妙法蓮華経について
釈尊の出世の本懐
この法華経(妙法蓮華経のこと)と申しますのは、釈尊が十九歳の時に出家し、十二年間の修行によって、三十歳のとき仏になっていらい、四十二年目にはじめて説いた釈尊出世の本懐の経文で、八年間かかって説いたといわれております。
法華経といえば、まず釈尊のことを話さないわけにはいきません。
仏教史の上からたずねてまいりますと釈尊になりますが、仏法の悟りの面からいいますと、釈尊は本仏ではなく、垂迹化他(すいじゃくけた)の仏、すなわち迹仏になるのであります。また釈尊は過去の立派な仏でありますが、今末法の時代においては、われわれを利益する力は少しもありません。今、釈尊を用いている人は、ちょうど腐って毒の作用をするご飯を食べているようなもので、邪宗徒といわざるをえないのであります。
釈迦というのは、当時のインドの種族の名前であります。その釈迦族の一番の聖者・賢人という意味で、仏をば牟尼(賢人の意)といい、正式に呼ぶときには釈迦牟尼世尊といいます。
釈尊が十九歳の時から、六年ずつ十二年間、難行・苦行をいたしまして、仏の境涯を得たわけであります。
釈尊は浄飯王の子でありましたが、その王子が難行・苦行に出るというので、父の王は憍陳如(きょうじんにょ)等の五人の仲間をつけて修行にだしました。ところが、当時の修行法といいますのは、実にムチャクチャでありまして、石の上にすわって何日間も断食したり、ご飯も食ベないで思索するというような、色々の苦行を重ねました。
しかし、このような十二年間の修行でも悟れず、人生の問題とか、世界観の問題を思索するのに、からだが疲れて、どうしても思考する力を失ってしまう。そこで、釈尊は、ちょうど、ある娘がもってきた牛乳のおかゆを受けて食ベました。
ところが、五人の仲間は、釈尊が堕落したものと思い「瞿曇(釈尊の名)沙弥は邪道におちて、断食を中断した。こんなものと、ともにはおれない」といって立ち去りました。
釈尊は、ほどよく食べ、眠り、まじめに人生を思索しました。しこうして、色々な難問題を考察していくうちに、ある朝、丑寅の時刻に、天の一方に明星がきらめいた、そのきらめいた瞬間に、ハッと悟りました。これを仏法では刹那成道といっております。 これは東洋の演繹哲学の根源であり、本当の大宇宙の悟りそのものを得たわけであります。西洋の哲学は帰納哲学であります。
それでは、何を悟ったかといえば、それは、いってしまえば、簡単です。しかし、われわれ凡夫が、それを悟ろうとして、これから百万年、二百万年思索しても、悟れないことであります。それは何かといえば、自分はずっと昔、五百塵点劫という大昔に、もうすでに仏であったという、永遠の生命を悟ったわけであります。
そこで正しい仏の境地から、十界互具・一念三千という哲理を、余すところなく、わかってしまったのであります。もう、修行の必要なしとして、いかなる方法で、この哲理を教えようかと考えて、今まで十方三世に出現した仏が、はじめ三乗を説き、次に一仏乗を説いたことを思い起こし、釈尊もまず声聞・縁覚・菩薩の三つの道を教え、皆の機根が改まったら法華経を説こうと決心しました。
そして、まずその歓喜を、十二年間おそわった師匠たちは、すでに亡じているゆえに、はじめに、ともに今まで修行してきた、憍陳如等の五人の友達に説きました。彼らは、波羅奈というところにいましたが、瞿曇(釈尊の名)がきたら、迎えたり話したりす
るのを止めようと一同に申し合わせていましたが、釈尊を見るや否や、その威徳にうたれて、自然に深く敬い迎えたといいます。そこで釈尊の説法を聞いて、たちまち弟子として修行するようになりました。
そのようなわけで、波羅奈において五人に法を説きましてから、仏として敬われるようになったのであります。当時、バラモンでは、仏の出現が非常に欣求(ごんぐ)され、バラモンの聖人といわれる人々も、仏の出現を予言していましたので、その時代の人々は釈尊の説法を聞きに集まってきました。そのとき、三七、二十一日の間、はじめに華厳経を説きました。華厳経は、法華経の次に高い経ですから、みんなは、さっぱりわからない。そのように高等な仏教哲理を説きましたから、ますます釈尊の名声はあがってきたわけであります。
次に三乗を説いて、最後に一乗を説くというやり方にはいりまして、まず小乗教であるところの阿含経を説きました。
次に権大乗である、方等部、般若部の教えに移り、それらを四十二年間にわたって説き、人々の機根が成熟したとき、初めて八年間にわたり、釈尊の出世の本懐、実大乗教である法華経を説いたのであります。
小乗教といえば、律宗があり、権大乗教として、浄土宗や禅宗や真言宗がありますが、みな釈尊の仮の教えであります。
正しい仏法が現われた今では、小乗教も権大乗教も、不幸のどん底におとす邪教であります。
法華部では開経である無量義経、次に妙法蓮華経序品第一、妙法蓮華経方便品第二と説いてきまして、最後が妙法蓮華経勧発品第二十八と、二十八品を説き終わって、次に観普賢菩薩行法経という結経を説きました。開結二巻を法華経八巻二十八品に入れて、法華経十巻とも申しております。その後、死ぬ前に説きました涅槃経を入れて法華部と称されております。
経文の高さからいいますと、阿含、方等、般若、華厳、法華となり、時間的に説いた順序からいいますと、華厳、阿含、方等、般若、法華となるわけであります。
釈尊はこのようにして法華経を説きましたが、無量義経や法華経方便品第二において明らかにしていますように、法華経の極理を説いて人々を成仏させるのが、釈尊の本懐なのであり、阿含経や方等経や華厳経を説くのは釈尊の目的ではなくて、法華経を説くための方便の教えであり、権の教えとして説いてきたわけであります。
ですから、釈迦仏法の奥底は法華経にことごとく収まっており、法華経は釈尊一代の仏法の大綱、一代仏法の骨髄となっております。ゆえに法華経を理解しないで、釈迦仏法の真髄を知ることはできません。
しかして、仏法の二つの潮流である釈迦仏法と、末法の日蓮大聖人の仏法との相違を認識するには、法華経は、また大切な基礎学ともいわなければなりません。
なぜならば、今日、仏法が雑乱しているわけは、釈尊の法華経に幻惑されている輩が、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の仏法と釈尊の法華経とを混同しているためであります。法華経二十八品は釈尊の仏法であり、南無妙法蓮華経の仏法は日蓮大聖人の仏法であるということに、ここで深く留意しなければならないのであります。