大聖人が、文底、観心のお立ち場で、お読みになったところでありますから、南無妙法蓮華経の如来の功徳を量るのであります。日蓮大聖人が、この寿量品をお読みになっておられる御境涯は、南無妙法蓮華経の如来寿量品として、お読みになっているのであります。
ですから如来秘密、神通之力とあるのは、南無妙法蓮華経の如来の秘密、神通の力と読まなければいけないのであります。こう読みますと、この如来の秘密とは釈迦如来滅後二千二百三十余年の間、いまだかつて説かざる三大秘法の御本尊であります。その御本尊の神通力といいますと、貧乏人を金持ちにし、病める者をなおし、最後には、われわれのようなくだらぬ凡夫が、仏の境涯に到達する、成仏するという神通の力があるというのであります。