其の上不軽菩薩は更増寿命ととかれて法華経を行じて定業をのべ給いき
不軽品にある言葉をお引きになっているのですが、いよいよ不軽菩薩が死ぬにあたりまして、天より法華経の声を聞いて、それを信じて命を延ばしたという句があるのです。そこをお引きになっているのです。
彼等は皆男子なり女人にはあらざれども法華経を行じて寿をのぶ
ところで、いま説いた経文はみな男の人の例である。女ではないけれども、このように法華経によって命を延ばしているというのです。
又陳臣は後五百歳にもあたらず冬の稲米・夏の菊花のごとし
陳臣が十五年命を延ばしたというのも、その時をたずぬれば、まだ像法の時である。冬の稲米、冬に稲ができたようなものだ。それから、菊の花が夏に咲いたようなものだ。菊というのは秋に咲くのが本当です。そういう時期でないときですら、あの陳臣は十五年も法華経によって命を延ばしているではないかというのです。
さて、今、末法の時になると、南無妙法蓮華経の功徳が充満する時であると、次にくるのです。なんで女人といえども、この法華経によって、病気がなおらぬわけがあろうか。かならず病気はなおるとおっしゃっているのです。
当時の女人の法華経を行じて定業を転ずることは秋の稲米・冬の菊花誰か・をどろくべき。
当時というのは、今という意味です。今の女人が御本尊を信じて命を延ばすということは、秋に米がとれ、冬になって菊の花が咲くようなものである。なにもおかしいことはない。あたりまえのことなのだということです。
されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり
これが御本山において、いよいよ病い重し、医者ではどうにも手がつかないというときに、皆さんに差し上げる護秘符のことです。
大聖人様のおかあさまが、いよいよ死んでしまう。その時、大聖人様が「我が仏法もしこの土に弘まるものならば母の命を助け給え」と。こういって差し上げた護秘符によって、息をふきかえし病気も治り四か年の間、生きていらっした。この護秘符だけは、どんなに私に書けといっても書くわけにはいかない。あなた方も作るわけにはいかない。これは大聖人以来、法主猊下への口伝でありまして、法主猊下以外の人がお作り申し上げることはできない。それが、日蓮正宗の富士大石寺にしかないのです。この秘事は知らないことです。
それ迷信だとか、なんだとかいう者はいわせておけばいい、命を延ばす本当の秘伝はこれにある。
今女人の御身として病を身にうけさせ給う・心みに法華経の信心を立てて御らむあるべし
これは折伏しているところです。このおば様も信心はしている。だがいよいよ強盛な信心をせよといっているのです。
しかも善医あり中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり
そこで、またそれだけではなくして医者にもかかれと。中務三郎左衛門尉は名医である。ですから、この人にみせて薬の力もかりなさいよと、こういっているのです。
命と申す物は一身第一の珍宝なり
それはそうです。命より大事なものはないでしょう。本当に命は大事です。命もなにもいらないなどと、そういうことはありえない。「命あってのものだね」というではありませんか。
一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり
一日でも命を延ばせば千万両の金にもすぎておる。これは本当です。長く生きなさい。あなた方も、御本尊を信じて、早く死なないほうがいい。米くらいなんとかなるから心配ない。(笑い)
法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし
法華経が一代の経文の中で、もっとも尊いというのは寿量品のゆえである。ここはよくよく読まなくてはいけません。寿量品といいましても、法華経文上の寿量品ではありません。大聖人様お悟りの寿量品、すなわち文底の寿量品、南無妙法蓮華経という御本尊のことです。
閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし
世界一に偉い人でも、早死にしたらなんにもならない。命を大事にしなさいというのです。
日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る
太陽のような智慧者でも、早死にしてはなんにもならぬ。犬にも劣るというのです。
早く心ざしの財をかさねていそぎいそぎ御対治あるベし
心ざしの財、すなわち心の宝を積めというのです。それは御本尊様に信心まいらせよということです。そして対治あるべし、病気をなおしなさいというのです。
此れよりも申すべけれども人は申すによて吉事もあり
人はそのことによって、よいこともあるという。「うんそうか」といって聞けることもある。よほど根性曲がりのばあさんらしい。
又我が志のうすきかと・をもう者もあり
また聞き方によっては、相手の親切が受け入れられない場合もあるというのです。
人の心しりがたき上先先に少少かかる事候
人の心というものはわからないものだから、とにかくいうだけはいっておいてやろうということです。
此の人は人の申せばすこ(少)そ心へずげに思う人なり
この人は、人がいうと疑う人だ、根性曲がりだということです。
なかなか申すはあしかりぬべし
あんまり強くいうと、あしかりぬべし、聞き入れない。根性曲げてしまって「私のことは、私がやりますからいいわよ」などと(笑い)そういうばあさんに出会うことがあるでしょう。
但なかうどもなく・ひらなさけに又心もなくうちたのませ給え
誰からも聞くなというのです。おまえさんは人からなにか聞くと、御本尊様ってそんなにありがたいのか、いやそんな人でもないだろうとか、御本尊なんか信じてはだめですよといわれると、ああそうかなどと、思う性分の人なのだから仲人もなく、だれかれと聞かずに、ただひたぶるに御本尊様を拝みなさいよというのです。
去年の十月これに来りて候いしが御所労の事をよくよくなげき申せしなり
去年の十月、御主人がきた時に、病気のことを聞いたというのです。
当事大事のなければ・をどうかせ給わぬにや
その時には、あまり重くなかったらしいから、驚きもしなかったというのです。
明年正月二月のころをひは必ずをこるべしと申せしかば・これにも・なげき入って候。
今はたいしたことはないけれども、来年の一月、二月になったら病気が起こるということで、それには私も心配しておったと。仏様の暖かいお心のうちが表われています。
富木殿も此の尼ごぜんをこそ杖柱(つえはしら)とも恃(たのみ)たるになんど申して候いしなり
富木殿も、すなわちご主人もこの女房を杖柱と頼むというのです。力にしているぞというのです。
随分にわび候いしぞ・きわめて・まけじたましの人にて我がかたの事をば大事と申す人なり
非常に負けずぎらいな人で、ここでは、このおばあさんのことらしい。あるいは死んでいようが、自分の味方を、自分の親類のことをばとってもよくする方だというのです。
かへすがへす身の財をだに・をしませ給わば此の病治がたかるべし
身の財、とにかくあまりお金やなにかに執着しないで、御本尊様第一にしなさい。そうすればかならずなおるというのです。
一日の命は三千界の財にもすぎて候なり先ず御志をみみへさせ給うべし
からだをじょうぶにしなさい。病気をなおしなさい。一日命を延ばすことは、三千世界の財にもまさることである。御志、すなわち信心の志を表わしなさい、ということです。
法華経の第七の巻に三千大千世界の財を供養するよりも手の一指を焼きて仏・法華経に供養せよと・とかれて候はこれなり
これはめんどうなことです。三千大千世界の財を積んで仏に供養するよりも、わが指のひと指を仏に供養するほうが功徳が大きい。
私がいつもやかましく折伏しなさいということですが、妙な折伏をしてはいけません。夜寝るところを、本当は会社から帰って休むところを、友人のため、人のために、折伏をしてあげるということは、身をもって供養したことになるというのです。
だが、相手がねむそうな顔をしているのに、いつまでもがんばって話してもだめです。よその家に行って、十一時、十二時までがんばっているのはいけません。相手は困っているのです、早く帰ってもらいたいと。それをまだわかりませんか、まだわからないのですか(笑い)。よっぽどこちらの心がわからない。そんなのはいけないのです。
また、商売を休んで折伏に行っている人がいる。それは仏様の御命令にそむくことです。商売は商売できちんとやって、自分が寝る時間、休む時間を一時間でも、二時間でもさいて御奉公する。これが本当の折伏精神というのです。それを相手が困ろうとどうしようと、夜中の一時でも二時まででもがんばっている。しまいには飯でもでないかなと(笑い)、こんなのは断じていけません。
命は三千にもすぎて候・而も齢もいまだ・たけさせ給はず
命は大事です。しかも、あなたはまだ老人ではないというのです。
而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべし、あらをしの命や・をしの命や
年をとらずに、あなたは御本尊に会ったではないか。それで命を延ばせない法はないぞとおっしゃるのです。一日でも生きのびて題目を唱えるならば、折伏をするならば、功徳が積もることになるではないかとこういうのです。強情なおばあさんですから、「ああ命が惜しい惜しい」と大聖人様はいっているのです。強情っぱりだから、だんだん、そうかなそうかなとなってくる。信心するようになるのではないかと。あら惜しの命や惜しの命やと。おしいということです。
御姓名並びに御年を我とかかせ給いて・わざと・つかわせ大日月天に申しあぐベし
名前と年とを書いて、大聖人様はちゃんと知っているのですが、わざわざ書いて使いをよこしなさいというのです。すなわち、御本尊に祈ってあげましょうというのです。
いよどのもあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり、恐恐。
尼ごぜん御返事 日 蓮 花 押
伊予殿というのは子供です。子供もずいぶん心配しているから、ここに題目を唱えてあげますから、名前を書いてよこしなさい。子供のことも非常に心配しているというのです。