所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。
【所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり】
(文上の読み方)
この十如是の文は略開三顕一の文であり、一念三千の法門の出処でありますが、まだ寿量品に説かれている三世間があらわれませんので、百界千如といわれております。すなわち、ただ仏と仏のみ、いまし、よく究尽したまえる諸法の実相とは、十如是のことであります。
われわれの生命は、十界を互具して永遠に続くものであります。しかして、タバコの火が続いても、生まれ変わったなどとはいわないように、われわれの生命も、生の生命、死の生命の別こそあれ、生まれ変わるものではなく、そのまま続くのであります。
このような、われわれの精神や肉体のみならず、宇宙のあらゆる森羅万象や依正は、すべて十如実相をそなえております。すなわち、これは十界論のごとく生命の実相を説いたものでありまして、手短かにいうならば、十界をまた細分して、その実相を説いたものであります。
たとえば天の境涯と一口にいっても、おおまかな実相論であるから、これをまた深く観察するならば、十種の実相をみることができるというのであります。
このように、地獄界にしましても、人間界にしましても、餓鬼界にしましても、皆、その瞬間に、十種の生命の実相に区分してみることができます。この十種の生命観がすなわち十如是であります。
その十如是とは何かということを、簡単な例を引いて説明すれば、次のようになります。
たとえば、ある人が十万円の札束を拾ったとします。その瞬間に次のような働きがあります。
しかし、この例は生命活動の一瞬間であるということを忘れてはなりません。
如是相 拾った瞬間のその人の姿、がたちであります。
金が欲しくてたまらない餓鬼の境涯にいる人は、うれしさのため何もかも忘れ相好をくずし、夢中で喜んでいる姿になる。地獄界の人、たとえば、一人っ子が病気で死にそうな状態に悩んでいる父親が、この十万円束を拾った瞬間は、札束を拾ったのか、くず紙の束を拾ったのか、わからぬような姿で、また捨てようとするような態度であるかもしれません。
また声聞界・縁覚界の人は、自分だけは幸福でも、他人のことなどは、少しも考えない境涯の人でありますから、この十万円束を拾ったとするならば、掛かり合いになってはならない、めんどうなことが起こってはならないと思い(如是性)これを捨てて逃げようとする姿を表わすでありましょう。
このような、十万円を拾った時の喜びの姿、驚きの姿、迷惑そうな姿、気の毒そうな姿等が、如是相であります。
如是性 その時の性分であり、畜生界の人は、拾った姿を人に見られたくないと思うでありましょうし、人間界の人は、拾った物は交番に届けるのが当然だという、一般通念に基づいている心の状態でありましょう。また菩薩界の人は、落とした人が可哀想だ、早く届けてやりたいという心で、いっぱいではないでしょうか。ただ仏界ばかりは、申し述べがたいのであります。
如是体 修羅界の人は腹を立て、その場に投げようとする姿が、体にあらわれるでありましょう。餓鬼界の人は、十万円の束をしっかりとにぎりしめて、落としてはならないという餓鬼の姿を示すでありましょう。
このように、その人の性分と、その人の姿に、種々の体をなすのであります。すなわち、驚いた体、喜んだ体、当惑した体、人に見られはしないかと、あたりを見回そうとする生命体などがあるでありましょう。
如是力 畜生界の人は、のら犬が食べ物を隠れて食べるときのような力がわきでてまいります。地獄界の人は、十万円の金を持ったときも、なんらの力もそれによってわいてはこないでありましょう。菩薩界の人は、落とした人に一刻も早く届けてやりたい心で、いっぱいでありますから、その方法等について勇気凛然たる力がわいているはずであります。
如是作 前の力が働きとなってあらわれ、声聞、縁覚の人は、自分に迷惑がかからないようにしようという一心でありますから、そっと、そこにおこうとする働きが満ちみちています。畜生界の人は、十万円の金をわがものにしようとする意図の働きが満ちて、ネズミが穀物をとろうとする働き、犬が食物を盗みとらんとする働きが、そこにあらわれるでありましょう。
このように、拾った十万円を持っている、その人の瞬間には、十万円をどうすベきかという働きを保っているのであります。
如是因 その十万円を拾ったということが、何かの因になります。すなわち世の中をおもしろく愉快に暮らしている天界の人は、拾ったことが愉快で、また天界の因となります。
菩薩界の人は、拾った十万円で人を救い、菩薩行の因を積むでありましよう。地獄界の人は、十万円拾っても、あいかわらず悩みに沈んでいるだけでありますから、地獄の因を積んでいるにすぎません。これでは、幸福への道は開けないのであります。
また拾ったという、その瞬聞に、十万円を拾うべき因もあるのであります。
如是縁 地獄界の人は、拾った十万円が、また外界の縁となり、そこに、さらに悩みが起こるような縁になって苦悩を深めます。人を哀れみ、世を思う徳高い菩薩界の人は、この十万円と結んだ瞬間の縁は、落とした人々を哀れむ心から、哀れみ深い人が、ケガをした人と会ったような縁と似ているでありましょう。声聞界、縁覚界の人は、自分一人よければ、それでよいという個人主義の人でありますから、十万円を拾った瞬間に、その縁はあたかも、貴婦人がゲジゲジ虫にあったような縁に似たものではないでしょうか。
如是果 人間界の心平らかな人は、十万円を持ったということに対して、責任を感ずるような心になる果があるでありましょう。すなわち十万円拾った瞬間の心の状態が果であります。
如是報 個人主義的な声聞、縁覚界の人にとって、その十万円は不愉快をおぼえる一個の品物としての報いでありましょう。菩薩界の人は哀れみ深い人でありますから、落とした人を哀れと思い、この十万円の金は、ただ、この人を悲しませるにすぎない財ではないでしょうか。それに反して、餓鬼界の人は、落とし主がなければ一年後には十万円、落とし主が見つかれば謝礼金として一割、厳然たる金銭的価値の報いをうけているのであります。天界の人は、拾ったのもうれしく、落とした人もおもしろいといっている人でありますから、十万円の金は、よいおもちゃであるくらいの報いをうけているでありましょう。
如是本末究竟等 如是相を初め(本)とし、如是報を終わり(末)として、本末究竟して中道法相であります。畜生界の人は如是相から如是報に至るまで、一貫して十万円に執着しきっている姿で、相性体力作因縁果報まで、究竟して等しく、この状態以外のなにものもありません。修羅界の人も、如是相から如是報に至るまで、一貫して腹を立てきっている状態で、相性体力作因縁果報、みな究竟して、この姿であります。声聞、縁覚界の人は、如是相から如是報に至るまで一貫して、みな関係したくないという個人主義的な状態で、相性体力作因縁果報まで究竟して等しく、この姿であります。菩薩界の人は、如是相から如是報に至るまで、一貫して思いやり深い状態で、相性体力作因縁果報まで究竟して等しく同じであります。
(文底の読み方)
法華経というものが、なんのために説かれたのかということを、根本的につかんでいませんと、法華経は読めないことになるのであります。法華経には、御本尊のお姿やお力が書かれているのであります。御本尊を、大空中に示し、われわれの生命の中に大御本尊をこしらえるように、認めるように、教えてあるのが、法華経なのであります。そこが根底になるのであります。
しかし、誰も書き顕わせません。しかし、この法華経二十八品は、御本尊の姿の説明、力の説明以外の何ものでもないのであります。
方便品の大事なところは、諸法実相であります。あらゆる経典の中にも、実相という言葉があります。仏、釈尊という言葉にも六種類あると申しましたが、実相という言葉にも、ただありのままの姿だと、こう読んでゆく低い経文と、この文底深秘の釈尊が顕われ終われば、諸法実相の実相は、御本尊になるという経文もあります。その御本尊の中に、十如是の力もはいっております。姿もあります。十界互具の姿もあります。
みな御本尊の中に、ことごとく収め尽くされているのであります。しかも、その御本尊は、常住なのであります。寿量品の自我偈に「一心欲見仏、不自惜身命、時我及衆僧、倶出霊鷲山、我時語衆生、常在此不滅」とある、あの中に、またこの十如是の中にも全部、御本尊の御姿が認められているのであります。これを書き顕わすものがない。すっかり仏の姿を説いてあるのだけれども、ただ不思議と申しまして、天台、妙楽の一門は、摩訶止観と申しまして、自分の生命のありかたを思索して、そこから、観念観法といいますが、御本尊を自分の胸につくりあらわすのであります。これは、なかなかできないことであります。しかし、以前に釈尊に会って、あるいは前世で法華経にあって、仏の姿を見てきた人達は、ここにおいて教えられることによって、観念観法の方程式によって、胸の中にそろそろと、仏の姿、今の御本尊が胸の中に浮かんでくるのであります。しかし、これは仏像の仏ではないのであります。
日蓮大聖人の御書を拝しますと、南岳にしても、天台、妙楽にしても、南無妙法蓮華経というものを知っていた。なぜ、説かなかったかといえば、仏の付属がない、時ではない、人人に機根もない、説く生命力もない、ゆえに説かなかったのであります。
ところが、末法今時になって、御本尊を書き顕わす日蓮大聖人が出られた以上には、そういう偉大な資格をもって出られたのであります。そして観念観法もいらない、摩訶止観も読む必要ない、ただ南無妙法蓮華経を唱えておれといわれるのであります。正像時代には、過去世の縁をもって、また今世の修行によって、ここに仏像(本尊)を作り顕わすことができたけれども、今度は、そんなことをしないでいいのであります。
御本尊を拝んで、南無妙法蓮華経を唱えることによって、わが生命の中に、ずーッと御本尊がしみわたってくるのであります。目を開いて大宇宙を見れば、そこに御本尊がいまし、また、目を閉じて深く考えれば、本山の御本尊が明らかに見え、わが心の御本尊が、そこにいよいよ力を増し、光りを増してくるのであると、こう教えられているのであります。
御本尊のことを一念三千と申し上げるのであります。ですから毎朝「事の一念三千・人法一箇……」と御観念文で申し上げておりますが、この十如は、一念三千の一部の姿を説いているのであります。前に、十界はすでに説かれているのであります。また、法華経の経文の上に、十界互具は明らかに示されているのであります。そこで、十界互具、一念三千というのは、この十如是という姿がなければ、本当の実現は見きわめられないのであります。
そこで、この十如是というものは、御本尊のお姿というものを、略して説いていることになるのであります。そこで、方便品は大事なのであります。表からいえば、十如是だけです。これは教相の面であります。日蓮大聖人の御内証、観心の面から見れば、立派にこれは御本尊になるのであります。
如是相 われわれ衆生も同じでありますが、みな相をもっております。人相というものをもっております。仏にもお姿があります。迹門の仏と、本門の仏と、文底深秘の仏とは、みな相が違います。ピカピカしたアミダみたいな仏相、あんなのは考えてみたって、ウソだということがわかるでしょう。そんなウソのものを信じて、たよりにしても、しようがないのであります。
ところが、末法の御本尊、文底深秘の御本尊の如是相というものは、凡夫のお姿そのままの凡夫相でいらせられます。それが、本当の仏のお姿であります。
如是性 仏の性分をもっていらっしゃいます。日蓮大聖人は、お姿は凡夫のお姿であるが、お心は御本仏の性分であります。
如是体 そして、大聖人という御本体をつくられております。これは、御本尊についても同じくいえます。
如是力 力をもっておられます。同じ仏でも迹門の仏と、本門の仏と、文底深秘の仏とは力が違います。文底深秘、南無妙法蓮華経という力は、日蓮大聖人というお力は、あらゆる仏をつくられているのであります。
如是作 力のあるところ、必ず作用があります。働きというものであります。
如是因 作用があるのには、原因があります。日蓮大聖人が末法にお生まれになって、文底深秘の大法を説かれる因は、久遠元初に、すでに、できているのであります。
如是縁 その縁は、末法の衆生というものを縁になさっていらっしゃいます。われわれが縁になっているのであります。われわれは、釈尊に、なんにも縁がないのであります。だから、釈尊の仏法なんかでは、絶対に成仏できない、幸福になれません。そういう始末の悪いものが生まれてきた時だから、それを縁として御出現になったのであります。
如是果 よって、竜の口の御難をうけられ、仏の境涯を顕わされたのであります。
如是報 報いをうけられた。御本仏としての非常に平らかな境涯を九か年、身延の山でおすごしあそばして、仏の境涯を楽しまれたのが報であります。
本末究竟等 これを仏の姿に読みますれば、如是相という日蓮大聖人のお姿、如是性という御本仏のお心にしても、如是体という本体にしても、また、力にしても、作用にしても、因縁果報ことごとく御本仏の姿、それ自体でしょう。本も末も、究竟して等しいでしょう。それをいうのであります。ここに仮に泥棒がいるとする、その泥棒は、如是相から如是報まで、ことごとく泥棒であるのであります。それが本末究竟等、一貫しているわけであります。
御本尊と申し上げますれば、如是相も、如是性も、如是体も、力、作、因、縁、果、報ことごとく御本尊なのであります。一貫していなければだめなのであります。
如是相が仏で、如是性が泥棒で、如是体が猫だなんて、そんなふうに変わっていてはいけません。それを本末究竟等というのであります。仏は変わりません。金部、完全体で、同じであります。ところが、われわれは、そうはいきません。
諸法実相というものは、御本尊は完壁であるけれども、今度われわれの身に当てはめてみると、本末究竟等していないのであります。
そこで御本尊を拝んで、仏のお力によって、本末究竟等の生活をするようにしなければならないのであります。御本尊のお姿をここで説かれて、御本尊のあらましを示してくださっているのであります。御本尊を知らないで、読んでしまったならば、ここに御本尊の姿がほぼ顕われているということに気がつかないのであります。ここに教相読みと観心読みとの相違があります。
(別 釈)
次に、この十如是を三遍読むのは、わが身がすなわち空仮中の三諦、法報応の三身、法身・般若・解脱の三徳とあらわれることを意味します。
日蓮大聖人の法門では、拝む対象は、ただ弘安二年十月十二日にお認めの本門戒壇の大御本尊あるのみであります。
そして、修行には二つがあります。
正行として三大秘法の南無妙法蓮華経の題目を唱えるのであります。
助行として、正には寿量品を読誦し、傍には方便品を読誦するのであります。
助行とは、たとえば塩や醤油、味噌などがごはんの味を助けるような働きをするのでありますから、欠かすわけにはいかないのであります。
この方便品を読誦するときは、釈尊の法華経ではなくして、日蓮大聖人のお読みあそばされた法華経方便品として、一には所破のため、二には借文ため、読誦するのであり、当流行事抄や末法相応抄に詳しく書かれております。この方便品の講義は、教相と観心と、両方をしてありますけれども、日蓮大聖人がお読みになっておられるのは、観心の読み方であります。そのことを、しっかりと胸において読むべきであります。