日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し

 

 日蓮大聖人様は聖人ではないが、法華経を説のごとく受持しているから仏様であるというのです。

 われわれも聖人でもない仏でもない。しかし大聖人様の仰せどおり折伏しているのですから、大聖人様の弟子なのです。仏様の弟子なら仏様です。そういうことになります。かじ屋の弟子であるからかじ屋でしょう。さかな屋の弟子だからさかな屋でしょう。同じように仏様の弟子は仏様でしょう。うまくいっています。(笑い)

 

 又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず

 

 文応以来、大聖人様は日本の国はこうなると、立正安国論において予言をしている。そのとおりになっています。したがって、現世できちんとこうなると言ったとおりになっているのだから、来世のことも後生のことも疑うことはないのです。ここが日蓮正宗の強いところなのです。

 念仏宗などは、こういうふうなのです。この世でどんなに貧乏してもいい。この世でどんなに困ってもいい。死んだら極楽浄土に行くのであるといっています。彼らのいうのは指方浄土というのです。浄土へ行くのだと指をさす。そんなバカなことないでしょう。では私がこういったらどうしますか。私は今のところ学問をたくさんしてないから講義はできないが、そのうち勉強してできるようになったら、講義をしてあげようといっても間に合わないでしょう。それより少しくらいへたでも、今やったほうがあなた方のためになります。これが即身成仏なのです。たとえば、あなた方の主人なり兄弟なり、あるいは友達なりが、「そのうち百万円持ったら一万円やろう」といっても、いつ持つかわからないではないですか。それよりどうです、きょう百円札一枚くれないか。その方がよっぽどいいでしょう。

 そんな先のことはわからない。ところがこの仏教では、現世において、かならずあなた方はしあわせになるのです。ゆえに来世のことが約束されるということが、もっともだとわかる。死ぬまで貧乏していて極楽浄土に行くのだ、といってもそんなのあてになりません。この世で本当に幸せになる。それならば死後もしあわせだという大聖人の仰せが信用できる。

 

 幸福というのには二種類ある。絶対的幸福と相対的幸福の二種類ある。一杯飲んだらしあわせなのだというのは、これは相対的幸福です。一杯ぐっと飲む、ああいい気分だと。家を持てたらと、金を持てたらと、いい洋服が着られたらどんなにしあわせだろうと、みんな相対的幸福です。

 ところが絶対的というのは、こうして生きていること自体が幸福なのです。うきうきしている。生きていること自体が楽しい。こんな所へすわらされて、皆さんの顔を見ているだけでも、僕はしあわせなのです。気の毒だけれど(笑い) こうして生きていることそれ自体がしあわせであるというのが、絶対的幸福というのです。それでなくてはいけないのです。

 

 ところが借金取りばかりきているのに、自分は絶対的幸福だなどと、そんなバカな話はありません。この寒いのにシャツも着ていないで、上に隣から借りてきた洋服なんか着て、絶対的幸福だなどといっても、誰も信用などしません。帰る時にどうやって電車賃をごまかして帰ろうかなどと、それでしあわせだなどといっても、誰も信用できません。

 やはり女房は親切で、子供は丈夫に育って、たとえ狭くても楽しいわが家というものがあって、預金通帳にはたくさんはないけれども、五、六万円あるとこうでなければいけない。

 この中には、若い方もいるでしょう。まだ四十代から金を残してしあわせになるなどぜいたくですから、三十代、四十代は苦労しなさい。五十代を越して、五十四、五から、六十で死ぬとすれば、金ならば今の時勢だから一千万円ほど持ちまして(笑い)、きょうは京都へ行ってみよう。お山に行ったり、温泉に行ったり、折伏もしたり。死ぬ前に三年なり、五年なり、十年なりと本当にしあわせになって死んでいくのが、この仏法なのです。ですから貧乏している間は、死なないものだろうと思って、喜んでいた方がいいかもしれません。(拍手)

 

 日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるベし

 

 大聖人様は、北条氏の関東御一門の眼目であり、棟梁である。これはどういうことかというのです。仏様という意味なのです。大導師であるというのです。その大聖人様を北条氏が去年の九月十二日の晩、首を斬ろうとした。そのときに日蓮を捨て去るならば、日本の国の柱を倒し、眼をつぶすようなものであるとおっしゃった。そのとおりになったのです。

 大聖人様を佐渡へ流して、良いことが起こるわけがない。すなわち蒙古より攻められ、北条氏滅亡の原因になっています。なんで大聖人様のおっしゃることを聞かなかったのかと思います。

 

 纔(わずか)に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん

 

 大聖人様を佐渡へ流してから、わずか六十日乃至百五十日しかたたないうちに、もうすでに内乱、自界叛逆難がどんどん起こっているというのです。これはいちじの報いであるという意味です。本当に北条氏の、すなわち大聖人様を島流しにした連中が、死んだ時にはどんなことになるのだろう。地獄の苦しみを受けなければならない。可哀想である。

 

 世間の愚者の思に云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉(あうや)なんと申す日蓮兼ての存知なり

 

 大聖人様が利口な者であるならば、なぜ王難にあうのかと、王難になどあわなくてもいいではないかと世間の者はいうのです。だが大聖人様は王難にあうことを覚悟の上なのです。法華経の行者はかならず王難にあうことを知っていらっしゃる。覚悟の上なのです。だから、そんなことをいう輩は愚か者であるというのです。

 

 私も第一回の王難にあいましたけれども、運がよければもう一回あいたいものだと思っている。運がよければです。運がなければこれっきりです。もうしようがない。私はこのまましあわせになったら困るのです。だからよくいわれる、創価学会も三十万世帯になったら、それほど増やすことなど考えなくってもいいだろう。そのままでやっていったらいいではないかという人がいる。 

 何をいっているのですか。日本じゅう全部正宗の信者にならなければ承知しないと思っているのに、三十万世帯でいいなどという、そんなバカな話はないと。そうでしょう。それを、かならず難が起こるから、あなたが困ることがあるからもうやめなさいというのです。私の方からいえばよけいなおせっかいです。私ももう一回王難にあってみたいのです。運がなければ、あえない。王難というのは牢に入れられることです。それからピストルの弾の一発くらいぶつけられる。なるべく死なない所に当ててくれるといいと思います(笑い)。だがそのくらいのことは覚悟しています。覚悟していなければやれません。

 

 それは運勢の問題です。運がよければピストルの弾もくるだろうし、牢へも引っばられるでしょうが、運が悪ければ、このまましあわせで金持ちになって、死んでいかなければならない。(笑い)

 

 父母を打子あり阿闍世王なり仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり六臣これをほめ瞿伽利等これを悦ぶ

 

 すなわち親を殺す子供がある。それを阿闍世王という。阿闍世王は親を殺してしまった。仏を殺そうとして仏の身より血を出し、阿羅漢を殺したのが提婆だった。阿闍世王は親を殺した。阿闍世王の家来が喜んだのです。また提婆達多が仏にあだをなした。喜んだのが弟子どもです。これはまことに間違ったことであるとこうおおせです。

 

 日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如し然(しかる)を流罪し主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり

 

 大聖人様は関東、北条一門の大導師である。父母である。眼目である。大船であり柱である。それを北条一門が大聖人様を佐渡へ流して、君臣共に喜んでいるとは、いかなることであろうか。自分が滅びるのも知らないで、バカの骨頂です。

 

 法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしがかくなるを一旦は悦ぶなるべし後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず

 

 謗法の坊主、良観房とか鎌倉の僧侶たちは、大聖人様に謗法を責められて腹を立てて、大聖人様を讒言して島流しにしたのです。いったんは大聖人様が佐渡へ流されたので喜んでいるであろう。その法師どもの、のちの歎きというものは、大聖人様の一門の歎きとは比べものにはならないというのです。

 

 例せば泰衡(やすひら)がせうとを討(うち)九郎判官を討(うち)て悦しが如し既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし法華経に云く「悪鬼入其身」と是なり。

 

 藤原の泰衡が、藤原王国ともいわれる立派な、頼朝なんかに頭を下げなくてもすむような、文化と実力をもっている。そこへ義経が、頼朝に攻められて奥羽に逃げ込んで来た。あの義経を殺さずに、奥羽の財力と兵力をもって頼朝に対抗したなら、決して滅びはしなかった。それを弟の国衡を殺し義経を殺して、頼朝に首を出した。

 それがために、藤原の勢力というものはぐっと落ちまして、今度、頼朝に攻められてばたばたと滅びてしまう。それと同じだというのです。

 

 日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、

 

 これは、大聖人様がわれわれに過去の謗法ということを教えて下さっているのです。

 大聖人様もこうして佐渡に流されるには、流されるだけのわけがある。先業というものがある。われわれが貧乏したり、あるいは病気したり、色々するのは過去にそれだけのわけがある。過去世に原因がある。そのことをおおせになっているのです。

 

 不軽品におもしろいことが説かれているのです。不軽菩薩という方は、二十四文字の法華経をもって、世の中の人を折伏したのです。ところが、人々が不軽菩薩のいうことを聞かない。さんざんいじめる。こうしていじめられることによって、不軽菩薩は罪おわって罪を消していく。これを「其罪畢已」というのです。よくわれわれが折伏しますと「あなた今、肺結核ではないか。あなたの肺結核がなおったら、私も信仰しよう」といわれる。

 そうするとなんだかがっかりするでしょう。

 肺結核は肺結核になる先業の罪がある。ですから折伏して、あなたは肺結核ではないかといわれて、肺結核になった罪が早く消える。ですから早く治ってしまう。あなたは貧乏しているではないかと。貧乏のくせに折伏をするなど生意気である。貧乏がなおって金持ちになったら信仰しよう。そういわれることによって、その折伏した人は、貧乏の罪がそこで消えるのです。だから今度は、金持ちにならざるを得なくなる。こういうおもしろい原理があるのです。ですから大聖人様はこのことを教えられるのです。