此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。

 

 この御本尊も信ずる心に収まっているのです。われわれのからだにあるといってもどこにあるのか、御本尊様を信じ奉るその心の中に収まっているのです。ですから以信得入といって、舎利弗のようなインド第一の智慧者でも、信ずることによって、法華経にはいることができたという。これが法華経の言葉にある。それが以信得入という言葉であります。それを大聖人様は、信ずることをもって入ることを得たりと、どこへ入るのか。それは御本尊様の中にであると、こういう意味です。

 

 日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によって・此の御本尊の宝塔の中へ入るベきなり・たのもし・たのもし

 

 正直に方便を捨て、方便とは方便教の意味です。法華経以前の経を方便教といいますが、この方便教を捨て、余経の一偈をも受けざれと法華経に説かれています。ほかの経文はいっさいやってはいけない、信じてはいけないと。こういう立ち場になれば、初めてこの宝塔の中にはいることができる。大御本尊様の中にはいることができる。大空中に大御本尊様が厳然とおわしまして、そこに一切大衆が、ずらっとみな並んでいるその中に、われわれがはいっていくことができるということであります。その大御本尊様の一分身として活動できるとこういう意味です。

 

 如何にも後生をたしなみ給ふべし・たしなみ給ふべし

 

 また死後の命の幸福ということを考えなさいということです。

 

 穴賢・南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり

 

 南無妙法蓮華経と唱え、仏になるということが人生の肝要であるという意味です。

 

 信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす

 

 信心の厚薄によるべきである。しあわせになるのもならないのも、あなた方の願いがかなうのもかなわないのも、信心の厚薄によるというのです。この言葉は大事です。

 仏法は信心ということをもって根本とすると、大聖人様は決定あそばされています。釈尊もそういっていますが、また誰人でも仏法というのは信心がなかったならば、なんにもならない。いくら理屈を覚えても、いくらどんなことをしゃベっても信心のない者には功徳がないのです。

 

 されば止観の四に云く「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」と

 

 止観も仏法は海のようなものである。いかなる河も海へ流れ入るように、河を信心にたとえ、海のように深くかつ広い仏法にはいるのは、信心以外にない。

 止観というのは摩訶止観のことで、天台の教えの中心ですが、それにもこのようにいっているというのです。

 

 弘決の四に云く「仏法は海の如し唯信のみ能く入るとは孔丘の言尚信を首と為す況や仏法の深理をや信無くして寧ろ入らんや

 

 孔丘というのは孔子のことですが、孔子の教えも信ずることを中心としているが、ましてや、仏法においてはもちろんのこと信が中心であると弘決にもいっています。

 

 故に華厳に信を道の元・功徳の母と為す」等

 

 また華厳経にも信心とは道の元であり、いっさいの功徳の大もとになるといっているではないかというのです。

 

 又止の一に云く「何が円の法を聞き円の信を起し円の行を立て円の位に住せん」

 

 円というのは完全なる教えという意味です。完全なる仏法。それをどうしたならば、信じ、行じ、修行することができるかという意味です。

 まず「円の信」とあり、信が一番中心になっているのです。信心が大もとであるということを説いているのです。

 

 弘の一に云く「円信と言うは理に依って信を起す信を行の本と為す」云云

 

 円信というのは理を聞いて信を起こす。理とは、天台では宇宙本源の理ということで、大聖人の仏法にあっては大御本尊ということである。大御本尊の力により信を起こす。だから信心ということが中心であり、修行の根本となるのであると。

 

 外典に云く「漢王臣の説を信ぜしかば河上の波忽ちに冰り李広父の讎(あだ)を思いしかば草中の石羽を飲む」と云えり

 

 すなわち、後漢の光武帝がもうはんの意見を聞いて、すっかり信じて進んだから、河が凍って立ちのくことができた。

 石に立つ矢のためしありという歌を歌いますが、光武帝の時、李広という猛将軍ですが、親がトラに食われたので、仇を討とうと思っているうちにトラを見つけた。そうして射たら、刺さった。行ってみたら石であったというのです。石に矢が立ったというが、その後に何回もためしてみたが、今度はいくら射ても刺さらない。前は親の仇だというので、その一念で石に矢が立った。至信のゆえなりです。石だと思って射てもさっぱり刺さらない。いがに強く射ても矢が刺さらなかったという例があるが、これらの話はみな信ずるがゆえに起こったことであると、大聖人様は古事を引かれているのです。

 

 所詮・天台妙楽の釈分明に信を以て本とせり

 

 天台、妙楽等のあらゆる先輩の人達のいうことも、ことごとく信をもってもととしているではないかというのです。

 

 彼の漢王も疑はずして大臣のことばを信ぜしかば立波こほり行くぞかし、石に矢のたつ是れ又父のかたきと思いし至信の故なり

 

 これはこのとおりです。

 

 何に況や仏法においてをや

 

 仏法においてはなおさら、至信です。大御本尊様を真心こめて信ずる。それが根本です。それがなくしてどんな方法、手段を考えてもダメです。真心をもって御本尊を信ずるところに功徳があるのです。

 

 法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり

 

 このころまだ仏法修行には、五種の修行というのがあるのです。昔は受持、読、誦、解説、書写この五つの修行が行なわれたのです。

 その五種の修行をしなくてもいいというのです。ただ法華経をたもつということは、御本尊をたもつことです。南無妙法蓮華経と唱え奉れば、五種の修行をしなくても、五種の修行をしたと同じことになるのです。

 

 此の事伝教大師入唐して道邃和尚に値い奉りて五種頓修の妙行と云う事を相伝し給ふなり

 

 あの天台でも知っているのです。伝教大師が中国へ行って道邃和尚に会いまして、天台流の奥義として習ってきたことに、南無妙法蓮華経とひとこといえば、五種の修行をしたと同じになるという奥伝がある。われわれは、初めからこれをやっているのですから、奥義もなにもありません。

 伝教のような偉い人でも、道邃和尚から秘伝として習った。それが五種の頓修といって、南無妙法蓮華経を唱えれば、五種の修行はやらなくても功徳があるということです。

 

 日蓮が弟子檀那の肝要是より外に求る事なかれ、神力品に云く、委くは又又申す可く候、穴賢穴賢。

 

      建治三年八月二十三日   日 蓮 花 押

 

 日女御前御返事

 

 日蓮が弟子檀那の肝要というものは法華経、すなわち御本尊を信ずるということと、五種頓修の極秘である南無妙法蓮華経を唱えることしかないのであるというのです。また神力品にいわく、といってもなにもお説きになっていない。きっとお忙しいのでしょう(笑い)。私もこのへんでやめておきます。