なぜ方便品・寿量品を読誦するか

 

 法華経二十八品、またその中に含まれる方便品・寿量品は、その文のままを読めば釈尊の法華経であります。この読み方

を文上といい、釈尊や天台大師すなわち釈迦仏法の読み方であります。

 

 日蓮大聖人が、この釈尊の経文を読む理由に、二つあります。方便品を読みますのは、所破、借文のためであります。

 

 所破といいますのは、釈尊の仏法は末法の仏法ではありませんから、全然役に立たないのであるという意味で、破折して読むのであります。借文といいますのは、この方便品の文を借りまして、日蓮大聖人の悟りの境涯、南無妙法蓮華経の御本尊の功徳を顕わすのであります。

 同じく寿量品を読みますのは、所破と所用という意味からであります。寿量品の文底には南無妙法蓮華経が秘し沈められておりますから、それを用いるのが所用であります。

 

 いずれにしましても、日蓮大聖人が法華経を読まれるのは、釈尊が説いた法華経を、そのまま読むのではなくて、末法の御本仏という御境涯で「予が読むところの迹門」「予が内証の寿量品」とおおせられ、文底からの読み方なのであります。

 

 この読み方をなされているのが、日蓮大聖人の法華経講義を二祖日興上人がお書きとめになられたところの「御義口伝」なのであります。

 

 法華経の文上の講義であるならば、日蓮大聖人が「法華経の智解は天台・伝教に及ぶことなし」とごけんそんなされたように、天台や伝教によって、微に入り細にわたり、ことごとく完成されているのであります。しかし、末法の御本仏たる日蓮大聖人の文底の読み方からすれば、非常に、まだまだ低級であって、末法のわれわれを利益することはないのであります。

 

 しかるに、現在の邪宗の輩の法華経講義といえば、本多日生氏にせよ、小林一郎氏にせよ、織田得能氏にせよ、いくら外面だけをかざったにしても、ことごとくこれ、天台流に釈尊の爾前権経の教えを加えたような、低劣な講義なのであります。ところが、彼らは天台流の読み方に慣らされておりますから、日蓮大聖人の文底仏法の立ち場で、法華経講義をいたしますと、もう、ビックリして、あげくのはてに、悪口までいたします。これは実に愚かな考えで、絶対の間違いであり、恐ろしい破仏法なのであります。

 

 ゆえに、われら日蓮正宗の信心をなすものは、絶対に、これらの天台流の法華経講義は読んではなりません。読んだら、ひどいめにあいます。もし、日蓮大聖人の仏法の奥底に達せずに、それら天台流の講義を読んで感心するならば、身は日蓮正宗の信者でありながら、心は天台の弟子になるという、大きな謗法を犯すことになるのであります。ゆえに、日蓮大聖人の御書のわからない間は、天台の勉強をしてはあいならんとおっしゃって、御開山日興上人が二十六箇条の遺誡置文(御書全集一六一八ぺージ)の中に、きちんと現在のわれわれを誡められておられます。

 

すなわち「一、義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事」とおおせであります。

 

 もし本当に正しく法華経を研究しようと思うのならば、よろしく日蓮大聖人の相伝書である「百六箇抄」「本因妙抄」「御義口伝」等によって読むベきであります。