妙法蓮華経如来寿量品第十六の講義
本門と迹門
法華経は二十八品からなっておりますが、序品第一から安楽行品第十四までの十四品を迹門、従地涌出品第十五から普賢品第二十八までを本門と申します。
法華経の迹門というのは、垂迹門すなわち迹仏の教えの門であります。本門というのは、本地門すなわち本仏の教えの門であります。迹仏というのは、歴史上の釈尊のことで、三千年前にインドに生まれ、修行した結果、三十歳のとき菩提樹の下で初めて仏になったのであります。この釈尊を「始めて正覚を成じた仏」(始覚の仏)といいます。
ところが、法華経の本門では、迹門の仏は、実は、五百塵点劫という遠い昔に仏になっていた本地の仏が、垂迹という姿で、この世に三千年前に出現したのだといっております。
この五百塵点劫(久遠)の仏を「本から正覚を成じていた仏」(本覚の仏)または、「久遠実成の仏」といいます。
この本門の仏と迹門の仏との関係は、ちょうど、天の月と池の水に影を映した月とにたとえることができます。これらは前に説明したとおりであります。
日蓮大聖人は、治病大小権実違目という御書に「本門と迹門の相違は、水と火、天と地ほどの違いがある」とおっしゃっているように、本門と迹門には大きな勝劣があります。ところが、身延派などの邪宗日蓮宗の中には、本門と迹門に勝劣がないという、本迹一致論の邪説を立てているのがあります。本迹一致ということは、たいへんな間違いであります。
迹門ではまだ久遠の生命観を明かしておらず、仏はまだ他方の国土にいるということをいって娑婆世界常住を説いておりません。また永遠の生命や、本因妙、本果妙、本国土妙の三妙合論を説いたのは本門であります。法華経文上といいましても、本迹は一致ではなく、明瞭に勝劣があるのであります。
それでは、なぜ身延派で本迹一致という邪説を唱えているのか。身延派というのは、十一世行学院日朝という人が、日蓮大聖人滅後、約二百年くらいたってから、身延に寺を造って、形ができてきたのであります。それまでは、あったかなかったか、わからないような貧弱なものでありました。今でいえば、霊友会や立正佼成会のような、三、四百年前の新興邪宗教であります。これをもってみても、全然、教学などはなかったということがわかります。
それで、当然、身延派を除いた他の日蓮宗では、本門と迹門との勝劣は天地雲泥であるということをいっております。
ところで、日蓮正宗ではどうかといいますと、日蓮大聖人の仏法は、まだまだ、そのような法門よりも、ずっと奥深いのであります、ですから、日寛上人は「相伝のない輩というものは、あれほど間違うのか、不相伝の輩には、わかるものではない」ということをおっしゃっております。
この法華経の本門といえども、南無妙法蓮華経という文底深秘の大御本尊に比べれば迹門になってしまうのであります。
身延派のような低劣な宗学のところは別にして、他の宗派でも本迹勝劣を立てているにすぎませんが、日蓮正宗のみが知る、日蓮大聖人の御真意は、本門、迹門ともに釈尊の法華経は全部迹門になり、文底独一の本門だけが真の本門であるということであります。
文底独一の本門というのは、法は南無妙法蓮華経、人は久遠元初の自受用報身であり、人法一箇の御本尊をいいます。
すなわち、文底の仏、無始の昔から仏であった、久遠元初の自受用身如来こそ、真の御本仏であられ、五百塵点劫に成仏した釈尊も、三千年前に成道した釈尊も、ともに迹仏となってしまうのであります。すなわち、久遠元初の御本仏は天の月であり、久遠実成の釈尊やインドの釈尊は、池の水に映った月であります。
古今の大学匠、日蓮正宗第二十六世日寛上人は、すべての仏と南無妙法蓮華経如来寿量品の如来すなわち久遠元初自受用報身如来との関係を「百千枝葉同じく一根に趣くが如し」と説かれております。すなわち文底の仏は一根であり、文上寿量品の仏は幹や枝、迹門の仏は花や葉であり、迹門や文上の仏は文底の仏に帰するのであります。
文上の仏、迹門の仏はすべて如来寿量品の如来の分身仏であり、一根から出た随他意の仏であり、釈迦仏法の人々をしてのみ歓喜せしむる仏であります。ゆえに方便品で如来の智慧を語るといえども、迹仏の分際であります。文上の仏、五百塵点劫第一番成道の仏も、また通途の如来秘密神通之力を説くといえども、文底の仏に対すれば、なお迹仏にすぎないのであります。
しかるがゆえに、法華経の仏には二種あり、文底の仏こそ御本仏であり、真の随自意の仏であり、南無妙法蓮華経であり、三世十方の仏を生み出した根源の仏であります。
それでは、なぜ日蓮大聖人の仏法からみると、迹門にあたる釈尊の寿量品を、われわれが読むのか、日蓮大聖人が読ませるのかといえば、われわれが読む寿量品は、日蓮大聖人の御内証の寿量品なのであります。たとえてみれば、学会の女子部が"憂国の華"という歌を歌っていますが、その歌が戦争のときに歌ったのと全然内容が違うのです。内容はまったく、広宣流布の歌になっています。それと同じように、われわれがこの寿量品を読むということは、釈尊の寿量品のように思えますが、そうではなくて、日蓮大聖人の読み方は、文底深秘の南無妙法蓮華経、文底の読み方になっているのであります。
方便品は所破、借文の立ち場で読みましたが、寿量品は所破、所用の立ち場で読むのであります。所破というのは、破ることで、御本尊を拝んで成仏した釈尊の寿量品では、とうてい末法の救いにはならない、南無妙法蓮華経の御本尊でなければだめだというのであります。所用というのは、文底の寿量品とは三大秘法の御本尊であるから、その文底の寿量品によらなければだめというのであります。