顕仏未来記講義(御書全集五〇七ページ)
例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し
大聖人様の御身の上は、不軽菩薩と同じである。不軽菩薩が威音王仏の像法の時に現われ「我れ深く汝等を敬う、敢て軽慢せず、所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて当に作仏することを得ベし」といって、二十四文字の経文をもって一国に広宣流布した。その時に非常にいじめられた。杖や棒でもってしょっちゅう追い回された。
そのように、今の大聖人様の御境涯も同じです。しかし、広宣流布は不軽の時もしたではないか。不軽の時に広宣流布したと同じに、今度も広宣流布するのであるとこうおっしゃっているのです。
彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ
すなわち、不軽菩薩の二十四文字の経文と、大聖人様の七文字の南無妙法蓮華経の経文と、言葉は違っているが、その心、法華経という意味においては同じである。
彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり。
不軽菩薩の像法の末と大聖人様の末法の初めとは、まったく広宣流布をする様相が同じである。ただ不軽菩薩は初随喜の人・ただ喜んでうれしいうれしいという人です。大聖人様は名字の凡夫であらせられます。それだけの違いです。不軽も大聖人様も、誰が見ても偉そうな光相、光りを放った仏様のような姿はしていない。大聖人様は凡夫の姿そのままでいらっしゃる。また不軽菩薩は初随喜、信仰を始めたばかりの姿でいるのです。ですから、その姿において広宣流布するということは同じであるというのです。
広宣流布する立ち場においては、われわれもみな同じです。ところが、よくこういうことをいいます。南無妙法蓮華経を唱えていても行儀が悪い。信仰したから立派な人間にならなければいけないと。そんなバカなことありません。凡夫です。皆凡夫の姿で成仏の境涯になるのです。行儀がいいとか悪いとか。あるいはその品行がどうとかこうとか。そんなことは枝葉の問題です。それは、泥棒していいというのではない。また詐欺をやっていいというのではない。そんなことは、絶対にいけません。ただ世間の人は、よく、信仰したくせにという。まるで信仰したら、お人形さんみたいな顔をしていなければならないと思っているのです。そんなことはできるものではない。「私きょうから信仰しました。行儀よくなります」と。冗談ではありません(笑い)。そんなものではありません。立派な凡夫である、けっして偉そうになるのではありません。ほしいものはほしいのだ。欲張りたい者は欲張っていいのです。けちんぼしたい者はけちんぼすればいい(笑い)。そういうふうに考えなくてはだめです。
疑って云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを
疑っていわく、たしかに色々の経文を引いて、自分が法華経の行者だとこういわんばかりであるが、あなたが末法の初めの法華経の行者であるということは、どうして知ることができるのですか、どうしてそれがわかるのですかと、そういう意味です。
答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」
法華経にいわく「況んや滅度の後をや」怨嫉が多い、そのとおりになっているではないかというのです。
又云く「諸の無智の人有って悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」
また法華経に予言していわく、無智の人あって悪口罵詈等しと、そのとおり今、自分が悪口罵詈されているではないか。刀杖を加う、刀で切り殺されそうになうていらっしゃる。ケガをしていらっしゃる。襲われていらっしゃる。そのとおりではないかと仰せです。
又云く「数数擯出(しばしばひんずい)せられん」
これは数数(さくさく)ともよみますが、さくさくというのは二度のことです。一度は伊豆の伊東へ、二度はこの佐渡へ流
罪せられ、経文どおり身をもって読んでいらっしゃる。擯出というのは島流しということです。これもそのとおりになっているではないかというのです。
又云く「一切世間怨多くして信じ難し」
また、怨多くして信じ難し、実に皆大聖人様を憎んでいるではないか。一切世間が、本当に信じないではないか。これもその証拠ではないか。
又云く「杖木瓦石をもって之を打擲(ちょうちゃく)す」
また、瓦や石や、また杖やなんかで大聖人様を打っているではないか。私はこのとおり打たれているのですから証拠になっているよというのです。
又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃茶(くはんだ)等其の便りを得ん」等云云
悪魔、天竜や夜叉また鳩槃茶等が便りを得といっているが、そのとおりではないか。さきに説明したように、それが王臣一同のその身の中にはいって、命にはいって、そして大聖人様を憎んでいるではないか。平左衛門なんか一番その見本です。
此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し
この明鏡、この立派な経文の鏡をもって、日本国じゅうの人をその鏡に向かわしてみるならば、それらの人がこの経文どおりにやっている相手というものは、予一人のほかはない、大聖人様御一人しかいないではないか。ゆえに予は末法の初めの法華経の行者であるというのです。
時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん
さて時を論ずるならば、末法の初め今が一定である。日蓮無くんば、大聖人様がいらっしゃらなかったらば、仏の予言が全部ウソになるではないか。断じてウソはない、そのとおりではないか。予言どおりであるから、日蓮は末法の法華経の行者である。法華経の行者とは、すなわち仏ということであると仰せです。
難じて云く汝は大慢の法師にして大天に過ぎ四禅比丘にも超えたり如何
大聖人に対して、大慢の法師である。法華経の行者である、自分は仏である、末法の仏であるというのは非常に慢じすぎる。大天にもすぎ四禅比丘、非常に謗法した人間ですが、これらにもすぎている。いずれも仏法を慢じた一番の悪人よりも、おまえはすぎているではないかというのです。
答えて云く汝日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり
「おまえは大慢の法師である」という問いをこしらえて、それに対して答えるには、日蓮を蔑如する、日蓮をバカにする侮蔑罪は、提婆達多より、無垢論師よりもなおひどいものである。罪は大きいというのです。このような強い御言葉をはっきりいい残しているところに、大聖人様御自身が仏であるとの確信が厳然として現わされているのです。
提婆達多は釈尊を蔑如して、生きながら無間地獄におちた男ですが、大聖人を誹謗する罪は、その提婆よりもひどいということは、大聖人様は釈尊よりも勝れているという確信があるのです。この文は、本当に強い御言葉です。
我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり
自分の言葉は大慢に聞こえるかもしれない。けれども、仏記をたすけ、すなわち仏の予言書どおりであるとい
うためなのです。
然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや。
しからば、大聖人様を除いて、誰人が法華経の行者といいうる者がいようかと。あなたは、もし日蓮を法華経の行者ではないと謗ろうとするならば、仏記、仏の未来記を、予言書を、ぶちこわす大悪人である。日蓮は断じて仏である。法華経の行者であるとこう断じていらっしゃるのです。
疑って云く如来の未来記汝に相当れり、但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何
今度は範囲を広げてきたのです。確かにそういわれてみれば、あなたは仏の未来記にそのとおり当たっているから、末法の法華経の行者でしょう。だが日本ではあなたを認めますが、インドや中国にもあなたと同じような人がいるのではありませんか。あなた一人いばることはないでしょうと、こういういい方なのです。
答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや
この言葉なども強い。二つの日が、太陽があるわけがない。一国に二人の王様がいるわけがない。今、東洋じゅうに日蓮ただ一人が仏である。仏というものは、二人が同時代に出ることはないのです。あちらにも生き仏様がいる、こちらにも生き如来様だなどと、今みたいに仏様が濫造されるということはない。いまは粗製濫造の仏様がたくさんいます。真実の仏様というものは一仏に限るのです。
疑って云く何を以て汝之を知る、答えて云く月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く
疑っていうのには、どうしてあなたは、それがわかるのかというのです。
答えていうのには、まず原理を示された。月は西より出でて東を照らす。どういうわけなのか、ちょっと合点がいかないでしょう。これは、そのとおりなのです。月は西から出るのです。東から出るのではないのです。ウソだと思ったらきょうから、天文の観測をやってごらんなさい。
新月からしだいに月が満たされていくにしたがって、月の出が西から東へ動いていくのです。これを東行運動といいますが、三日月ぐらいの時には、西方の空に出る。三日月は東から出ません。へんだと思っているのではないですか。いつも下ばかり見ているから(笑い)。三日月は西から出てくるのです。そうして西へ落ちてしまう。その次はちょっと東寄りから出てくる、また西に落ちてしまう。次はまた少し東寄りから出てくるのです。このように、西から東へとしだいに移っていきます。そして、満月になると東から出る。また、だんだんと落ちてくるのです。ですから、西から出てきて東を照らすという言葉が、それに当たるのです。
ところが「日は東より出でて西を照す」これはこのとおりです。「仏法も又以て是くの如し」釈尊の仏法は西から出て、だんだんと東に移ってきたが、今度、日本の仏法すなわち大聖人様の仏法は、東の日本から出でて西を照らす、朝鮮、中国、インドと南無妙法蓮華経の仏法が移って行く。
今、朝鮮の方々は実に一生懸命、南無妙法蓮華経を唱えているそうです。朝鮮からだんだんと中国へいって、終わりにはインドに行くのです。これは大聖人様の予言ですからそのとおりになります。仏教が日本にしかないということが、この文証でわかるでしょう。
妙楽大師の云く「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや」等云云、天竺に仏法無き証文なり
ここでいう中国とは、仏法発祥の地、中心地ということで、インドをさしていうのです。「中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや」と、ここでインドに仏教はもうないということを、今の言葉をもって説明したのです。それをインドには確かに仏法がある。だから他に求める必要はないのだという考え方をしているものに対して、インドにはもう仏法がないということを、この言葉でもって説明、証明しています。