はるか計りありて云くさがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す、此れは道知る者なし・さきうちすベしと申せどもうつ人もなかりしかば・さてやすらうほどに或兵士の云く・それこそその道にて候へと申せしかば道にまかせてゆく、午の時計りにえちと申すところへ・ゆきつきたりしかば本間六郎左衛門がいへに入りぬ、さけとりよせて・もののふどもに・のませてありしかば各かへるとて・かうべをうなたれ手をあさへて申すやう、このほどは・いかなる人にてや・をはすらん・我等がたのみて候・阿弥陀仏をそしらせ給うと・うけ給われば・にくみまいらせて候いつるに・まのあたりをがみまいらせ候いつる事どもを見て候へば・たうとさに・としごろ申しつる念仏はすて候いぬとて・ひうちぶくろよりすずとりいだして・すつる者あり、今は念仏申さじと・せいじゃうをたつる者もあり、六郎左衛門が郎従等・番をばうけとりぬ、さえもんのじょうも・かへりぬ。
武蔵守殿の領地は、先ほど申しました佐渡です。佐渡の代官職となっていたのが、今の本間六郎左衛門です。その依智というのは、今の東京の相模原というところです。ですから、鎌倉から相模国まで歩いたわけです。依智というところまで行けという命令がとんできたというのです。
大聖人様がどっちに行ってよいかわからないから誰か先に行けといった。みんな、おっかなくて行けないのです。人間というのは、あとからくっついて歩くのは楽だけれども、前を歩くのはおっかないものなのです。首斬ろうとしたら火の玉が飛んできたような人だから、なにをやるかわからない、おっかないから誰も先に手を出しません。
こっちの方だと指をさす、それでその道を行ったら後からくっついてきたというのです。ところが午の刻というのは昼の十二時です。相模原まで行くのに、相当かかったわけです。そこへ行って、昼ころには本間六郎左衛門の館に着いたというのです。それから、武士たちにはなんのとがもないのですから、夜中に起きていた労をねぎらってやろうと思われて、彼らが帰るまえに、お酒を買って飲ませてやったというのです。それで、みんな帰るときに頭をたれ手を合わせて改宗を誓うのです。
これは、ちょうど皆、まのあたりにいろいろな奇蹟を見て、今までは阿弥陀仏の悪口をいう人だから、わしらも憎いと思っていたが、まのあたりに拝んでみれば立派な方である。奇蹟もあのように顕われてくる。よって、皆、ここで阿弥陀のジュズをふところから出して切った。あるいは、もう阿弥陀はいわん、題目を唱えるという誓状を奉ったりして、今度は送ってきた番を六郎左衛門の番衆に渡した。
其の日の戌の時計りにかまくらより上の御使とてたてぶみをもちて来ぬ、頸切れという・かさねたる御使かと・もののふどもは・をもひてありし程に六郎左衛門が代官右馬のじょうと申す者・立ぶみもちて・はしり来りひざまづひて申す、今夜にて候べし・あらあさましやと存じて候いつるに・かかる御悦びの御ふみ来りて候、武蔵守殿は今日・卯の時にあたみの御ゆへ御出で候へば・いそぎ・あやなき事もやと・まづこれへはしりまいりて候と申す、かまくらより御つかいは二時にはしりて候、今夜の内にあたみの御ゆへ・はしりまいるべしとて・まかりいでぬ、追状に云く此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給うべし・
あやまちしては後悔あるベしと云云。
それで、その日の午後八時ごろ、鎌倉からそのとき正式の手紙がきた、命令書がきたというのです。その手紙は由比が浜で斬れなかったから、本間六郎左衛門のところで斬れという命令かと思ったというのです。それで、右馬のじょうという六郎左衛門の代官がきて、ひざまづいていうのには、ゆうべは斬れなかったから、今夜斬れという命令書かと思ったのに、さにあらず、喜びの命令書であるというのです。
代官がいうのには「武蔵守殿が今朝の六時に熱海の湯に行っているから、それから立てぶみをもってくるのでは、それまでにこの日蓮大聖人にケガがあってはあいならんといって、急いでこの立てぶみを使いに持たせてよこしたというのです。ところで、その使いは鎌倉から四時間で走ってきた。そして今夜のうちに熱海の湯にいる武蔵守殿のもとへ行くのであるとすぐ出て行きました」と。その立てぶみの中には、この人には罪がない、あやまちしたならば後悔あるから、大事にしておきなさいという手紙であったというのです。
其の夜は十三日・兵士ども数十人・坊の辺り並びに大庭になみゐて候いき、九月十三日の夜なれば月・大に・はれてありしに夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて・自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣・法華経の文あらあら申して抑今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と誓状をたてし天ぞかし、仏前の誓は日蓮なくば虚くてこそをはすべけれ、今かかる事出来せばいそぎ悦びをなして法華経の行者にも・かはり仏勅をも・はたして誓言のしるしをばとげさせ給うベし、いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな、何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず、しるしこそなくとも・うれしがをにて澄渡らせ給うはいかに、大集経には「日月明を現ぜず」ととかれ、仁王経には「日月度を失う」とかかれ、最勝王経には「三十三天各瞋恨を生ず」とこそ見え侍るに・いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし。
仏の御難でありますから、このくらいの奇瑞はあるのです。また大聖人様御自身の境地に偉大なる確信がありますから、それで月天を責めたのであります。もし御本仏の御確信がないならば、どうして良観房と雨乞いの争いをなされて勝たれるというようなことができましょうか。その月天を責められたようすが、ありありと見えるようです。
ともかく鎌倉から託された罪人でありますから、殺すわけにはいかないが、逃げられても困る。それで侍が二、三十人、大聖人様がいる部屋のまわりや庭にたむろして警固していたというのです。
そこで大聖人様も、ここで腹をお決めになって、今まで法華経の行者をいじめれば罰があるということをいっていた。法華経にはこういう功徳がある。功徳があるとともに、この法華経の行者をいじめれば、かならず罰があるということをいってきた。
そのときはちょうど九月十三日の夜で、十三日の月はこうこうと照っている。そこで、夜中に庭に出る月に向かって、自我偈を二度か三度読まれて、そして諸宗の勝劣をいってきかせるのです。なにも名月天子は知らないわけではないのですけれども、大聖人己心の名月天子をあらわさなければなりませんから、そこで諸宗の勝劣、阿弥陀と禅宗あるいはまた真言、そういうものがどれほど悪い宗教かということをいってきかせて、そして、おまえは名月天子ではないかといったのです。
「宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして……」これは捃拾遺嘱(くんじゅういぞく)と申しまして、神力品の付属は日蓮大聖人が上行の姿で受げられたが、宝塔品において、あるいはまた嘱累品において、迹化の菩薩、あるいは無量の菩薩等に向かって、この仏が法華経の行者を護るべしということを宝塔品と嘱累品でいいつけられたのです。そのことを大聖人様が申しているところです。
「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」とは、嘱累品の言葉ですが、三度仏があらゆる菩薩および諸天善神の頭をなでて、そしてこの妙法蓮華経を守護すべしという命令です。つぶさに世尊の勅のごとく奉行すべし、ここに奉行という言葉が出ているのですが、あなたのおっしゃるように、かならず行ないますといったのは、名月天子、おまえではないかというのです。もし仏の前での誓いが、もし日蓮大聖人がおられなかったならば、どこも護りようがない。だから、その日蓮がここにきているのに、今こそ仏の御前で約束したその約束ごとを果たさなければならない時ではないか。誓状どおりのことをしなければならない時である。なにをぼやぼやしているのだという意味です。なにも、あなたが、名月天子がしるしをあらわさないのは不思議だというのです。大聖人様の御心では、この日蓮をまさに首斬らんとして、国になんらかの事件が起こらない、なんらかの変化がないというのならば、なんの面目あって鎌倉へ帰れようかというのです。
お天気がよくて、こうこうと照っているのだから、しるしを出さないなら出さなくてもよいけれども、誓いを忘れて、機嫌よくすみ渡っているのはどういうわけだというのです。
大集経には、法華経の行者をいじめるようなことがある場合には、日も月も光りを放たないと書いてある。また仁王経には、日と月の出方が違うというのです。最勝王経には、天界を三十三天にたてていますが、その三十三天の天界の主は、ことごとく怒りをなすという意味です。
そのとき、前の庭の梅の木の枝に、大きな星がおちてきてかかったというのです。つわものどもはおおいに驚いて、ひれ伏す者もあれば、逃げる者もあれば隠れる者もあったということです。これはおもしろいことです。
そんなことはないだろうという人がいます。これは今の科学者にいわせると、それはウソだろうというが、ウソだろうといっても、事実あるのだからしかたがない。あるいは、また、幻覚だというでしょう。幻覚だといっても、事実そこにいる人に見えたのです。本当の星が落ちてきたのか、あるいは月の光りによって、そこにそういう星のように光り放つように映じたか、そこは妙法の境涯ですから、そういう事件があったということが証明されているのです。そこで、これを見た武士たちはみんな驚いたというのです。それから真っ暗になって、江の島の方の波の音が、鼓を打つように、大風が吹いてきて、どうどうという音が響いてきたというのです。
夜明れば十四日卯の時に十郎入道と申すもの来りて云く・昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大なるさわぎあり、陰陽帥を召して御うらなひ候へば申せしは大に国みだれ候べし・此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり、又百日の内に軍あるべしと申しつれば・それを待つべしとも申す、依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頸をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり其の余はしげければかかず。
その夜も明けて、十四日の朝の六時ごろ、十郎入道という者がきて、次のような異変を明らかにしたというのです。すなわち、武蔵守殿が大聖人様の首を斬ろうとしたり、それから、また本間六郎左衛門のところにあずけたり、そういう迫害を加えたので、昨夜の八時ごろ大きな騒ぎが執権邸に起こったというのです。
陰陽師というのは、占い師です、昔は全部、宮廷でも幕府でも、こういう人を呼んで、いろいろな質問をしたものです。その陰陽師のいうのには、国に大きな乱れがでるであろう。此の御房というのは大聖人様のことです。
それは日蓮大聖人様を殺そうとした罪であるというのです。急いで日蓮大聖人を許して召し還さなかったならば、世の中にどんな事態が起こるかわからないと陰陽師がいったので、すぐさま赦免せられたいと進言する人もあり、また中には百日のうちに戦争が起こるというのだから、それを待って真偽のほどをためしてから、処置をしてもいいではないかなどという人もあったということを、十郎入道が知らせてくれたというのです。
そのまま依智の邸に二十余日滞在していたが、その間、鎌倉に七、八回も放火があり、毎夜のごとく人殺しがはやった。これは日蓮御房の眷族や弟子たちがやったことだと邪宗の者どもが讒言をした。
これは、われわれは大聖人様のような力はありませんけれども、創価学会を世間では「暴力宗教だ」といっている。われわれはどこでも暴力などふるったことがありません。逆に折伏に行って、向こうに暴力をふるわれている方が多い。暴力なんかふるわないのに暴力宗教だなどといわれる。だから今から推察するならば、大聖人様の時も同じような、そういう讒言を受けたことがあったのでしょう。
そこで讒言していうのには「日蓮が弟子檀那が放火をしたのだ」と。そこでいったい、日蓮の弟子は誰々だと、二百六十余人の名前を書き出された。ところが、その二百何十人という人を、あるいは島流しにしてしまえとか、あるいは牢に入れろとか、あるいは牢に入れた弟子を死刑にしてしまえと、いろいろ評定があったとこういうふうに話されていたのです。
ところが、その火をつけたというのは、持斎すなわち律宗や念仏宗の者たちのはかりごとであるというのです。そのほか、いろいろのことがあったが、しげければ書かない。