経に云く「諸法実相」是なり

 

 そこで御本尊についての御説明のあったあとで、今度はこの御本尊についての文理を述べられています。方便品に諸法実相とある。所謂諸法、如是相、如是性、如是体と仰せられているのがこの御本尊様であるということです。

 

 妙楽云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云

 

 そこで妙楽は、実相とは本当の姿ということであり、それはかならず諸法の中に現われ、この諸法を論ずればかならず十如を論じなければならない、十如はかならず十界にあり、十界はかならずわが身と、わが身の暮らす場所、依報、正報ともいいますが、また仏身、仏土に現われているともいう。またくだいていえば、わが身の暮らすところに十界があり、十如があり、それが諸法として現われる。その現われているのが実相であるというのです。これは哲学的に生命を論じたところであるが、再往はみな御本尊の姿をいわれているのです。

 

 又云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」等と云云

 

 実相の深理、本当の世の中の姿、生命の姿の本源、すなわち実相の深理というものは、本有の妙法蓮華経がそれである。本有、作ったものではありません。もともと存在するもの。その本有の妙法蓮華経といわれているのもそれであるというのです。

 

 伝教大師云く「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏」文

 

 一念三千即自受用身、一念三千といえば、すなわち法の本尊。自受用身といえば人の本尊。一念三千即自受用身、人法一箇を表わします。自受用身とは出尊形の仏、出尊形とは凡夫の姿であるということです。きらきら光った仏様ではなくして、尊形を出たる仏である。

 

 此の故に未曾有の大曼茶羅とは名付け奉るなり

 

 すなわち、こういわれている言葉を、そのまま御本尊と顕わしたのですから、いまだかつてなかったところの大曼茶羅というのです。

 

 仏滅後・二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云う事なり。

 

 天台や妙楽や伝教は、実相の深理、本有の妙法蓮華経などとはいっておりますが、いまだ本尊を顕わさない。顕わさないから実相の深理、本有の妙法蓮華経とか、一念三千即自受用身だとか、自受用身は出尊形の仏とかといっているのです。これは皆末法に出現すべき御本尊の説明書にすぎません。したがって仏滅後、二千二百二十余年間にいまだ顕われない未曾有の曼茶羅であると仰せなのです。

 

 かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人・現在には幸をまねき後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて闇に燈の如く険難の処に強力を得たるが如く・彼こへまはり此へより・日女御前をかこみ・まほり給うべきなり

 

 これは日女御前に授けた御書ですが、真意は、末法のわれら全体に下さった御書です。「現在には幸をまねき」とありますが、大聖人の御約束です。現世に幸いがないわけがない。しかも死後には、左右前後にこの御本尊様が立ちまいらせて、闇に燈を得たように、あるいは険難、険しい道に強力の人が後先から押してくれるように、かならず守ってくれるであろうと、こうおっしゃるのです。まことにありがたいことです。

 

 相構え相構えてとわりを我が家へよせたくもなき様に謗法の者をせかせ給うべし

 

 相構え相構えて、とわりすなわちお妾さんをわが家に寄せたくないようにと。お妾さんを家に寄せたくないでしょう。主人の二号さんを「あら、いらっしゃいませ」などというのはバカな奥さんです。腹を立てて寄せたくないように、謗法の者を家に寄せつけてはいけないというのです。女の人にさしあげた御書ですので、このような例をとられたのです。

 

 今はそういうわけにいきません。謗法の者を寄せつけないといっても、そんなことをしたら暮らせません。謗法の者から物を買わないといったら、みそもしょうゆも食えなくなってしまう。だから今は、謗法の者を見たら折伏すればいいのです。

だが商売でお客を折伏してはいけません。お客がこなくなってしまいます。やお屋へ大根を買いにきたのに「あなた信心何やっていますか。そんなのはダメよ。日蓮正宗が一番いいのよ」などと折伏したら相手は来たくなくなります。相手は大根を買いにきたのであって、説法を聞きにきたのではないのです。みそを買いに行っても、洋服を買いに行っても、買いにきた人を折伏する者がいる。それでは商売繁盛しません。

 

 商売と信心、折伏を混同してはいけない、それは正しい信心のあり方ではありません。会社では折伏をする必要はない。会社では会社の仕事をして、月給もらえばいいのです。社長は折伏させるために雇ったのではない。それを一生懸命やる者がいるのです。それでクになりそうになって「ご指導お願いします」などといってくる人がいますが、指導もなにもあったものではありません。そういうトンチンカンなことをやる人がいるのです。大阪にはいないと思いますが、東京にはときどきいるのです(笑い)。大阪の人は、頭がいいからそんなことはしないでしょう。どうですか。間違えないようにして下さい。

 

 悪知識を捨てて善友に親近せよとは是なり。

 

 悪知識とは悪い僧侶です。善友、信心の強い者に親近しなさいと。謗法は絶対にいけない。謗法の者と付き合ってもかまいませんが、折伏ということを忘れてはいけません。悪知識を捨てて善友につけばいいのです。

 

 此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり

 

 大御本尊様は向こうにあると思って、拝んでおりますが、実はあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じ奉るところのわれらの命の中にお住みになっていらっしゃるのです。これはありがたい仰せです。

 

 この信心をしない者は、仏性がかすかにあるように見えてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこの中に赫々として御本尊様が光っているのです。ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電燈がついている。ですから、われわれの命はこうこうと輝いている。だから顔の色つやもよくなるのです。信心して青い顔をしている者は、信心したといっても本当にしていない。インチキなのです。

 

 隣の人が景気のいい顔色しているかどうか見てごらんなさい。青い顔をしている者は、信心しているといっても口先だけです。桜色にパッとしていなければならない。いくら年をとっていても青年のような顔色、そう思うと私もうれしい。(笑い)

 

 是を九識心王真如の都とは申すなり

 

 その大御本尊様が胸の中におられる。これを九識心王真如の都というのです。

 よく真如、真如というでしょう。真理という意味です。心王というのは心の王様、命という意味です。われわれが「お金がほしい」とか「道路に金が落ちていないかなあ」と思うのは、心数といいます。心数をもちいる中心を心王というのです。九識というのは七識、八識、唯識論では八識が一番上になるのです。それで普通、天台その他では九識を立てているのです。悟りという意味です。あらゆる心や肉体の根本という意味です。おおもと。

 

 これを九識といいます。九識心王真如の都とは御本尊のことです。御本尊はこういうふうにもいわれるということです。

 

 十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり

 

 さきほども勧請ではない、具足だと述ベましたが、この御本尊は十界具足です。十界互具の本尊、十界具足の本尊というのです。十界互具とは、一界に十界を欠かさないということです。

 

 之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と去うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり

 

 曼陀羅とは、十界がことごとく一つも欠けずに備わっているから曼陀羅というのです。

 また曼陀羅というのはインドの言葉です。日本の言葉に訳せば輪円具足。丸い輪があって、それが一つも欠けたところがなくて真ん丸で、いっさいを備えているという意味で輪円具足という。具足とはまた妙とも訳します。

 それから功徳聚、功徳の集まりであるとも訳すというのです。功徳聚の方がわかりやすいでしょう。あらゆる功徳が集まっている。どんな功徳でも集まっているというのが曼陀羅という意味です。