若し爾れば近きを以て遠きを推し現を以て当を知る如是相乃至本末究寛等是なり。

 

 今がわかってこそ、先がよくわかる。あなたの心を静めて、この御書をしっかりお読みなさい。今、貧乏しているということは、過去世でなくても、おとといか、さきおとといに原因をつくっている。今貧乏しているということは、将来、金持ちになるという原因になるのです。それならうれしいだろう。今を知って、未来を考えよというのです。大事な言葉です。

 

 後五百歳には誰人を以て法華経の行者と之を知る可きや予は未だ我が智慧を信ぜず然りと雖も自他の返逆・侵逼之を以て我が智を信ず

 

 後五百歳に、末法の仏とお生まれあそばした大聖人様御自身が、自分の智慧は信じないけれども、経文には、自界叛逆・他国侵逼の難が書かれている。

 当時、鎌倉時代の世相がそれに符号している。だから、自分の智慧は用いないけれども、法華経の経文、大集経、仁王経等によって考えるに、今こそ、後五百歳広宣流布の時ではなかろうか。

 今、戸田域聖は、なにも偉くない、一介の凡夫でありますが、この大聖人様の御書を拝するときに、つくずくと思う。日本の国は、他国侵逼難で敗れたではないか。大聖人様の時は、壱岐・対馬ですんだけれども、今度のは大きい、日本国がことごとく敗れてしまった。

 日本民族くらい、優秀な民族はない。民族学からいって、理由はあります。しかも、失敗したとはいえ、アジアの植民地形体が破れた。アメリカにもせよ、イギリスにもせよ、ロシアにもせよ、東洋の植民地形態は、日本人が破ったようなものです。インドネシアにもせよ、インド、パキスタンにもせよ、べトナムにもせよ、みな独立国として立ち上がったのは、日本民族が刺激したからなのです。偉いことをやったのです。

 

 その偉いことをやった日本民族が、漁業問題等で、韓国やソ連、中国などの諸外国から締め出されています。

 そのように、日本民族が敗れたということは、他国侵逼難です。

 また、今の政界をみても、自界叛逆難ではないですか。大きくいえば、社会党と共産党と自民党とケンカしている。自民党の中をみたって、まとまってなどいません。派閥があって、いくつにも分かれている。社会党だって左派だ、右派だといって争っているし、共産党だって、中でケンカばかりしている。では、経済界はどうか。

 

 国鉄の問題でも、炭労の問題でも、ストライキばかりやりたがっている。ストライキ病です。自界叛逆難でしょう。あなた方の家庭では、自界叛逆難なんかしてはいけません。女房と亭主とで自界叛逆難だ、息子がいうこときかないで自界叛逆難だと、(笑い)

 

 そういう姿が、日本の国にありありと現われている。これをもって、今こそ広宣流布の時であると、私は断言するのです。(拍手)

 

 敢て他人の為に非ず又我が弟子達之を存知せよ日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん

 

 大聖人様がみずから、自分が法韮経の行者だ、すなわち仏であると断言なさっておられる。御義口伝(御書全集七五二ページ)を拝しますと「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法運華経と云うなり」と仰せであります。

 だから、大聖人様を軽んずる者は、頭七分に破れ、信ずる者は、福を安明に積む、すなわち、永遠の幸福の中へ、溶け込んでいけるといわれるのです。

 

 問うて云く何ぞ汝を毀る人頭破七分無きや

 

 ところが、直接に大聖人様を迫害する者が、頭破七分にならないのは、どういうわけかという疑問であります。

 

 答えて云く古昔の聖人は仏を除いて已外之を毀る人・頭破但一人二人なり

 

 頭が破れるという人間は、法華経を尊んだ昔からの聖人を悪口いった人間は、仏の場合以外、一人か二人であって、それは皆、頭破七分の罰にあった。

 

 今日蓮を毀砦(きし)する事は非(とが)一人二人に限る可らず日本一国・一同に同じく破るるなり

 

 ところが、そのころの大聖人様に悪口をいった者は、一人二人どころではない。日本じゅうことごとく反対だから、罰の出方が違うんだと仰せなのです。

 

 所謂正嘉の大地震・文永の長星は誰か故ぞ

 

 正嘉の大地震や、文永の長星は、いったい、誰のためなのか。

 

 日蓮は一閻浮提第一の聖人なり

 

 これはハッキリ仰せられている。自分は世界第一の仏であると。

 

 上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に梵と釈と日月・四天と隣国に仰せ付けて之を逼責(ひっせき)するなり

 

 大聖人様をいじめたり、島流しにしたりするから、梵天・帝釈・日月・四天等が、隣の国にいいつけて、この日本の国を治罰するのだと。すでに治罰されてしまったのです。

 

大集経に云く・仁王経に云く・涅槃経に云く・法華経に云く・設い万祈を作すとも日蓮を用いずんば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん

 

 大集経にも、仁王経にも、涅槃経にも、法華経にも書かれたとおり、大聖人を用いなかったならば、この国は、壱岐・対馬と同じになるぞと警告を発せられているのです。

 今、日本の国も、ジャーナリストは学会のことを色々書いて喜んでいるけれども、本当に理解しなかったならば、再びもとの姿に返るかもしれない。しっかりやらなければならないのです。人が、どうこういおうと恐れず、折伏をしなければならない。しかし、ケンカしてはいけない。折伏して相手がきかないと「この野郎! 三日で死ぬぞ」などと、そんなわかりもしないウソをいってはいけません。腹を立てて「チクショゥメ!」などといって逆になぐられてしょぼしょぼ帰ってくるような、そういうやり方はいけません。三世の生命の転換を図ってやるのですから、仏の境涯について、優しく、論理を尽くして説いてやらねばならないのです。

 

 我が弟子仰いで之を見よ此れ偏に日蓮が貴尊なるに非ず法華経の御力の殊勝なるに依るなり

 

 今、創価学会がひろまっていることについて、世間では「組織が立派だから」どうとか、バカなことばかりい

っている。大御本尊様に力あればこそ、ひろまってきたのです。大御本尊様を拝んで、功徳があるからこそ、ひ

ろまっていくのです。組織だとか、戸田城聖がどうとかいう小さな問題ではないのです。大御本尊様の威力の問

題なのです。

戸田城聖がひろめているようにいうのだが、冗談ではない。私なんかひろめていません。勝手にひろまってい

るのです。(拍手)

 

 身を挙ぐれば慢ずと想い身を下せば経を蔑る

 

 ここは大事だ。「大御本尊様に力がある、大丈夫こうなるんだ」というと「自慢ばかりしている」などと思うだろう。反対に「さあ、御本尊様はどうかわからないけれど、あなた信仰して下さいよ」といったとすれば、経を蔑るのです。謗法になります。

 

 よくあるのです。折伏しなければならないというので「あなた信心して下さいよ、頼みますよ」などと。謗法だから、そういうことをやってはいけません。

 

 松高ければ藤長く源深ければ流れ遠し、幸なるかな楽しいかな穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已。

 

 松が高いと、それを上ってくる藤が高くなる。源が深ければ、流れは遠くなる。御本尊様がたいしたものだから、みんなしあわせになるのだと。この穢土、けがれた世の中において、楽しいのは、日蓮一人であると。こちらも仲間に入れてもらいたくなる。

 

 どうですか、あなた方は。

 

 御本尊があるから大丈夫だ。御本尊を拝んでいるから、オレは大丈夫だ。この確信が胸の奥底から出てきたら信心は一人前です。「いや、ああしなきゃダメ」「こうしなきゃダメ、どうなることか……」などと、そんな心配はいりません。私は御本尊様を拝んでいるのだ。今朝も拝んだ。今も拝むのだ、わが人生は大丈夫だという確信がつけば、大丈夫です。そこまでいっていますか。怪しい人ばかりいるのではないか(笑い)。きょうから、こうなりなさい。しあわせになるに決まっています。