止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。
【止みなん舎利弗、須らく復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯、仏と仏と、及し能く諸法の実相を究尽したまえり】
(文上の読み方)
はじめに申し上げましたように、この方便品だけは、仏が誰の問いも受けないで、はじめから「諸仏の智慧は甚深無量」といいまして、仏の境涯を賛嘆しだしたのであります。
聞かないのに説きだしたのであります。これを無問自説といいます。
それで、無問自説であり、これまで、さんざん仏の境涯をほめたたえてきながら、ここへきて「止めよう、おまえにはもう説いて聞かせぬ」といったのであります。これでは聞いている方は、あわててしまいます。
舎利弗などは、空理を悟った境涯で、自分はこれで安心したと思い込んでおります。これ以上、仏の境涯などはもらおうと思わない、また慈悲なんかないのですから、だれびとをも助けてやろうとは思わない、これを今までしかってしかってしかりぬいてきて、ここで「舎利弗、あなたも仏にならなければならないのだ。迦旃延、大目犍連、大迦葉、そのほか阿難にもせよ、あらゆる人々は、みな仏にならなければならないのだ」と説くのが、この法華経なのであります。
これまでは「あなたは菩薩でいい」「縁覚の位でいい」「声聞でいいのだ」等々、この縁覚、声聞は、二乗といいますが、菩薩を入れて三乗といいますが「あなた方は、三乗の境涯でいいのだと思っているだろうが、違うのだ。仏という境涯になるのが、本当に、あなた方が幸福になる根源なのだ、人生の根源なのだ」と説くのであります。
それで、仏の成就したもうところは、第一希有であります。仏の境涯というものは、珍しいのであります。難解の法なのであります。相手にはわからない、わかりがたい法であります。そして、仏と仏とだけが、いまし究尽するところの諸法の実相は、仏でなければわからないところのものであって、他の凡夫や、二乗の階級にはわからない法であります。舎利弗、あなたのような境涯にはわからないから、説いてやるわけにはいきません。第一、仏の成就したところのものは、希有なのであり、ありふれたものではありません。難解の法なのであります。ただ仏と仏とのみが、わかることなのであります。
(文底の読み方)
しかし、日蓮大聖人は、仏と仏とのみ諸法の実相を、いまし究尽したもうといいますが、迹仏の境涯の仏では、究尽したところのものは、いと浅はかなものであります。末法深秘の大御本尊に比べれば、ものの数ではないとおっしゃっております。
迹門では、まだまだ仏法の奥底は顕われておりません。奥底が顕われていませんから、そういわれるのも、無理はないのであります。
しかし、この文を借りて、文底の御本仏の境涯を説明申し上げるならば、大御本尊の御境涯は第一希有で難解の法であり、日蓮大聖人だけが、よくお知りになっておられて、われわれには、わからないものであるとのおおせであります。また仏と仏とのみ知っておられるとは、日蓮大聖人と、第二祖日興上人のみが、よくお知りになっておられるのであります。
しかして、日蓮大聖人は「止みなん、舎利弗、復説くベからず」との御境涯ではなくて、われわれ末法の衆生に、余すところなく、三大秘法として、お説きなされておられるのであります。
(別 釈)
釈尊は舎利弗等に向かって、
「あなた方は、みんな二乗ではないか。もろもろの執著を離れて、もう世の中はこれでいいのだと思い込んでいる。あなた方をその境涯まで引っ張ってゆくために、私は出てきたのではない。あらゆる仏が世の中に出現するのは、あなた方の持っているところの仏知見というものを開いてやろう、示してやろう、それから悟らしてやろう、そして仏の境涯というものに入らしめてやる(開示悟入)というそのために生まれてきたのだから、まず最初に仏の智慧を賛嘆するのである。それから、あなた方を導いてくるのです。
あなた方みたいなものが、何億人集まっても仏の智慧はわからない。また文殊や観音のようなものが集まっても、決して仏の智慧はわからない」といいました。
そこで舎利弗は「それで、よく、わかりました。そんな偉大な法力があるならば、私は信じます」と。これを以信得入、信をもって入ることを得たりといいます。わかってからはいるというものではないのであります。
結局、舎利弗のごとき智慧第一の者ですら、仏の智慧を賛嘆して、信をもって入ることを得たのであります。ですから、信心をもってはいらなければなりません。折伏すると、よく「わかってからやる」という人がありますが、絶対にわかるわけはないのであります。方便品の教相は、舎利弗のような、インド第一の智慧者でもわからないのであります。かろうじて、信心をもってはいることができたのだと、信心の大切なことが説かれております。
法華経方便品で三乗を破して一仏乗をあらわすということは、ちょうど学会が今、折伏でいっていることと、ごく似ております。金持ちになるのが人生の幸福である、丈夫になれば幸福である、いや、私は大臣になるのが人生の目的であると思う、いや、博士になるのが幸福であるというふうに、ただ、小目的に立った人のみであります。これは三乗を求めている衆生であります。
それを今、われわれがいいますのは
「御本尊を信じて、受持せよ。そうすれば、必ずしあわせになれる。これが人生の目的なのだ」といっているのであります。これは、誰だってわかりません。「本当かな。御本尊を拝む。御本尊を信ずる。そして、しあわせをつかむ。それが人生の目的か」と。御本尊を信じ、行じてゆくところに、人生があるのであります。それが、われわれが、本当に幸福になる大もとなのであります。