不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし
大聖人様御自身をかえりみておっしゃっているのですが、不軽菩薩がさまざまに人々からいじめられたのも、先業のゆえである。いまわが身を考えてみれば、貧窮下賤である。旃陀羅が家よりでているのだと。しかも自分は魚鳥や、いろいろなものを食ベている。したがって、からだはけがれている。しかし、法華経を信じ受持しこれを行じているから、あたかも濁水に月が宿ったようなものである。糞の嚢の中に、金を包んでいるようなものであるというのです。御自分は一往こういう罪を受けるのも当然のことである、しかたないことであるという説明をされているわけです。
心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ
そこで、心は御本尊を信じているから、梵天・帝釈をも恐れない。だが、この肉身は凡夫の姿であるから、世間の者は大聖人様をバカにするのは、無理もないことであると、一往おっしゃっているのです。心は梵天・帝釈をも恐れない。われわれも皆、その決意があっていいのです。梵天・帝釈なにものぞや、梵天がなんだ帝釈がなんだと。
私は法華経の信者なのだ。……あんまり偉そうに行者などといわない方がよい。信者でたくさんなのです。それで向こうはちゃんということを聞くのです。私は法華経の信者である。私は今こまっている、知らんふりしてはいかん。早く助けにこい、といっていいのです。ただし題目をたくさん唱えていないときません。
又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや
さて、過去世に自分が、法華経を誹謗していたと。本当は大聖人様はしていないのです。ただ、われわれのために、われわれは謗法を持っておりますから、その謗法を滅ぼすように「過去遠々劫現在漫々の謗法」といって、御祈念申し上げます。われわれを教えるために、示同凡夫の姿で説かれているのです。この謗法で御自分がこういう災難を受けたのは、勝意比丘といって、これは喜根菩薩という正法を持った人を、さんざん悪口いった僧や、大天という仏法を乱した人の命を受けついだのであろうかというのです。本当はそんなことはありません。一往このようにおっしゃっているのです。
不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし、鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるベし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし
不軽菩薩をいじめた仲間か、あるいは寿量品に本心を失える者というておりますが、大良薬を敢えて服せずといって、すなわち御本尊様を信じなかった者というのです。
また、五千座を立つということがあります。釈尊が法華経を説こうとしたところが、上慢の比丘が、慢じて、俺はもう知っているというのです、それが五千人席を立って出て行ってしまった。自分の過去はその仲間かというのです。
あるいは大通第三の余流か。大通覆講(ふっこう)といって、大通智勝仏の説いた法華経を、後になって大通の第十六番目の子である釈迦が、くりかえして法華経を説きます。その法華経を説いた時に、すぐその場で、成仏したものを第一類という。次にその時、下種されたけれども、そのままそこでは成仏できず、その後において、四味三教によって成仏したものが第二類です。それから、成仏できずして、末法に流れ込んで来たものを第三類といいます。
その仲間であろうか。過去は自分がどういうふうに、仏法に結縁したかわからないというのです。
般泥洹経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云
当来世において、すなわちこれから先の世において、大乗を学しない懶惰懈怠にして、法華経を誹謗する悪い僧が生まれてくるというのです。どういうのが悪い僧となって生まれるのかというと、今、釈尊の出た時に外道のバラモンをやって、仏法の悪口をいっているのが、そういうふうに生まれてくるのだというのです。
そうなってくると、大聖人様の時代に良観とか、あるいは法然とかの弟子などになる連中は、いったい過去にどういう者だったかというと。昔、仏法をくさした外道の者が生まれて来て、形だけ仏法をやって、今度は正法に邪魔するのです。大聖人様を迫害した良観たちが今、生まれてきて仏立宗等の坊主になっているのです。本当です、この原理からいうとそうなります。
そうでないとしたら、大聖人様がウソついたことになります。大聖人様をさんざんいじめた悪い者が、仏立宗日扇などという徒輩になったのです。今、仏立宗の坊主などを見たら、「ああ大聖人様をいじめた者だな」とのこう思えばいいのです。
霊友会でも立正佼成会でも、天理教の教祖でも、みんなあれは仏法を、悪くいってきた者があのようになって出てきたのです。
それで今、日蓮正宗が本尊流布するにあたって、邪魔をするのです。こんど、それではどうなるのかというと、あのような連中が死ぬと、今度は日蓮正宗の中に生まれてくるのです。そして蓮華寺の僧侶みたいになってくるのです。まことにこれはおもしろいものです。それが今の議論なのです、今度はあなた方が折伏して、さんざんあなた方にたてついた者は、この次に生まれてくる時は、皆さんの家の近くに生まれてくるのです。ひどいのは下男になってきたり、下女になってきたりする。可哀想なものです。
だから折伏して言うことを聞かない連中がたくさんいたら喜びたまえ、下女と下男がたくさんふえたと(笑い)。
此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり
大聖人様は明確に、この経文に自分を恥じろといわれています。霊友会や仏立宗の連中に、ここをみせてもそうだというでしょうか、みえないでしょうし、わからないでしょう。僧侶にあったら折伏などしないで、ここのところを見せてやればいい。「此経文を見ん者自身をはづべし」のところに赤線を引いて、とんとんと三度たたいて見せてやればいい。折伏なんかしなくてもいいのです。
法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし
私が仏立宗だ霊友会だと、今あるものをいうと、戸田というのはよっぽど嫌いとみえて、悪口ばかりいうと、こういうでしょう。だが、大聖人様の今の御書をみなさい。法然の一類あるいは大日が一類と、みんなこれらは六師外道の命をもった者が生まれてきているのだと、大聖人様がはっきりとこういっている。大聖人様の方がずっと私達よりひどい。私も弟子であるから、一生懸命まねして悪口をいおうと思うのですが、大聖人様の十分の一も百分の一も言えないのだ。よほど気がやさしいとみえる。(笑い)
いまの御書ではっきりわかったでしょう。邪宗邪教のものたちは、過去世において、大聖人様に敵対した者が生まれて来ているのです。すなわち、法然の一類である念仏者、あるいは大日の一類である禅宗の者たちは、釈尊の時代の六師外道が、大聖人様が三大秘法を広宣流布するに当たって、僧侶になって生まれて来て敵対しているのであると。
今、わが創価学会が広宣流布をして、日本民衆を救わんと立つにあたって、それを邪魔するのは大聖人様の時に邪魔した僧侶が、今、日蓮宗の仮面をかぶって生まれてきているのです。そういう原理がきちんと出ているのだからこわいものです。三世の生命観に達すればきちんとわかるのです。三世の生命を信じなければ、この理論はまだわかりません。
うれへなるかなや涅槃経に仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に罪人一人もなかるベし法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり
大聖人様の御意見では、寿量品で一切衆生が救われた。だが地獄守として、一闡提人という者が残された。一闡提人というのは謗法者です。それから信仰をぜんぜん必要と思わない者、これらが残った。そのものの命が広がったのが、大聖人様の時代の民衆であろうとこういうのです。
日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり
これは、すこぶるおもしろい御書でありまして、ここは、大聖人様が阿弥陀経をやったというのです。自分も過去世に謗法の者であったから、その因縁で、今生でも阿弥陀経をやって、未有一人得者、この法華経では一人も成仏できない、千中無一、千人の人がやっても一人も成仏しないと法華経の行者を笑ったというのです。そういう法華経の悪口をいった。「日蓮も謗法であったから、阿弥陀経をやった覚えがある」とこういうのです。
これは、誠にゆえある話でありまして、大聖人様に謗法が有ったか無かったかという試験問題を出したことがあるのですが、大聖人様は謗法の世の中で、謗法の者を救うためにおいでになったのですから、一往は謗法の者の姿をお取りになったのです。ですから大聖人様の御書を拝読しますと、誠におもしろいところがある。
ここは南無阿弥陀仏と書かれてもよさそうだと思われるところを、大聖人様は絶対にお書きにならない。御書をよく見てごらんなさい。絶対にお脅きになっていらっしゃらない。それでそのかわりに、そう書かなくてはならない場所に、観経といったり、あるいは無量寿仏といいまして、阿弥陀仏といわないのです。
というわけは、私にはわかりませんが、大聖人様は最初、比叡山に行くまえに、鎌倉で仏道修行なさったことがある。その時に自分が習ったお師匠様が、阿弥陀経のお師匠様だった。それが血をはいて死んだ。ここに実に大きな不思議を感じられた。
仏法というものはそういうものではない。皆成仏するのがあたりまえなのに、阿弥陀経の立派なお師匠様が、血をはいて死ぬというのはこれはおかしい。仏法に何か間違いがあるのではなかろうかとおぼしめして、お調べになったら阿弥陀経という教えは、恐ろしい経文だということがわかったのです。
なぜ恐ろしいかというと、本来なら、釈尊がそんな恐ろしい経文を説くわけがない。観経の中にこういう言葉がある。「滅後の衆生を哀れむが故に此の経を滅後百年間止めておく」ということばがある。それを法然や曇鸞たちが読んだ時には、末法万年の後の百年だとこう読んだのです。ところが経文をよく見ますと、私が読んでもそう思えない、私は釈尊滅後百年とこう読んだのです。大聖人様は正法滅して後の百年とお読みになった。勿論、私の読み方なんかとおるわけがありませんから、大聖人様のおおせどおり正法滅して百年間此の経を止めておくと読むのが正しい。ならば正法滅後百年間には、双観経にしても、観経にしても、阿弥陀経にしても、これを浄土三部経といいますが、功徳があったわけだ。だが、もうその時代が過ぎてしまって、いまは功徳がない。ということが、大聖人様がお調べになって、はっきりしてしまった。そこで、一生涯、南無阿弥陀仏とはいわないと御決心あそばしたと、うけたまわる。
ですから、御書にも阿弥陀仏というところを無量寿仏とお したためになっている。決して阿弥陀仏と書いていらっしゃらない。あるいはそこのところにくると、観経という言葉をお用いになって、決して阿弥陀仏といわないのです。
そのわけですが、釈尊だってバカではないのですから、阿弥陀経をおつくりになって、しかもそれが衆生のためにならないものだったら作るわけがない。正法滅後百年間だげ功徳、御利益があった経文なのです。ですから末法には絶対功徳がない。こういうと「それはおかしいではないか、おまえは日蓮正宗の気違いだから、阿弥陀経をくさすけれども、阿弥陀経だって役に立つ、というかもしれないが役に立ちません。なぜかというと、理屈は簡単です。大阪の人達はこれを言えばはっきりすると思うが、ご飯だってたきたてはうまいものです。ところが昨年たいたご飯を、腐ってしまったのを、今ごろ食えといったらどうですか、体のためになるかならないか。それを、いいではないか、これだって米だ、昨年たいたのだがいいではないか、心配しないで食べなさい。というが、もし腐っていたらどうします。阿弥陀経というのはそういう腐ったものなのです。それを大聖人様が腐ったものを食べて、ぴどい目にあった人を見てきたし、自分にも見てきたから、自分にも謗法があると、謗法があるから佐渡まで流されたのだといって、自分の罰をすなおに罰とお認めになっていらっしゃる。それが佐渡御書の精神です。
今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし
そこで大聖人様は、自分も阿弥陀経をやったことがある。ちょうど、酔っぱらいが父母をぶったようなものである。酔いが醒めてみてから、こいつはしまったと思ってもおよばないというのです。あなた方も酔っぱらってはいけません。酔っぱらって人を打って、あとで申しわけありませんといっても、たたかれた方にしてみればそうはいきません。「あの野郎、たたいたな」と思う。酔いがさめてからでは間に合わない。そのように、大聖人様も酔っぱらいが父や母をぶったようなものだ。その罪は着なければならない。それで佐渡までおいでになった。ずいぶん遠い所まで行かれたものです。(笑い)