善男子、第三に是の経の不思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、百千万億の義に通達し、已って煩悩ありと雖ども煩悩なきが如く

 

 すなわち第三の功徳は、第二に言ったように百千万億の義に通達して、煩悩がないというのではなく「煩悩があってもなきが如く」ものに悩まされない。煩悩をなくすのではないのです。煩悩あってなきがごとくなのです。

 

 生死に出入すれども怖畏の想なけん。

 

 また生命の問題に対して、生きるとか死ぬとかいう問題に対して、おそれというものをもたない。そういう境涯になる。

 

 諸の衆生に於いて憐愍の心を生じ

 

 皆を可哀想に思う。学会の精神と同じです。このままにしておけない、可哀想だ、なんとかしてやろうという思いが生じてくる。

 

 一切の法に於いて勇健の想を得ん。

 

 あらゆる現象界において、なんら恐れるところなく、その現象と戦いうるようになってくるというのです。

 

 壮んなる力士の諸有の重き者を能く担い能く持つが如く、是の持経の人も亦復是の如し。

 

 すもう取りの非常に強いものが、重いものを背負っても悠然と歩くように、この御本尊を持つものはなんら恐るるところなく、世の中を渡っていけるというのです。

 

 能く無上菩提の重き宝を荷い、衆生を担負して生死の道を出す。

 

 すなわち無上菩提で仏になることです。そういう大きな宝を背負って、あらゆる衆生を救おうという。また、あらゆる衆生に頼られて、堂々として衆生を救っていく境涯になるというのです。

 

 未だ自ら度すること能わざれども、已に能く彼を度せん。

 

 自分は何も仏になっていないが、人を仏にする力が出てくるという。私がこうして十功徳品を皆さんに説明すれば、私は十功徳品の功徳を全部受けているかというと、私はそれだけの功徳を受けてはいません。何もできていません。できていないが、この経文によれば、私は何もできなくてもいいのだ。こうなるということを教えてやれば、おそわったあなた方が、そのようになってしまうというのです。

 ふつうならば、先生から先に良くなってから、いったらいいではないかというでしょう。この経文の第三の功徳力というものは、おまえは何も知らない、できていなくともよい、しかしこうだということを、すなわち御本尊のことを教えれば、教えられて、そのとおりやった本人は、それによって仏になってしまう。自分ができないからと、遠慮することないから、折伏しなさいとこういうことになる。おまえは仏法を説いて、仏法に通達しているかといわれるとそうではない。こういう明らかな経文があるのだから、仏法に通達してなくとも、通達した大聖人様の話を、このようにやりなさいという資格が私にもあるのです。あなたができなくても聞く方が偉くなると書いてある。

 

 猶お船師の身重病に嬰(かか)り、四体御(おさ)まらずして此の岸に安止(あんし)すれども、好き堅牢の舟船(しゅせん)常に諸の彼を度する者の具(ぐ)を弁ぜることあるを、給い与えて去らしむるが如く

 

 これはたとえ話です。仏法で常に説かれているのですが、法譬といって法をたとえて話すのですが、どういうわけで、自分が知らないで相手を救えるというのかというわけです。それは丁度ここに船がある。この船頭さんが病気で船が動かない。これが南無妙法蓮華経の船である。それで来たものをこの船に乗せて、そこにカジがある、ここに櫓がある、そこに帆があるから、こうやってみなさいと教えて、向こうへ渡らせてしまう。このように、あなたも私も仏法のことはわからない。まだ悟ったなどというわけにいかない。悟らないが、経文にはこう書いてあるでしょう、あの人はこう言ったでしょう、と教えてそのとおりにやらせていけば、きちんとできてしまう。ですから、教える方は病気の船頭さんみたいなものだというのです、こういうことがはっきりわかれば、組長さんはあわてることはないでしょう。今の組長さんは病気の船頭さんみたいなのです。「おれはちっとも知らないが、南無妙法蓮華経といえばいいんだ、やりなさいよ」と言えばいいのです。

 

 是の持経者も亦復是の如し。五道諸有の身百八の重病に嬰り、恒常に相纏わされて無明、老、死の此の岸に安止せりと雖も、而も堅牢なる此の大乗無量義の能く衆生を度することを弁ずることあるを、説の如く行ずる者は、生死を度することを得るなり、善男子、是れを是の経の第三の功徳不思議の力と名づく。

 

 今と同じです。めんどうな言葉ですが、ちょうど船乗りみたいに、大乗経典つまり南無妙法蓮華経という船を使ってするから、楽に人を救うことはできるということです。

 

 善男子、第四に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、勇健の想を得て、未だ自ら度せずと雖も而も能く他を度せん。

 

 勇健すなわち生命が強まる。だから自分がまだ悟らなくとも他を悟らす力が出てくる。

 

 諸の菩薩と以って眷属と為り、諸仏如来、常に是の人に向って而も法を演説したまわん。

 

 第四の功徳になりますと、折伏を行ずるのです。勇健の想いをなして折伏を行ずるようになれば、あらゆる菩薩が友達になる。御本尊様がきちんと幸せな生活の直道を教えてくださる。

 

 是の人聞き已って悉く能く受持し、随順して逆らわじ。

 

 御本尊様の悪口なんかいわない。さからわない。

 

 転(うた)た復(また)人の為に宜しきに随って広く説かん。

 

 またよろしきに従って、相手に応じて折伏をやっていくと。

 

 善男子、是の人は譬えば国王と夫人と、新たに王子を生ぜん。若しは一日、若しは二日、若しは七日に至り、若しは一月、若しは二月、若しは七月に至り、若しは一歳、若しは二歳、若しは七歳に至り、復国事を領理すること能わずと雖も、已に臣民に宗敬せられ、諸の大王の子を以って伴侶とせん、王及び夫人、愛心偏に重くして常に与みし共に語らん。所以は何ん、稚小なるを以っての故にといわんが如く、善男子、是の持経者も亦復是の如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して、共に是の菩薩の子を生ず。若し是の菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句、若しは一偈、若しは一転、若しは二転、若しは十、若しは百、若しは千、若しは万、若しは億万恒河沙無量無数転せば、復真理の極を体ること能わずと雖も、復三千大千の国土を震動し、雷奮梵音をもって大法輪を転ずること能わずと雖も、已に一切の四衆、八部に宗み仰がれ、諸の大菩薩を以って眷属とせん。深く諸仏秘密の法に入って、演説する所違うことなく失なく、常に諸仏に護念し慈愛偏に覆われん、新学なるを以っての故に。善男子、是れを

是の経の第四の功徳不思議の力と名づく。

 

 ちょうど王様と皇后様とのあいだに王子様が生まれ、ところがその王子様は、まだ七日か一年か七年で、王様と皇后様は非常にかわいがって大事にする。それはなぜかというと小さいから、赤ちゃんだからかわいがると、こういうのです。

 それと同様に、諸仏の国王というのは大聖人様です。御本尊様は御夫人になる。人法一箇の御本尊から菩薩の日興上人、そしてわれわれが生まれてくる。われわれには大法輪を転ずることができない。三千大千世界を震骸(しんがい)するほどの力もない。その力がないけれども自然に御本尊様の慈悲で、この説くところが間違わない。慈愛につつんで、御本尊様がきちんとかわいがってくださる。

 ちょうど、たとえば、前の王様や夫人が子供が小さいからかわいがったというのと同じに、われわれは新学といわれるように、仏法の学問がごく浅いからかわいがってくれる。だから浅くてもいいことになるでしょう。だから学問がなくても信心があればいいのです。すなわち大聖人の教えをウソいわないようになるというのです。本を何回も読んでも信心がなかったならばわからないでしょう。

 

 善男子、第五に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、其れ是の如き甚深無上大乗無量義経を受持し読誦し書写することあらん。是の人復具縛煩悩にして、未だ諸の凡夫の事を遠離すること能わずと雖も

 

 この第五で、はじめて在世、滅度といって、仏の滅後、正法、像法、末法の衆生に強く力を入れているのです。

 前の方は釈迦在世を強くいっているのです。これよりあとの功徳は、釈迦滅後の功徳を強く言い出している。この世の中というものは、具縛(ぐばく)煩悩すなわち煩悩にしばられて、この凡夫の域を脱することはできないというのです。

 

 而も能く大菩薩の道を示現し、一日を演べて以って百劫と為し、百劫を亦能く促めて一日と為して、彼の衆生をして歓喜し信伏せしめん。

 

 ところで、具縛煩悩の身で凡夫地にありながら、百劫に一日を延ばして何億万年に、何億万年を縮めて一日にして、あらゆる衆生を喜ばせ、歓喜せしめるようになるという。これは生命観です。

 この中に、お年寄りの方がおられると思いますが、若い人にはまだこの感じは出ないと思いますが、六十とか七十の人がお考えになってごらんなさい。昔のことを振り返って考えた時、昔のことなど一日のようでしょう。なぜといわれてもわからないでしょう。

 私も五十七歳になりますが、何をしてきたかわかりません。ただ夫婦ゲンカと、貧乏したことがちょっと記憶に残っているぐらいなのです。(笑い)

 五十七年夢のごとしです。この五十七年を少し延ばして、前の世のことから考えれば同じようなものです。そうしたらあわてることはないのです。これから先が長いと思うと楽しみがあります。この次には男になど生まれてこないで、すごい美人に生まれてこようと思っております(笑い)。そうなると百劫を縮めて一日とし、一日を延ばして百劫とする、大宇宙の生命観に対して、本当の安心立命を持つということはたいしたものではないですか。