かくて・すごす程に庭には雪つもりて・人もかよはず堂にはあらき風より外は・をとづるるものなし、眼には止観・法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ夜は月星に向ひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ、いづくも人の心のはかなさは佐渡の国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等の数百人より合いて僉議すと承る、聞ふる阿弥陀仏の大怨敵・一切衆生の悪知識の日蓮房・此の国にながされたり・なにとなくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、設ひいけらるるとも・かへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし、塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれば集りていころせかしと云うものもありけり、又なにとなくとも頸を切らるベかりけるが守殿の御台所の御懐妊なれば・しばらくきられず終には一定ときく、又云く六郎左衛門尉殿に申してきらずんば・はからうベしと云う、多くの義の中に・これについて守護所に数百人集りぬ

 

 この御書のところが、佐渡の国に大聖人様がおられて、そのときのごようすをこまごまとお認めです。大聖人様が佐渡へ流されたときのようすは、佐渡で殺されるという風聞がたっていたのです。それはうわさです。ところが本間六郎左衛門への、時の執権である時宗から下された、あるいは佐渡をあずかっている武蔵守殿などから下された添え状には「この僧はこわい人ですから、けっして危害を加えてはあいならん」ということが書いてあった。ところが佐渡の僧侶から平左衛門へ讒言が非常に飛んでいた。それで一定、佐渡で殺されるであろうということが一般のうわさであった。ただ時宗の奥さんが懐妊されていたから、それがためにいちじ、命を延ばされたのだ、それがすんだら殺されるのだと、そういう条件のもとに大聖人様が佐渡におられた時のようすが、今の御書であります。

 

「かくて・すごす程に庭には雪つもりて………」これは塚原の三昧堂のようすです。庭には雪が降り積もって誰一人として尋ねてくる者もない。堂には荒い風よりほかには訪れてくる者はない。

 眼には摩訶止観 ー これは天台大師が章安大師に向かって、四月二十六日から一夏にかけて説いた経文でありますが、この経文の中に一念三千の法門が明らかにされているのです。ですから、眼には止観・法華をさらし、大聖人様は深くお考えあそばしている。口には南無妙法蓮華経の題目を唱えておられた。夜は大月天、大明星天に向かって、諸宗の違目、真言はここが違う、天台の違いはここにある、末法に予が唱うるところの仏法はこうであると談じている。そして年もたったというのです。どこの国でも人の心のはかなさは同じようなものであって、佐渡の国の持斎や念仏宗の唯阿弥陀仏、生喩房、印性房、慈道房等が数百人寄り合って、日蓮大聖人のことについて、色々と協議したというのです。

 すなわち、その内容は聞くところによると、彼らのいうのには、「阿弥陀仏の大怨敵であり、一切衆生の悪知識である日蓮が、この島に流されてきている。ともかく佐渡の国に流された者は帰るすべがない、また生きて帰っても東国に帰されたことはないのだ」というのである。そういううわさであったのです。

 たとえ佐渡の国にいて生きておったとしても、打ち殺してもとがめはなかったろうということを、すなわちそのころの念仏宗の坊主が僉議したというのです。

 いかに日蓮房が強いといっても、塚原の三昧堂にただ一人でいるのだ。みんな集まって弓矢で射殺せ、こういうことをいい出した者もいる。

 守殿というのは執権の相模守時宗殿ですが、その人のご夫人がご懐妊であれば、今はそのままとなっていて殺されないでいるけれども、最後に殺されるのは一定と聞いているというものもあった。

 また中には本間六郎左衛門にいっても、大聖人を殺さなければ、われわれ一同で謀って殺そうではないかというものもあった。

 実に険悪な状況にあったものです。そこで意見は多く出たが、結局は本間六郎左衛門のところへ数百人の人が集まって殺してしまえと強訴したのです。

 

 六郎左衛門尉云く上より殺しまうすまじき副状下りてあなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連(しげつら)が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかしと云いければ念仏者等・或は浄土の三部経・或は止観・或は真言等を小法師等が頸にかけさせ或はわきにはさませて正月十六日にあつまる、佐渡の国のみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等なれば塚原の堂の大庭・山野に数百人・六郎左衛門尉・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり、念仏者は口口に悪口をなし真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し、日蓮は暫らく・さはがせて後・各各しづまらせ給へ・法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなしと申せしかば・六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて悪口せし念仏者をば・そくびをつきいだしぬ、さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつ(牒)しあ(揚)げて承伏せさせては・ちやうとはつ(詰)めつめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなび(靡)かすが如し、仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ、善導が柳より落ち弘法大師の三鈷(こ)を投たる大日如来と現じたる等をば或は妄語或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。

 

 ところが本間六郎左衛門という人は、佐渡の代官でありますが、その人のいうのには、この僧には、鎌倉よりは殺してはあいならんという副状があるから、殺すわけにはいかない。もし大聖人におまえ達が害を加えるならば、六郎左衛門に罪をかぶせることになる。それではいけないといって、大聖人の命をかばったというのです。

 そこで、本間六郎左衛門のいうことには、殺したりする、そういう暴力を用いてはいけない、法門で責めろ、そこで僧侶たちが、あるいは浄土の三部経、あるいは摩訶止観、あるいは真言の大日経、あるいは蘇悉地経等を首にかけたり、あるいはわきにはさんだりして、続々と正月十六日に塚原へ集まってきたというのです。

 

 法論をやろうというのですから、佐渡だけではなく、他からも応援がきた。越後、越中、出羽、奥州、信濃などの国々から集まってきた。そして塚原の堂の前の大庭に数百人が集まってひしめいている。六郎左衛門尉兄弟一家も臨み、その他百姓の入道等が数え切れないほど集まった。

 念仏者は口々に悪口をいっている。真言宗の坊主は怒りのために色を失い、天台宗は「法華ならオレの方だ」と騒いでいる。また佐渡の在家の者は、日蓮房こそ、阿弥陀の憎い敵であるといってののしっている。ちょうどその騒ぎは震動か雷電のようであった。ワァーワァー騒いでいたのです。

 ところが、はじめは日蓮大聖人は黙って騒がせておいた。それから、声を強めて、静まりなさい、あなた方は悪口をいうためにきたのではなかろう。法門のためにこそ、こられたのではないか。しからば、法門の話をしようではないか、悪口などは詮のないことであるとおっしゃった。ところで本間六郎左衛門兄弟もこれを聞いて、もっともだと、悪口をいっている念仏者の首をつかんで突き出した。これは、荘厳ないくさです。

 

 さて天台、真言、念仏などの彼らのいう意見を、それは違う、こうだ、大聖人はいちいちに取り上げては、一言で打ち破り、二言とおっしゃらなかった。鎌倉の真言や、禅や、念仏や、天台等の論争の人達よりも、佐渡に集まった者どもは、いかに学問がなかったかということがはっきりするというのです。すなわち、切れる刀で瓜を切ったり、大風が草をなびかすように、大聖人様が一言でいい負かしてしまったというのです。

 

 次に、彼らは仏法が少しもわからないのみではなく、あるいは自語相違し、あるいは仏法の上には論と釈とがあるが、それを取り違えたというのです。経文とは仏の説かれたものですが、それを菩薩が論じたのを論というのです。それをさらに解釈したのを釈というのです。彼らは経文とか論とか釈というものがわからないから、経文を忘れて論といったり、釈の文であるのに論といったりしたというのです。

 そこで大聖人は、善導が柳の木より落ちて自殺したことや、真言宗の弘法が、唐から帰るとき三鈷(こ)を投げたことや、殿上で秘法を修して大日如来と現じたことなどがウソであることをいちいちに責めたので、あるいは悪口し、あるいは閉口し、あるいは顔色を失い、さまざまであったが、中にはすなおに念仏は間違っていたという者もあり、あるいはすぐさま袈裟や平念珠を捨てて、きょう限り念仏を捨てるという誓状を立てるのもあった。

 

 この善導の首つりはおもしろいのです。善導和尚というのは中国の念仏の僧ですが、中国の一番の親方は曇ですから、善導は道綽につづいてその三代目です。念仏宗では人が死ぬと、観音と勢至が来ることになっている。

 善導が神経衰弱になっていうのには「わが輩はきょう死んでみせる、観音と勢至が迎えにきたら、その姿を見ておまえ達は念仏を信じろ」と、そうして、柳の木に首を吊って「ナンマイダナンマイダ」と唱えたところが、柳の枝が折れたのか繩が切れたのか、乾いた土の上に落ちて腰をいやというほど打ちつけた。観音、勢至が迎えにくれば文句はないのだが、そのために二七の十四日間、ウンウンうなって苦しみに苦しんで死んだのです。もちろん観音も勢至もきません。有名な念仏の悪現証になっております。

 

 それから弘法が三鈷を投げたと御書にありますが、皆さんは弘法というと偉そうに思うでしょう。あれはインチキ者です。今でいうと大詐欺師です。あれが今、生まれてきて外務大臣にでもなれば、総理大臣の片腕にでもなってよいのだけれども、あれはインチキで有名な詐欺漢です。

 中国からの帰りに海で三またの杵を天上に投げた。くるくると回って飛んでいったというのです。それが落ちたところに寺を建てるというのです。すると、その杵が高野山からでてきたといって百姓が持ってきた。「これだこれだ」というわけです。冗談ではありません。

 そんなことができるわけがありません杵を投げたらクルクルと回って見えなくなったというのです。それが高野山に落ちたともいうのです。冗談もいいかげんにしなさい。そういうことを、大聖人様がよく知っていらっしゃる。弘法は癩病で死んだのですから、高野山の僧侶にいったらおこるかもしれないけれども、「われあやまてり」という文宇が彼の部屋にあったとかいううわさがあります。あれはかわいそうな死に方です。同じ死ぬなら、キューッと死んだ方がまだいいでしょう。癩病で死ぬなどとかっこうが悪い。これは法華経を誹謗した者は白癩病になると、勧発品にきちんと出ています。譬喩品にもあります。

 そのように、玄海灘で弘法が投げた杵が、高野山まで飛んで来るわけがないのです。飛行機があったわけではない(笑い)。そういうインチキな人です。それを皆さんは弘法大師などと偉そうに思っているでしょう。

 

 念仏という経文はバカバカしいが、おとぎ話として読めばおもしろい経文なのです。三部経をお読みになったかどうか知りませんけれども、観経でも双観経でも阿弥陀経でも、おもしろいことはおもしろいが、なんの役にも立たない。アミダアミダというけれども、アミダにもいくらも種類がある。これは今までも耳にたこができるくらいいっているのですが、十円出すのと百円出すのと千円出すのと色々あるでしょう。これをアミダくじという(笑い)。と同じように、仏法上の阿弥陀仏にも三種類ある。法蔵比丘という僧がおりまして、四十八の大願を立てた。そして仏になった。この仏は近ごろなったばかりで、命が非常に短いのです

 この法蔵比丘の四十八願をもって念仏宗をつくっているのです。

 ところが法華経迹門の阿弥陀は釈尊と兄弟なのです。三千塵点劫の時の仏である大通智勝仏の、十六人の兄弟の中の一人になっております。また法華経本門の阿弥陀は、五百塵点劫の釈尊の分身であります。しかし、どの阿弥陀も御本尊よりみれば非常に劣り、末法には役に立たぬ仏です。

 

 曇鸞、道綽、善導、法然、これらはもっとも低級な阿弥陀である法蔵比丘の十八願を基礎にして、念仏の教えを作りあげたものです。この十八願に但し書きがある。経文を開いてごらんなさい。法蔵比丘の四十八願の中の第十八願に「十方の衆生至心に彼国に往生せんと欲せば必らず往生を得、但し五逆罪の者と正法を誹謗する者を除く」とある。その但し書きをとって、彼らは念仏宗の教義を作っているのです。

「わが浄土にみな生まれてくれ。生まれてこないなら自分は仏にならない」と、そういう誓いをしている。そういう十八願を立てた。ただし五逆罪の者と誹謗正法の者を除くといっている。その但し書きを取って開いたのが念仏宗です。ですから、その違目というのは、違っているということですが、それをみな教えてやったというのです。

 

皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、日蓮不思議一(ひとつ)云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべしと申せしかば・いかにや思いけめあはてて(急遽)ものもいはず、念仏者・持斎・在家の者どもも・なにと云う事そやと恠(あや)しむ。

 

 実に不思議です。ちょうど議論の終わった一月の時に、塚原問答が終わって、六郎左衛門が帰ろうとしたら、大聖人様が一つ不思議をいおうといって、六郎左衛門を呼び返していうのには「あなたはいつ鎌倉に行くのですか」と。ところが六郎左衛門の返事には「麦を作っているから麦を刈り入れして、その後、七月ごろ鎌倉に行くつもりです」と。なにをいうのだと大聖人様はおっしゃった。「弓矢をとる武士というものは、おおやけの戦いに駆けつけて勲功をたてて、所領を賜わってこそ田畑を作れるというものであろう。さすがに貴殿らは相模国では名の知られた侍である。今鎌倉に戦争があるのに、なぜ駆けつけないのだ」といったというのです。

 どうして、大聖人様にそれがわかったのかということです。日を数えて計算なさったらしいのです。自分が佐渡の国に流され、日を計算すると、鎌倉に自界叛逆難が起こっている。なぜかけつけないのかと本間六郎左衛門尉にいったらしい。これはその後、そのとおり、ピタッと当たったのがわかったのです。

 あなた方は本間一族といえば鎌倉で名ある侍ではないか。それがいなかで田畑を作っている。鎌倉の戦争で駆けつけなかったならば、名誉はなくなるではないか。こう教えたというのです。みんな、なにをいっているのかと不思議に思った。そばでこれを聞いていた念仏者や持斎の者や、その他の在家の者達も、なんという不思議なことをいうのだろうと、怪しげな顔をしていたというのです。