何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし
ここです。鳥の黒いのも、鷺の白いのも、皆、世の中の人間は自然だというけれども、大聖人様の御目から見れば前の世の続きであるというのです。これが本当なのです。
外道は知らずして自然と云い今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答(じんとう)して法華経の門を閉よと法然が書けるをとかくあらかひなんどす念仏者はさてをきぬ
そこで今の御書は、烏の黒いのも鷺の白いのも、みな前業のゆえである。それを外道の者は自然に黒くなったのだ、自然に白いのであるというが、これは大きな間違いであるとこうおっしゃるのです。
みなさんの中でも、奥さんをおもちの方もあるし、あるいはだんな様をおもちの方もあろうと思う。男ばかりいるのなら、女の方をうんとくさせば景気よくなるけれども、両方いるのだからうまくやらなければなりません。そうでしょう。(笑い)
女房をくさせば女の人はおこるし、だんなをくさせば男の方がおこる。そうすると、私は両方にうまく言わなければならないのです。悪い亭主を持った女房の方の身になってみれば、亭主が悪い悪いとこう言うのです。また、悪い女房を持った者は、うちの女房は悪い悪いとこういうのです。だが、よく考えてごらんなさい。そんな悪い女房もらわなければならない自分の宿命というものを考えてみなさい。またおかしな亭主をもった女房が悪いのです。なんにも亭主に罪はないし、女房に罪はない。そういうものをもった人の罪なのです。どうですか(笑い)。そうなると世の中にケンカなどありません。
ああこういう女房を持ったのかと、顔をしみじみ見て(笑い)いやあ、けっこうな女房もらったものだと思えば、南無妙法蓮華経といわざるを得なくなる。(笑い)女房の方になってみれば、この亭主はかせがないで、金もってこないで、飲んでばかりいる、そして女にちょっかいばかりかけていて、ろくな亭主ではないと、こういうのをもらうことになった自分の宿命か、南無妙法蓮華経と(笑い)。そうすれば夫婦ゲンカなんかありません。
きょうから、帰ったらケンカなんかしてはいけません。「ははん、おまえをもらわなければならんわしの宿命だと、烏の黒いのも鷺の白いのも(笑い)先業のゆえなるベしと」こういったら話がわかるでしょう。
そこで、出来の悪い女房を助けようと思って「女房よ、おまえはいかん、おまえは謗法だからそういうことになったのだ。信心をきちんとして、立派な女房になりなさい」とそういってごらんなさい。それが、ここの御書に「謗法を顕して扶けんとすれば…」ということにあたる。ところが相手はわあーッとかかってくる(笑い)。やってごらんなさい。ひっかかれても私の責任ではありません。そういう女房を持ったものの罪だから、おまえは謗法によって悪い女房になっているのだから、信心をちゃんとしなければ立派になれない。いったとたんにぶんなぐられて、その時にはかなだらいを頭の上におかなくてはいけない(笑い)。女房にすりこぎ渡しておいて(笑い)「さあ、はじめるぞ、よく聞け、俺はきよう講義を聞いてきたのだぞ」と。(笑い)
それと同じで、世の中の人々が、不幸に苦しんでいるのを助けようと思って大聖人様が、おまえたちは皆謗法だ、謗法は不幸になるからやめろ、こう言うから相手がおこるというのです。戸田も大阪に来て、阿弥陀経をやったり、天理教をやったりしているのは、それはみな不幸の原因である、そういうものをやめなさいと。ところが向こうは「戸田は、こっちの宗教をつぶしに来たのだ」と、私をなぐろうとするのです。まだそんな者はきません。なぐられそうになったら逃げる、心配しないでいい。安心したまえ。(笑い)
天台真言等の人人彼が方人をあながちにするなり、今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり日蓮が許に来て云く法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に御往生疑なしと書付て候を山僧等の流されたる並に寺法師等・善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし。
ここもまた、おもしろいことを大聖人様はおおせです。天台宗だって真言宗だって悪いのです。それを自分が方人であると、真言宗も天台宗も助けるのは日蓮であるとおっしゃるのです。これは、どういうわけかというのです。それは、天台宗は少なくとも文上では法華宗です。真言宗も権大乗経のうちでは高い経文です。阿弥陀経なんかと比べられないのだとおおせあそばしている。
またこの理論が仏法理論としては、誠におもしろいのです。佐渡の念仏僧の大将である印性房が来ていうのには、何も法然上人は法華経をやるなといったのではない。法華経をやってもいいけれどもナンマイダナンマイダと念仏をやれというのです。そうすると大往生疑い無しと法然はいった、というのです。そして、天台宗の僧侶達で、佐渡に流されて来た連中も、法然が言ったことはもっともであると言った。これをあなたはどう破るのですかと、こう大聖人様にいうのです。
こういう法然等のやりかたは楽なのです。あなた方は今まで何宗をやっていたか知りませんが、こうして私の講義を聞いていると、生まれた時から南無妙法蓮華経をやっていたような顔をしているけれども、今まで天理教だとか霊友会だとか、あるいは仏立宗だとか、あるいはナンマイダをやっていたのでしょう。それを、それはやっていてもいい、先祖伝来のはやっていてもいいから、この御本尊受けたらどうだというなら、誰だって反対しないのです。法然等のやり方はそれなのです。今までのものはそれでいいと。法華経をやりたかったら法華経を読んでもよかろう。華厳をやりたければ華厳を読んでもいい、ただナンマイダと唱えさえすれば、極楽往生まちがいないのだから、こっちをやりなさいというのです。
われわれも「御本尊様には功徳がある。だから御本尊受けて拝みなさい。神棚もはずすことはない。また先祖伝来の阿弥陀経をやっていてもいい」というのだったら、南無妙法蓮華経を別にしてしまえばいいのだ。折伏も楽です。それを法然等がやったのです。大聖人様は絶対にいけないといった。これまでの邪宗は全部捨てなくてはいけないと。それはそうでしょう。法水瀉瓶唯我与我の境涯、日興上人様は法水瀉瓶です。この水というものはきれいなものです。いつでも私は同じことを言うのですが、ここに、きれいな水があります。このきれいな水の中に、じんたんをいれると誰でも飲みます。それがウンコだとするのです。小さいのを、いいではないか一粒ぐらいはといれたら、あなた方飲みますか。香りがいいから飲もうなんていうわけにいかないでしょう。それと同じに仏法というものは清浄にして、もっとも清らかなものです。それに一粒入れて、どうだい、飲めよといわれても無理でしょう。
日蓮正宗は絶対にそういうきたないものはやめる。清浄なる法水だけでいくのです。ですから、絶対に間違いなんか起こらない。人生は幸福になるとこう断じているのです。法然のやり方などはインチキです。今の霊友会や立正佼成会や仏立宗等の邪宗と同じやり方をしている。だから念仏などやってもだめです。最初からウンコがはいっているのですから(笑い)。だからやめなさいというのです。
鎌倉の念仏者あたりだったらまだ議論もたつが、佐渡にきて印性房あたりの意見では、ぜんぜん用いるところがない。佐渡あたりの僧侶の意見では、ぜんぜんダメであるというのです。
同じく戸田城聖も大阪に来て、私は言うのです。今も幹部の人が来たから言ったのです。戸田城聖に向かって仏法の話をする気かと、私に向かって仏法の話をしたってだめです。大阪の人々なんか仏教のことを知っている者などいない。諸君らが知らない。だから僧侶が知っているわけがありません。霊友会だろうと仏立宗だろうと、一宗こぞって私に議論してこようというなら受けてやろう。堂々と受けてやろう。彼らは仏教のブの字もわかりません。それがしゃくにさわったら君ら連れてきたまえ。本部できのう面接をやってみた、大阪の人の中には生意気なのがいる。東京から幹部がくるというので、どれくらい知っているかためしてみてやろうという者がいた。
私はおこったのです。仏教の話はやめると言ってやめました。私の仏教をためすなんて生意気至極です。そんなことはやめたほうがいい。
ましてや、佐渡の僧侶が大聖人様と仏教を議論するなどと、それは無理です。ですから、はかなしはかなしというのです。ここのところはわずかですが、気をつけて読みなさい。
いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろしかかりける者の弟子と成けんかかる国に生れけんいかになるベしとも覚えず
大聖人の仰せには、こういう謗法の師匠の弟子になったのも恥ずかしい、こういう謗法の国に生まれたのもうらめしい、事実、自分に謗法があったとこうおっしゃるのです。
これは大聖人様にしてみれば、やむをえないことなのです。なぜかならば、謗法の者ばかりの国に生まれてきて、謗法を表として謗法の者を救うのですから絶対に大聖人様としては、こうおおせあそばす以外にない。ご自分の過去の謗法を押し立て、それでいっさいを救おうというのです。
会長などというと、私のことを偉い人のように思うかもしれないけれども、偉いわけがない。君らと同じに質屋に通った覚えがあるのです。この中で質屋に通わない人がいたら、よっぽど運勢がいいほうです。手形の不渡りなんてさせたら僕は名人だった。(笑い)その人間がかくも幸せになったということは御本尊のお陰でしょう。
そういうことをやってこなければ会長になれない。会長だからといって、生き仏様だとか、生き如来様だとか、教主様だとか、僕をバカにしている。私はそんな片輪ではありません。仏様とか如来様などになりはしない。立派な凡夫なのです。あなた方も地区部長になったり、班長になったりして、偉そうな顔をしたってだめです。わが輩は立派な凡夫だと、これでいいのです。立派な凡夫でなければ末法はダメなのです。生き如来様やヘマ日蓮様などになるものの顔が見たい。いたら連れてきなさい。おどかしてやります。(笑い)
大聖人様が、今、生まれてこなければ、大聖人様の仏法が広宣流布できないようなヘマな仏をつくってはいません。日蓮大聖人という御名前の御方は、ただ一人日本の国にお生まれあそばして、われわれに御本尊様という宝をくださって「さあ、この御本尊を拝みなさい。この御本尊を拝んだら、かならず幸せになる」とこう断言なすったのです。だから、われわれはそのとおりやっているのです。私は、そのやり方を教える師匠なのです。私が偉いのではない。「御本尊を拝みなさい」とこれだけです。折伏などは簡単なものです。あなた方は折伏がめんどうだ、めんどうだとぐずぐずいうけれども「御本尊様を拝みなさい」これで折伏なのです。御本尊様がお偉いのだから、御本尊様を拝みなさい。何も御本尊を持たせなくてもいいのです、わからないのだから。これは随力演説の事と法華経でもいいます。また御開山日興上人二十六箇条の遺誡置文に、随力弘通を致す可き事とおっしゃるのはそのことだけなのです。