治病大小権実違目講義(御書全集九九五ぺージ)

 

 私が若いころに、この経文(御書を末法の経文としての意)を同じく読んだがわからなかった。今少し年をとってこの経文を拝するのですが、すごい精神です。

 大聖人様というお方は、よほど通達せられていらっしゃる。すごいというて仏様を通達していらっしゃるなどと批判する僕は、罰があたるかもしれないけれども、これはすごい経文です。

 今、ネールさんという方が、私のねるころに来たからネールさんというのかもしれませんが……ああいう人の命が、この中にきちっとでている。経文は短いけれども、哲学は、ここです。最高の哲学をとらないと負けです。

 大聖人様は哲学を低い哲学にとったならばだめだとこういうのです。それを身でとるのが医学です。心でとるのがほんとうの哲学です。その哲学を両方に考えていて、今から七百年前にこういうお講義があるのかなあ……と。あなた方が読めば、一つの字だから文章だから、そう聞こえるでしょうけれども、わしの耳にはそうは聞こえない。一節一節やってみましょう。

 

 富木入道殿御返事  日 蓮

 さへもん殿の便宜の御かたびら給い了んぬ。

 

大聖人様が着物をもらったというのです。これは礼をいっているのです。

 

 今度の人人のかたがたの御さい(斎)ども左衛門尉殿の御日記のごとく給い了んぬと申させ給い候へ。

 

 みな手紙に書いてよこした。日記というのは、今の日記みたいなものではない。今では手紙のようなものです。

 心のままに書いたものを、よくよく味わったと大聖人様がお感じあそばしていらっしゃる。このことをみんなに話せとおっしゃっているのです。

 

 太田入道殿のかたがたのもの・ときどのの日記のごとく給い候了んぬ

 

 皆、その人たちは信心の深い人です。だがそういえば、私は怒りを生じてくる。中山の法華経寺だって、みな富木殿かなんかの跡であるのに、御本山に背いて、印や真言をとり入れて、僧侶たちがインチキをやっている。

 つぶれるのはきまってはいるけれども、この御手紙の、ここだけ読んでも、中山の法華経寺だって考えなければならないのです。ところが、頭のいい僧侶の一人でもいればわかるが、ああいう所にはいいのがいないのです。

 

 此の法門のかたづらは左衛門尉殿にかきて候、こ(乞)わせ給いて御らむ有るべく候。

 

 この手紙は書いたが、みんなでよく読んでおきなさいというおこころです。

 

 御消息に云く凡そ疫病弥興盛等と云云

 

 これが問題なのです。そのころ日本の歴史をお調べくださればよくわかるけれども、ひじょうに疫病がはやったのです。ちょうど仏法の乱れた時です。赤痢だかなんだかわけもわからないのです。医者の薬がないのです。それで疫病で死ぬ、ペストだかコレラだかさっぱりわからないのです。

 ところが、また日本でそれを始めているのです。これはこわいことです。何かというと、医者はすぐ人間を肺結核にしてしまうのです。肺しんじゅん、肺結核に、ひどい人は骨まで切ってしまう。それで肺結核だ肺結核だ。

 それは、国家でいくらか金を出すから、肺結核でもいいかも知れないけれども、わたしも今ごろから肺結核になりたいと思うけれども、とうになおってしまっています。肺結核になれない。これは、今でいえば疫病です。肺結核という疫病です。まだ数たくさんあるけれども、肺結核でもなんでもないのです。人間の肺というものは、面積にすると八畳間、ひとまに対比するほどの肺活量がある。そこえ、穴の一つや二つあいても、飯を食べて寝ていれば、なおってしまうのです。(笑い)

 

 私も血痰をはいた。血です、十年間もちこたえた、からだだから、たいてい医者が今、私をレントゲンなんか影(と)ったら固まっているのだから、重体と見るでしょう。肺結核なんかで死んで行くのはおろかです。疫病が今も流行しているから、医者が肺結核などといっても驚かずに、たくさん飯を食って、夜はよく寝て、それで治ります。夜ゆっくり寝たら肺結核など問題ではないのです。それを、折伏だ折伏だなどと、夜中じゅう飛び廻っている人がいる。そういう人はだめです。

 

 もし医者に肺結核といわれたら、食べるだけ食べて、よく眠って、そうしてやってごらんなさい、十月たたずして健康なからだになります。それを、折伏だ折伏だと夜中の十二時、一時に家に帰っているようではよくなりません。

 

 宇宙のリズムというか、これは、地球の回り方、月の回り方というものがあり、吸引力といいまして、めんどうな問題だから、これはその道の専門家に聞いたほうがいいと思うけれども、夜は十二時までに寝なければいけないのです。十二時前に寝た一時間と、十二時過ぎてから寝た一時間とは、うんと休養に差がある。これはお月様との問題です。だからなるべく早く寝たほうがいい。今日も私の講義を聞いて、あなた方これからどこかの会合に行くなどやめて帰って寝なさい。そんな気があるのではないですか。早くすめば、あそこへちょっと行ってこようなどと、それはやめなさい。もうこれ以上折伏されたら、わたしのほうが困るから。(笑い)

 

 夫れ人に二の病あり一には身の病・所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病なり、此の病は設い仏に有らざれども・之を治す

 

 これは、からだの病気は医者にかかれば、かならずなおるという原理です。地水火風だから、われわれの肉体です。それぞれに百一というから四百四病、これは医者にかかればなおるそうです。ただなおらないのは恋のやまいだけです(笑い)。御書には書いてないかもしれない。大聖人様どこかへお忘れあそばしたらしい。(笑い)

 

 所謂治水・流水・耆婆(ぎば)・扁鵲(へんじゃく)等が方薬・此れを治するにゆいて愈えずという事なし

 

 それはそうです。医者にかかればなおるのです。それから耆婆・扁鵲という人たちは、医学では東洋の医術士として、実に偉い人なのです。からだにできた四百四病はなおるとこういうのです。なおせない、こわいのが、あとからでてくるのです。

 

 二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり

 

 これが困るのです。これだけはなおせない。どんなに私が会長でも、自分がなおせないのだから、人はなおせない。貪瞋癡という三毒 ー 三毒というのは、欲深い人、やきもちやき、怒りの持ち主 ー これはなおしようがない。皆さんが心の中に入れて考えてみなさい。欲が深い、やきもちやきだ。貪欲、嫉妬、怒り、おこる。ちょっといい方が悪いとすぐおこる(笑い)。「おお、帰ったぞ」と、おやじが帰ると「帰ったぞといったって、今ごろおそいじゃないの」と「何このやろう、なにいっているのだ」といってぶんなぐる(笑い)。そういうのを心の三毒というのです。

 

 仏教では、この八万四千というのは、人道門といって、人間のからだにある毛穴が、八万四千あると決めてあるのです。だが医学上では別に決まっていない。本当に調べたら八万四千あるのだか、ないのだか知らないけれども、法華経の経文から持ってきて、天台はそう読んでいる。

 

 此の病は二天・三仙・六師等も治し難し何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや、又心の病・重重に浅深・勝劣分れたり、六道の凡夫の三毒・八万四千の心病は小仏・小乗阿含経・倶舎・成実・律宗の論師・人師此れを治するにゆいて愈えぬべし

 

 今の御書のところは、私が講義するよりも、あなた方が帰ってじっくり読んで下さい。これは五重相対を用いて法華経をお説きあそばしていらっしゃる。心の病いが、外道、孔子や孟子の説でなおるか、ましてや阿含、方等、般若でなおるかと。これを三重秘伝ともいう。また五重相対ともいい、四重興廃ともいわれております。要するに、孔子がどういおうと、またバラモンがどういおうと、それで心の病いがなおるわけがない。人にいわれてなおるものではない。これを三重秘伝、四重興廃、五重相対という論理で、大聖人様は、お説きあそばされている。

 

 読む者は、大聖人様があまりすらすらと書かれているので、わからないものだから、これはだめだと思っているのです。ここは、三重秘伝、五重相対等を心にとめて、よくよく読むときに、大聖人の見解がわかる。これをなぜわたしが簡単に、読ましてしまったかというと、そんな講義を、今ごろさせられたら、私の方がもたない。

 これは、あなた方 ー 学ある人、学あるというのは、少し勉強した人という意味なのです ー その人は心を止めてわずかでも読みなさい。

 

 但し此の小乗の者等・小乗を本として或いは大乗を背き或は背かざれども大乗の国に肩を並べなんどする其の国其の人に諸病起る

 

 けっして創価学会の活動には、反対しないと心で思えども、それは、小乗をもととしていれば、その国々に病気が起こるというのです。今、私のやっていることは、大乗仏教の極意をやっているのです。それに対して、心では反対しないけれども肩を並べようとするなどはもっともふとどきなのです。増上慢もはなはだしい。かならず後であやまってくる。あやまるならきちんと、あやまった方が早いではないですか。それは、証拠にでることだから、それを大聖人様はおっしゃっているのです。大聖人様が文底秘沈の大法を御説法あそばしているときに、文底秘沈の大法と、肩を並べた真言宗、その他を比較してごらんなさい。今、創価学会が、立宗七百年過ぎて、大聖人様の御説法を承って、広宣流布の一途にいるのに、ああだ、こうだと批判すると、どういう結果がでるかは自明の理です。ところが、いわれれば、こちらの方は罪障消滅ですから得です。

 

 小乗等をもって此れを治すれば諸病は増すとも治せらるる事なし、諸大乗経の行者をもって此れを治すれば則ち平愈す

 

 今、日本の国は大問題になっているのです。ここに二つの事件がある。経文というのは、七百年来のお説ですから原理には違いない。それは立派な原理です。これをわたしが今、使って、考えてみれば、日本に、二十億ドルからあった金を使ってしまって、今日本の国には八億五千万ドルぐらいしかない。英国もまた使いすぎたらしい。あれも二十億ドルぐらいあったらしい。こんなふうに外貨が不足してくると、日本の輸出がきかなくなってくるのです。だから目先ばかり政治家がやったってしようがない。では、これをどう助けるか、これは私にもわからない。

 ところが、大乗仏教を根底にしてたつならば、今、インドのネールさんが、日本にきているが、ここになにか東洋的な動きがなかろうかと、私はにらんでいるのです。十万億ドル儲って買った物資は、日本にあまっているはずです。それを日本だけで使わずに、インドでも中国でも、台湾でも使わせれば、また別な新しい道が出てくるのではないか。ネールさんは、ごきげんよいかどうかは知らないけれども、ここが日本の経済界の転換期になるかもしれない。あるいはならないかもしれないが。大聖人様は小乗仏教で国家を治めようとしてもだめだ、大乗経典でなければ国家は治まらないと仰せです。大乗経典をわがものにしたものは、大乗経典を自分の命に打ち込んだものは、そこから自然に政治も文化もでてくるとおっしゃるのです。

 

 又華厳経・深密経・般若経・大日経等の権大乗の人人・各各劣謂勝見を起して我が宗は或は法華経と斉等或は勝れたりなんど申す人多く出来し或は国主等此れを用いぬれば此れによって三毒・八万四千の病起る

 

 経文の中には、阿含・方等・般若・華厳・法華とある。これを一代五時の経といってあるけれども、深密経にしても、般若経にしても、あるいは涅槃にしても、それは皆立ち場の違った書き方なのです。これらの経文を、文底秘沈の大法と同じだといって、邪見を起こすならば、という問題です。

 

 返って自の依経をもって治すれども・いよいよ倍増す、設い法華経をもって行うとも験なし経は勝れたれども行者・僻見の者なる故なり。

 

 私はこの間から、チベットの生活用式を、ある本を読んでみて知りました。そのチベットは、華厳級の仏教です。ダライ・ラマの宗教論というものは、本人は知らないだろうけれども、下についてる人たちの仏教というものは、華厳でしょう。あるいは、華厳までいかないか、深密経ぐらいのものかもしれない。

 その華厳、深密級の仏教で、チベットの社会が隆盛になったかどうか。なっていません。イギリスの鉄砲に驚き、共産党の攻撃に驚いている。そこです。日本は今度の戦争には負けました。大乗仏教を用いないで、神道にたよったから負けたのです。

 

 だが今度は、私がいます。大乗仏教を立てるのです。戦争なんか絶対にしません。戦争なんかしなくても、民族の繁栄はすすめられます。

 低級な経文を使うからよくない。その経文の使い方にもよるけれども、法華経を尊ぶといえども、その法華経の使い方が悪ければだめだと、こういうのです。これは、湛山氏には申しわけないけれども、身延で権大僧正にしてもらっても、総理大臣をクビになったのではなんにもならないではないか。それをいま大聖人様がはっきりお認めになっている。本当の哲理、本当の哲学、その最高のものを使わなくては民族の興隆はない。

 

 いやしい哲理、低い哲学を用いて、民族の興隆があるものでしょうか。大聖人様はそうおっしゃっているのです。最高の哲理を使いなさいと。最高の哲理でなければ民族の興隆はないぞとこうおっしゃっているのです。

 

 今、読んだ経文は、よくおわかりと思うけれども、本迹相対を論じていらっしゃるのです。その本迹のかげに、独一本門の本迹を論じていらっしゃる。まとめて大きくいってしまえば、釈尊の法華経というものは、はじめ十四品を迹門というのです。これは理論なのです。やかましい理屈ばっかりいっているのです。後の十四品を本門というのです。それは実践活動なのです。それでもまだ釈尊の法華経ではたよりないぞというのです。

 本門といえば釈尊一代の経文はそのまま迹門にして、そして日蓮大聖人様の独一本門の法華経をもって本門とする。独一本門の御本尊様というあの本門です。本門は本門でも、内容が違うのです。

 

 そこを、今、文上で本迹相対して、大聖人様がお認めになって議論しているのです。本迹相対しているけれども、法華経文上の迹門、本門を論ぜられている。その中に文底ができている。

 

 法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり

 

 それは、今いったように、序品第一から安楽行品第十四までを迹門といい、従地涌出品第十五から、終わりの勧発品第二十八までを本門というのです。迹門ということは影ということです。よく理屈っぽいのがいるでしょう。理屈ばかりりっぱなことをいって借金ばかりしているものがいる。こういうのを迹というのです。

 

 本迹の相違は水火天地の違目なり

 

 違目ということは、違いということです。迹門は理屈なのです。経済学博士が金持ちになった話を聞いたことがない。経済学博士でもなんでもないのに、ダンゴを売って金持ちになった者もいる。そのように迹門と本門とは天地水火の違目である。違いであるということです。

 

 例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺も有りぬべし

 

 釈尊一代の仏教において、法華経以前を爾前経という。その爾前経の中に円教があるというのです。それに華厳がはいっている。その爾前の円教と法華経の迹門は似ているところがあるというのです。

 

 所説に八教あり爾前の円と遊門の円は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし

 

 八教はいいでしょう。五時八教の八教です。仏教の姿というものを今、ここでお説きあそばしていらっしゃるのです。これがわかれば仏法もいくらか通達したほうにはいる。これをいえる人はない。恐ろしくていえない。

 

 まず最初に仏様の姿からいきましょう。劣応というのは、螺髪の釈迦をいいます。これは哲学的に扱わない。人間的に扱っている。そして通力があることになっている。今でいえば、あの妙なことをやる連中のことです。

 それを劣応身という。これは小乗教の釈尊である。ところが哲学が高度に進んでくると、仏をそう扱うわけにいかなくなってきてしまう。

 こんどは勝応身、これは無見頂。頂が見えないということです。そんな人間が世の中にいますか。頭のてっぺんが見えないような仏がいたらお化けではないか。そこまでもってきて、哲学の高度を示しているのが勝応身です。

 その次に報身というのは、これは智慧身ということです。智慧というものは泉のごときものであって、どこに湧いて出るものやら、なにするものやらわからない。それを報身という。哲学もここまでくるとたいしたものです。

 今度は法身になってくる。法身となれば、生きているという姿をもってくるのです。おれは生きている。犬もネコも、ネズミもみんな生きている。生きている姿から生命の本質をつかまえる。そこまで哲学が高度になってくるのです。

 インド哲学もここまでくれば相当高度なものです。それをネールさんに、皆さんがもし会うようなことがあったら、ここを読ましておきなさい。インド哲学から出たものではありませんか。インド哲学から出ながら、インドの人間がこれを知らない。こういう問題を理解できるのは日本人だけです。

 

 始成の辺は同じということは、仏教哲学からいくとこれまためんどうなのです。たった一語で大聖人様はかたずけていらっしゃるけれども、釈迦仏、釈迦というのは、これは名前ではなくて、イモのことです。釈迦族とはイモ族ということになる。牟尼というのは聖者ということで、世尊というと、その一番の大将という意味です。

 

 爾前も迹門も、同じく始成である。これが仏法理論なのです。

 本門は、久遠の時に釈尊が仏になった。それ以来ずっと弟子を育ててきた。二十六回か八回か仏に生まれてきて、その間、全部自分で弟子を育ててきたというのです。

 ところが、われわれになると釈尊に関係してなかったのです。

 本当に私の講義がわかったら偉いものです。一字一句でも大聖人様のお心に、心から一句でも読めたら偉いものです。