聖人御難事講義(御書全集一一八九ページ)

 

 去ぬる建長五年(太歳癸丑)四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり

 

 これは問題です。それは、私が牢にはいった原因は、日本国家が、これでやったのです。なぜかならば大聖人様の仰せでは、時の勢力を監督あそばしたのです。なにも天皇陛下を粗末にしたのではありません。大聖人様は絶対、粗末にしてはおりません。だが、時の権力は将軍家へ移っているのです。それは右大将、すなわち源頼朝という人ですけれども、その鎌倉幕府の政治をごらんになって、どう日本の政治をやらせるか、どう日本の政治をとるか、そういう大問題にぶつかって、お説きあそばしていらっしゃる。すなわち鎌倉幕府を相手にしていらっしゃるのです。

 

 それを天皇陛下と間違って、この御書を読む人が多いのです。天皇陛下を、絶対に相手にはしません。相手にしないというよりは尊敬し奉っているけれども、実権が鎌倉幕府に移ってからは、鎌倉幕府を相手にしての闘争なのです。読んでごらんなさい。はっきりします。

 

 此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年(太歳己卯)なり

 

 午の時というのは、正午です。真昼ということです。その時に、南無妙法蓮華経と初めて大聖人様はお説きあそばしていらっしゃるのです。阿弥陀仏なんかなんだと、この理論を、お初めあそばしたのです。それから大聖人様に、災難が多くなってきたのです。

 この阿弥陀仏ということについて、二つの宗派がある。日本では法然という男が、ナンマイダを始めた。私は、大聖人様の御心をかりまして、これをナンマイダ仏といっては、大聖人様の御心にかなわないと思いますから、ナンマイダ、ナンマイダ(何枚)だというのです。

 

 親鸞という男は、今、本願寺系の念仏宗の大将になっているけれども、当時はたいしたことはなかったのです。

 その後、蓮如という男が生まれてきたのです。それは戦国時代だけれども、それが弘めたのが、今の本願寺の念仏宗です。あれは新興宗教です。法然とは、全然違います。法然系ではないのです。

 だから、大聖人様ぐらいのお方が、御書をお認めになった中に、法然系は出るけれども、親鸞系は一つも出ない。これは、どういうわけかといえば、親鸞はインチキ者なのです。彼らは、それを偉いようにデッチ上げて、皆ウソをついている。

 

 仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う

 

 出世の本懐というものがある。これは大事な問題です。出世というのは、なんのために人間が、この世の中に生まれてきたか、ということなのです。

 皆さんも、なんでこの世の中に生まれてきたのですか。女房を泣かせるために生まれてきたのか(笑い)女房は亭主をいじめるために生まれてきたのか。どっちですか(笑い)。生まれてきた目的はこれだという、これを出世の本懐というのです。

 

 だが、釈尊は四十余年にして、はじめて法華経を説いたその時こそ、わが出世の本懐だと思ったそうです。

 それから天台は三十余年にして、弟子に章安大師という人がおりますけれども、その人に、その摩訶止観を説いてやった、それだけで満足したという。

 伝教大師という方は、日本の人です。おもしろい人で、この方が比叡山に登りまして、歩いている間に、法華経の原理が、頭に浮かんできたのです。それで法華経の原理を、そこで悟った人です。しかし、まだそういっても、日本の人は信用しないでしょう。そこで、やむなく中国に行きまして、道邃和尚にあって、仏教の哲学を少しばかり覚えて帰ってきた。覚えるというよりも、最初から知っているのです。

 

 伝教大師は、中国から帰ってから六宗をことごとく天台宗に帰伏させ、東洋第一の迹門の戒壇を叡山に建立した。これが伝教大師の出世の本懐です。

 

 其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。

 

 大聖人様は三十二の御年に、南無妙法蓮華経と、清澄山でお唱えあそばして、二十七年で、今の総本山に厳護されている大御本尊様を、御建立なさった。それが弘安二年十月十二日です。その大御本尊様をわれわれは拝んでいるのです。

 

 それで、二十七年とおっしゃっているが、身延の輩はウソだという。ウソだといっても、だめなのです。御本尊様に力があるのです。そうでしょう。われわれが、理屈をいくらいってみたって、御本尊様に力があるのですから、どうしようもない。

 今、身延は金を銀行から借りて、利息も払えないでいる。だから理屈をいっても、なにをいってもだめです。

 わが日蓮正宗は、どこからも金なんか借りてはおりません。しかも今の猊下は、御立派でありまして、実に厳格でいらっしゃいます。身延の管長あたりのような、くさった仕事はしておりません。戸田ですら、至心に頭を下げて、ご奉公申し上げる人でありますから、そんなくさった猊下ではありません。実に御立派です。(拍手)

 

 大聖人様が立宗以来、二十七年後の、弘安二年十月十二日にお認めの御本尊様がまことにご立派です。拝んでごらんなさい。拝まないとわからない。あの大御本尊様は、円い人間の形になっているのです。そして、御文字の書き方も普通と違うのです。だんだん、こう肩さがりになっております。

 

 大聖人様というお方は、非常に気の大きい方らしかった。御自分の気の向くようにやっておられた。ほかの御本尊様を拝みますと、大きく書かれるでしょう。すると紙がなくなってしまいます。そうすると、脇のあいているところに、御自分の御名前を書かれて、それで終わりとするのです。そういう御方なのです。

 

 仏眼寺という寺が、仙台にありますが、ここに「飛び曼陀羅」といわれている曼陀羅があります。これは御開山日興上人様が、曼陀羅をずーっと、お書きになって、日蓮花押という御自分の御名前を、大聖人様が書かれていらっしゃるのです。それが有名な仏眼寺の「飛び曼陀羅」です。

 ところが、あるとき火事があった。そうしたら、その御本尊様が、青葉城という仙台公の城の木に、飛んでいってひっかかってしまった。それから「飛び曼陀羅」という名前がついているのです。そういういわれのある御本尊なので、仙台公はなかなか放さなかった。だがようやく今度は、仏眼寺にかえりました。拝んでごらんなさい。大聖人様と日興上人様の合作の御本尊様です。

 

「余は二十七年なり」とおっしゃって、お認めの御本尊様こそ、今の奉安殿の御本尊様であらせられるのです。御立派なものです。あの大御本尊様を拝んだら、命が延びるとまでいわれているのです。立派な大御本尊です。それは、拝まなければわかりません。拝んでもわからないかもしれない。聞いてもわからないかもしれない。ただ無二の信心で拝すべきです。

 

 法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」云云

 

 この折伏をすると、みんなうらまれるのです。折伏して喜ばれたためしはない。皆さん、やってみてどうですか。

「如来の現在においてすら怨嫉多し、まして、いわんや滅度の後においておや」というのです。私がおっても、みんなに憎まれるのに、私が死んだら、もしこの経を説けば、すなわち折伏をすれば、みんな憎まれるぞというのです。

 

 あなた方も、折伏したことあるかもしれない。ないかもしれません。それは、わたしは知らないけれども、たいてい、ほめられることはない。どうですか。(笑い)

 

 釈迦如来の大難はかずをしらず、其の中に馬の麦をもって九十日・小指の出仏身血・大石の頂にかかりし

 

 釈尊は馬の麦を九十日も食ったというのです。釈迦如来というのは本名は瞿曇という。釈迦というのは「イモ」ということです。釈迦族という種族の名前でイモ族と訳すのです。釈迦牟尼世尊というのが、本当の呼び方です。釈迦というのは国の名前、牟尼というのは、その国で一番、礼拝される、偉い人という意味です。

 

 そこで、馬の麦を九十日も食べたというのには、おもしろい話がある。弟子どもを連れて、インドの国から説法に行ったわけです。そうしたら、途中でつかまって、今はカラス麦というのですが、日本では、馬に食わせる麦、えん麦というのです。それを食わせられて、そのときに「なんで、こんなもの食わなければなりませんか」と弟子が釈尊に聞いたそうです。釈尊がいうのには「悪いことはできないものです。おまえらを連れて、この山にきたことがあるではないか」というのです。「そんなことはないでしよう、先生」といったら「いいや、過去世の話だ。過去世に、ここへきて、あの僧侶の食物を、盗みとったではないか」というのです。「その果報で、今ここにきて、この麦を食わせられているのだから、自業自得だ」といったというのです。

 

 これは前の世で、釈尊が弟子五百人を連れて、その山へ行ったときに、食ベ物がないもんだから、そこを通っている僧侶の食べ物を、全部とって食べてしまった。だから今度は自分がここへきたとき、カラス麦を食わせられたのだというのです。これはおもしろいではありませんか。

 貧乏するということも、なにもそんなに、深いわけがあることではない。前に泥棒したから、貧乏しているだけのことだ。人をごまかしたから貧乏しているだけのことです。その根性が今でもある。それをやめればいいのです。それは観心本尊抄にある。ただ御本尊様におすがりすれば、前の世の悪いことは全部消えてしまうという。そして、自分たちは幸福になるというのです。大聖人様は、そうおっしゃっているのです。観心本尊抄を少し読めばわかります。問題はここです。前の世でいくら悪いことをしても、それはかんにんして下さらなければこまります。前の世のことまでいわれたのでは、どうしようもない。どうですか。(笑い、

拍手)前の世のことは、いわないで下さい。この世の中だけのことにしてもらわなければ困りますと。この世のことについては、観心本尊抄にいわく「大御本尊様を拝めば、この世のことだけですむのだ。どんな願いも叶うのだぞ」とおっしゃっておられる。それでいいではないか。ほかになにか聞きたいことはありますか。講義はここまでにします。