無量義経十功徳品第三講義

 

 善男子、汝、寧ろ是の経に復十の不思議の功徳力あるを聞かんと欲するや否や。大荘厳菩薩の言さく、願わくは聞きたてまつらんと欲す。仏の言わく、善男子、第一に、是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ

 

 これは無量義経十功徳品第三の要だけをいっているわけですが、この御本尊には十の不思議な力がある、それをあなた方は聞こうと欲するか、対告衆は大荘厳菩薩で、願わくばこれを聞きたいという。

 この十功徳品は、観心本尊抄、開目抄等を拝し奉って、これを思い合わせますと、歴然とした大御本尊の功徳を称歎したものであり、証明したものです。

 

 それでまず第一の功徳は菩提心。仏になろうという心をもたせる功徳がある。

 

 慈仁なき者には慈心を起さしめ

 

 これは慈悲の慈です。よく愛という言葉が、慈悲という言葉と非常に似ているように、普通では思われているが、そうではない。愛とはばく然たる言葉です。仏法上の慈悲というものは、慈と悲とに分けるのです。「慈仁なき者には慈心を起さしめる」慈とは人々に喜びを与える心だという。御本尊を拝んでいれば、人を喜ばせてやろうという心のないものには、人を喜ばせる心を起こさせる。

 

 殺戮を好む者には大悲の心を起さしめ

 

 また生き物でもなんでも殺すのが好きなものには、大悲の心を起こさせる。悲というのは相手の苦しみをとることが慈悲の悲です。

 

 嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ

 

 やくということは相手がいいからやくのです、友達が金持ちだ、彼はいいなと……。これが夫婦の場合だと、この経文は困ります。夫が他の女の人が好きだと、それでやきもちやいたと。だが亭主が喜んでいるのだから、いっしょに喜んでやれというのは困る。(爆笑)

 

 愛著ある者には能捨の心を起さしめ

 

 物をなんでも惜しがって離さない者、そういう者には捨てるという気を起こさせる。

 釈迦仏法では、この慈悲喜捨の四つの修行ということは、たいへんなことなのです。慈悲を起こし、相手の喜びに従い、わが愛著を捨てるということは、釈尊の仏法ではたいへんだが、十あるうちの最初の功徳なのです。

 

 それが自然に、御本尊を拝むだけで得られる。修行はいらない。

 

 諸の樫貪の者には布施の心を起さしめ

 

 ここからは六波羅蜜になります。欲張りな者は、御本尊を拝んでいれば、自然に人に物をやるような気持ちになるという。全然、自分でぜひそうしようと思わないで、ひとりでにそうなる。

 

 慢(きょうまん)多き者には持戒の心を起さしめ

 

 いつも自慢ばかりしている人がいるでしょう。そういう者には、みずから戒める心を起こさせる。

 

 瞋恚(しんに)盛んなる者には忍辱の心を起さしめ

 

 瞋恚とはおこりっぽいことです。おこりっぽい者に忍辱、すなわち忍ぶ、腹を立てないという心を起こさせる。

 御本尊を拝んだだけでそうなる。しよう、しようと努力してではないのです。功徳なのです。

 

 懈怠(けたい)を生ずる者には精進の心を起さしめ

 

 なまけ者には、一生懸命商売に励む心が起こってくるという。

 

 諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ

 

 心が散乱している者、心が一所にじっとしていない者は禅定、一所に心が収まる気持ちが出てくる。

 

 愚痴多き者には智慧の心を起さしめ

 

 バカにも智慧が出てくるのです。

 

 未だ彼を度すること能わざる者には、彼を度する心を起さしめ

 

 彼を度するとは折伏です。度するということは救うということです。折伏する心のない者には、折伏をする心を起こさせる。

 

 十悪を行ずる者には、十善の心を起さしめ

 

 十悪というのは口と心と身の十の悪業です。身口意に十の悪を具えている人に、十善の行をする心を起こさせる。

 

 有為(うい)を楽(ねが)う者には無為の心を志(こころ)ざしめ

 

 有為とは、この世の中のわれわれの生活に起こる事件をいう。無為の心を志(こころざ)さしめ、というのは仏法の世界を願う者にさせるというのです。

 

 退心ある者には不退の心を作さしめ

 

 退心ある者とは退転する者です。御本尊様を拝むのをやめる者、これにやめないような心を起こさせる。

 

 有漏(うろ)を為す者には無漏(むろ)の心を起さしめ

 

 有漏、無漏とも釈迦仏法のことばですが、有漏というのは煩悩の多いこと、無漏とは煩悩がなくなった状態

す。ですから煩悩で苦しんでいたものは、煩悩で苦しまなくなってくるというのです。

 

 煩悩多き者には除滅の心を起さしむ。

 

 これは前に同じです。

 

 善男子、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名づく。

 

 以上が第一の功徳で、釈迦仏法五十年の教えを一生懸命にやった大菩薩の得た御利益が、第一の功徳として全部出てくるというのです。

 

 御本尊様を受持するだけで、釈尊の五十年の説法につき従って修行した以上の功徳があるというのです。簡単でしょう。大御本尊様にお目にかかって南無妙法蓮華経と唱えるだけで、釈尊に五十年仕えた功徳が、十あるうちの初歩に出てくるというのです。今何も好んで、釈迦仏法なんかやる必要はないわけです。釈尊が、未来の人に大御本尊様が出現したら、釈尊の仏法をやらなくても、この大御本尊様を拝めば、その第一の不思議の功徳の中に、釈尊がやらせた功徳が全部出てくるといっている。ですから不思議な功徳というのです。

 

 善男子、第二に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生あって是の経を聞くことを得ん者、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、則ち能く百千億の義に通達して、無量数劫にも受持する所の法を演説すること能わじ。

 

 すなわち、もしこの経を聞いて、もしくは一偈、もしくは一句を転ずればというのは、これは題目をあげることです。ここでは題目とはっきり言えないので、こういったわけですが、文底があらわれ終われば、全部通ずるのです。題目を唱えれば、百千億の義に通達するというのです。百千万億劫の間、自分のわかったことを説明しても説明し尽くすことのできないほど、世の中のことがはっきりわかってしまうというのです。

 

 所以は何ん、其れ此の法は義無量なるを以っての故に。(以下の講義は略されているので本文のみをかかげる)

 

 善男子、是の経は、譬えば一の種子より百千万を生じ、百千万の中より一一に復百千万数を生じ、是の如く展転して乃至無量なるが如く、是の経典も又復是の如し。一法より百千の義を生じ、百千の義の中より一一に復百千万数を生じ、是の如く展転して乃至無量無辺の義あり。是の故に此の経を無量義と名づく。善男子、是れを是の経の第二の功徳不思議の力と名づく。

 

 前の説法品で無量義というのは、一法より生ずと説かれているのですが、この一法とは、南無妙法蓮華経のことなのです。無量義経ですから一法といって、南無妙法蓮華経とは言わないのです。南無妙法蓮華経を全部根本として生じているのです。南無妙法蓮華経を全部信じ切れるようになってしまえば、あらゆるものに通達できる、何千何万年しゃべっていてもしゃべることが尽きないのだという意味です。そういう功徳があるというのです。これが第二の功徳です。