本文解釈

 

 経文の読み方には、文上と文底があります。この法華経を、もっとも深く奥底からよく読まれた方は、日蓮大聖人であられ、御義口伝等のごとく文底からの読み方をなされております。これ、日蓮大聖人の観心の仏法であります。法華経を文上から読んで、経文の文句などを、もっとも上手に解釈したのは天台大師であります。これ教相の釈迦仏法であります。

 

 末法においては、日蓮大聖人の読み方のみ学ぶべきでありますが、一応、釈迦・天台・妙楽等の文上の解釈をやりませんと、前後のつながりが解らなくなる憂いがありますから、初めに天台・妙楽等の読み方をかんたんに述べ、次に日蓮大聖人の御真意である御義口伝の読み方、すなわち文底の読み方によっていきたいと思います。

次に方便品第二の本文にはいってまいります。

 

妙法蓮華経方便品第二

爾時世尊。従三昧。安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知。

 

【爾の時に世尊、三より安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり】

 

(文上の読み方)

 前に述ベました序品第一で、釈尊は無量義処三という禅定にはいっていて一言も発しなかったのですが、いよいよ機が熟して法華経の説法が始まるのであります。

 

 その時に、仏が無量義処三(三昧とは心を一つのところに定めて仏法の哲理を思索すること)より安らかに立たれて、だれも問わないのに、自分から進んで、舎利弗に次のように告げられました。

「あらゆる仏の智慧は甚だ深く、量ることができないほど大きいものである。すなわち時間、空間において透徹した智慧をもっている。また、その仏の智慧の門は、解しがたく、入りにくい。その仏の智慧は、一切の声聞や辟支仏(縁覚)、すなわち、お前たちの、とうてい知ることができないところである……」

 

(文底の読み方)

 しからば、文底に立ち返って、諸仏の智慧は何かと読んでまいりますと、今度は日蓮大聖人の哲学上から読むことになってきます。

 その時というのは末法であります。世尊とは、すなわち御本仏日蓮大聖人であられます。三昧とは法性の淵底におられたのであります。舎利弗とは、われわれ末法の衆生、日蓮大聖人の眷属をいいます。

 

 すなわち、今まで法性の淵底に静かに休んでおられましたところの日蓮大聖人が、末法の時、この娑婆世界、日本の国にご出現になられて、われわれに、次のように告げられたのであります。

 諸仏の智慧とは南無妙法蓮華経、すなわち人法一箇境智冥合の智慧をいいます。甚深無量とは縦に遠く横に広いことをいいます。時間的には永遠であり、空間的には大宇宙それ自体の広さなのであります。南無妙法蓮華経の境涯は甚深無量であります。

 その智慧の門とは、南無妙法蓮華経へ入る信心の門であります。南無妙法蓮華経とは、もちろん三大秘法の大御本尊を指します。その信の門は難解難入すなわち、なかなか、御本尊を信ずることができないのであります。

 

 その証拠に、われわれがいくら折伏しても、なかなか相手が聞かないのであります。一切の声聞や辟支仏(縁覚)すなわち、世に学者やインテリなどといわれる利己主義者たちは、自分だけの狭い悟りに執著し、御本尊を知ることができないのであります。

 

(別釈)

 これが文上と文底の読み方でありますが、一つ一つについて、さらに説明してまいります。

 

「爾の時」という時とは、ふつう、われわれの用いる二時、三時、何時、春の時、時間などというのとはちがって、仏法上で用いる時であります。すなわち「爾の時」とは、オトギ話でいう「ある時に兎と亀がおりました」などというのとちがいます。衆生がいて仏を感じ仏に説法してもらいたいと感じた時に、仏はそれに応じて現われて説法した時と読むのであります。これを文上から読めば、釈尊の場合には、声聞、縁覚の二乗を仏にする時であります。また仏法用語の時は、三時すなわち正法の時、像法の時、末法の時というように用いております。

 また、これを文底から読めば「爾の時」とは末法において、御本仏日蓮大聖人が、われわれ末法の衆生の機が、仏を感ずるのに応じて、われわれの苦悩を救われるために御出現になり、三大秘法の南無妙法蓮華経を説法なさる時であります。

 

「世尊とは仏のことですが、仏には蔵教の仏、通教の仏、別教の仏、法華迹門の仏、法華本門文上の仏、法華本門文底の仏という六種類があることは、前にも述べました。しからば、このときの「世尊」とはいかなる仏かといえば、文上から読めば、三千年前に十九歳のときから十二年間の修行によって三十歳で仏になった、法華経迹門の釈尊となります。この迹門の釈尊は三千塵点劫の昔には、大通智勝仏の第十六王子として出現しているのであります。次に文底から読むならば、この「世尊」は法華本門文底の仏すなわち久遠元初という無始の大昔から本仏であられ、七百年前に日本国に出現なされた日蓮大聖人であります。

 

 前に方便品を読むのに所破と借文の二義があると申しました。この場合に、日蓮大聖人が「爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず……民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんや……」とおおせらるるごとく、迹門の釈尊ではダメだと破折して読むのが所破であり、この「世尊」とは観心の仏法からみれば、日蓮大聖人であると読むのが、借文になるのであります。以下、同じように読めるのであります。

 

「三昧」とは梵語であり、訳せば定、正受、正心行処、等持、等念などといい、心を一つのことに定めて動かさず、仏法の哲理を思索することであります。文上では迹門の釈尊が序品第一で無量義処三昧にはいっていたのであります。無量義処三昧というのは無量義経に説かれている「無量義とは一法より生ず」という仏法の哲理を深く思索している状態です。

 

一法とは三大秘法の南無妙法蓮華経のことであります。すなわち「一切法これ仏法なり」われわれの人生や宇宙のあらゆる現象は、南無妙法蓮華経の一法より生ずる、われわれの根本を御本尊におくということであります。

 

 文底からみれば、日蓮大聖人が法性の淵底、すなわち無始無終の大宇宙において、南無妙法蓮華経を唱えられ思索される三昧にはいっておられたのであります。

 

「舎利弗」とは、釈尊の声聞の弟子で、釈尊の十大弟子の第一の人であります。当時のインドで智慧第一といわれていた人であります。りっぱな人でありましたが、また一面怒りっぽい人であったともいわれております。法華経迹門方便品の対告衆となり、成仏して華光如来という名を与えられました。

 

 文底から読めば舎利弗とは、われわれ末法の衆生をいいます。われわれに日蓮大聖人が説法なされたのであります。われわれは御本尊を信ずるゆえに、以信代慧すなわち、信をもって智慧にかえることができて、智慧第一となるのであります。

 

「無問自説」次に釈尊が、みんながだれも質問しないのに、みずから「諸仏智慧、甚深無量……」と説き出す説法の方式を「無問自説」といい、そのほかに、このような説法のやり方に十二の方式がありますので、釈尊の経典を十二部経と呼んでおります。

仏が説法するときには、必ず四種類の衆生が集まっております。釈尊の経典を読みますと、いつでも「四衆に囲繞せられ」とあります。

 

 その四衆とは発起衆、影響衆、当機衆、結縁衆という四種類の衆生をいいます。

 発起衆というのは、仏に対して説法を請い、あるいは疑問をだしたり、問答などを起こして、仏の説法を発起させて化導を助ける人をいいます。すなわち質問会などで質問を起こす人であります。

 次に当機衆といいまして、その場で、仏の説法を聞き、教えをうけて「ハハーン」とわかる人です。

 結縁衆といいますのは、そこで縁を結んで、それから未来に悟っていく人です。

 それから影響衆といいまして、仏のそばに従っていて、その仏のりっぱなことを証明する役目の衆生がいますが、そういう人をいいます。

 

 たとえば、舎利弗尊者や弥勒菩薩が、仏に質問をしますから、これは発起衆です。文殊や、観音や、妙音という菩薩たちは、他の仏土から釈尊の仏法を助けにきているのですから、影響衆であるというわけであります。

 

 この中で、発起衆というのが、大事であります。よく質問会なんかで、何か質問を出して聞きますが、その人が発起衆にあたるわけであります。その聞き方が上手か下手か、まじめかふまじめかで、質問会の内容がきまってきますから、発起衆というのは、大切なものになってまいります。

 

 釈尊の経文は説法のしかた、すなわち経文の形式によって、十二に分けられます。それで十二部経といわれるのであります。普通は発起衆が仏に問いを発して、ついで四衆に説法するというやり方ですが、この場合は無問自説という十二の中の一つの形式で、発起衆が質問しないのに、仏がみずから仏の智慧を讃嘆して教えを説くというやり方をしております。

 

「諸仏智慧、甚深無量、其智慧門、難解難入」文上では諸仏の智慧は甚だ深く無量に広いものであるというのは、仏の実智(仏界の智慧)を歎じていると説きます。また、その智慧の門は解しがたく入りがたいというのは、仏の権智(九界の智慧)を歎じていると説きます。また、あらゆる仏の智慧は甚深であるとは、縦に深い時間を説き、無量は横に広い空間を説いておりますから、時間、空間において透徹している智慧ということであります。

 

 また、天台では「其智慧門」の「其の」とは仏の因で「智慧」とは仏果であると説きます。その仏になる智慧の門を道前、中を道中の境涯と説いております。また「難解難入」の解は初住の位、入は十地の位と説いております。

 

 文底から読めば、諸仏智慧とは南無妙法蓮華経、すなわち御本仏日蓮大聖人の智慧であります。門の仏の智慧が甚深無量ではなくて、南無妙法蓮華経の智慧こそ、はじめて甚深無量ということができるのであります。また其の智慧の門というのは、信心の門であります。折伏しても、なかなか聞かないのですから、難解難入なのであります。信心できれば、信をもって慧にかえるゆえに智慧の門であります。

 

「一切声聞、辟支仏、所不能知」一切の声聞や辟支仏の知ることができないところであるというのです。辟支仏とは縁覚のことです。長い間修行を積み、智慧第一といわれた舎利弗等に、おまえたちの知ることができないところであると、はねつけたのであります。

 声聞乗と縁覚乗とを二乗といい、そのいやしい心を二乗根性といっております。声聞とは仏の教えを聞いて世の中の無常を感じて悟ったと思っているもの、縁覚とは世間のことを縁として無常を感じて、ひとり悟ったと思っているものであります。

 

 この二乗は自分達だけ悟ればよいと思い、また自分達だけ、この苦しい世の中をのがれて、苦しみのない世界にいきたいと空想している、いやしい根性の連中であるだけに、権大乗経で徹底的に嫌われてきた人達であります。

 

 文底から読めば、信心のないものは絶対に南無妙法蓮華経の境涯、そのすごい功徳、すばらしい生命哲学はわからないというのであります。信心して初めてわかるのであります。

 

 とくに二乗というのは、今でいえば、浅い哲学や科学をもって悟ったと思い、自分のことしか考えられないような心をもつ学者階級、インテリ階級をいうのであります。こういう人達は、もっともわからない連中であります。

 

 今の学者で、科学、科学といって、科学万能のように思っている者にはわからないのであります。日本の国は、徳川幕府崩壊以来、約百年、その間、日本が非常に科学が遅れていたために、もう一生懸命に、科学、科学と進んできたのであります。世界中も、もちろんそうですが、科学万能ということになって、この大事な東洋の哲学、われわれの生命の哲学を忘れてしまったのであります。

 

 電気を例にとっても、すごく利用されております。じつにいたれりつくせりであります。これ以上、何も発明してもらいたくないくらいです。電気洗濯機も便利でしょう。テレビも便利でしょう。ですけれども、理屈では文明は幸福をもたらすというが、買えなければかえって不幸を感じます。友達が買って、自分が買えなかったなどというと、腹が立ってきます。原水爆などという、迷惑なものまで発明しているのでは、かえって不幸を増しているのではないでしょうか。われわれは絶対に科学を否定するわけではありません。いいものだけれども、科学が発達すると、ただちに人類の幸福を増す、という考え方を否定するのであります。

 

 今から二百年前に、百姓をしていた人の幸福と、われわれの今の幸福と、どっちが幸福か、考えてみればよいでしょう。

 

 われわれの幸福というものは、本当の生命の哲学がはっきりしてこそ、初めて得られるのであります。御本尊を拝んでこそ、本当に幸福になるのであります。それを、科学だ、学問だなどといっている者は「一切声聞、辟支仏、所不能知」にあたるわけであります。こういう人達は「信心なんか、おかしくてできない」などというでしょう。「南無妙法蓮華経なんて、恥ずかしくていえない」などというでしょう。今、信心しているわれわれでも、前はそうだった人が、大部分です。

 

 ある有名な小説家の方ですが、子供さんがいよいよ死ぬか生きるかという時に、信心しましたので、護秘符をいただかせて「きちんと拝みなさい」といったら、恥ずかしいものだから、書斎に鍵をかけて、その中でお経をあげたというのです。なかなかこの声聞・縁覚の人というものは、南無妙法蓮華経の境涯を知ることあたわざるものなのであります。つまらない理屈をいう人ほど、わからないのであります。