例せば殷の紂王(ちゅうおう)・此干(ひかん)といゐし者いさめをなせしかば用いずして胸をほり周の文・武王にほろぼされぬ、呉王は伍子胥がいさめを用いず自害をせさせしかば越王勾践の手にかかる、これもかれがごとくなるべきかと・いよいよ・ふびんにをぼへて名をもをしまず命をもすてて強盛に申しはりしかば風大なれば波大なり竜大なれば雨たけきやうに・いよいよ・あだをなし・ますますにくみて御評定に僉議あり、頸をはぬべきか鎌倉ををわるべきか弟子檀那等をば所領あらん者は所領を召して頸を切れ或はろうにてせめ・あるいは遠流すべし等云云。
殷の紂王という人は、ずいぶん乱暴な王様でありまして、比干がこれを諌めたのを聞かないで、かえって比干
を殺してしまった。そして周の武王という人に、たった八百人の兵隊に殺されてしまった。大聖人様の御書には
っきりあります。武王のおとうさんは文王と申しまして、非常に徳の高い人でありました。その子供は武王で勇
気りんりんたる人ですが、文王の遺状を守ったこのときの将軍・参謀長が有名な太公望です。この人が魚を釣る
のに針が曲がっていないので釣っていた。ある人が不思議がってたずねた。「いったい、あなたは曲がってない
針で魚を釣っているのは、どういうわけですか。かかりっこないではありませんか」「いや、魚が釣れるのはうる
さい」といったそうです。それなら、釣りに行かないですわっていた方がよさそうなものです。こういう変わっ
た男です。武王がいくさをおこすというとき、その非をいさめたのが伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)という二人です。ところが諌めて聞かれず、ついに「周が粟(あわ)をはまず」といって山にはいって飢え死にしてしまった。これまた変わった男です。
そういうふうにして、日本の国も殷のような国になるのではないか。忠義な自分の心をくまずして、そして投げ
やりにしておくということはこれと同じです。
呉王が伍子胥(ごししょ)の諌めを聞かない。呉越同舟などという言葉を使いますが、呉と越はいつもケンカをしていた。
越王勾践(えつおうこうせん)がいつわり降っているのを伍子胥が見て、あれを殺さないと後の崇りになるというにもかかわらず、殺さないでおいた。伍子胥は国の滅びるのを見ることあたわずといって死んだのです。その後、呉王は越王に殺されてしまった。そのように、日本の国もなるであろうと、大聖人様がお歎きのところであります。
これは、ちょうど、文永五年から文永八年までの間の大聖人様の御行動をいっておられるのです。名をも惜しまず命をも捨てて、強盛に三年間というものは折伏をやったというのです。ところで、風が大であれば波が大なるがごとく、竜が大なれば雨がすごいという例のように、ますます大聖人様を憎んで、そして遂に評定衆といいますか、幕府で僉議が始まったというのです。
すなわち、その評定のもようは、大聖人様をつかまえて島流しにするか、遠流にするか、あるいは首を斬るか、あるいは弟子檀那等の所領をとって首を斬るか、あるいは弟子達を牢に入れるかというような評定が、上において行なわれたというのです。
大聖人様としましては、御自身がどういう難にあおうともかまわないが、弟子檀那が苦しめられるのがとてもつらいのです。私もよくこの大聖人様の御心がしのばれますが、現在、日本の国でわれわれが折伏を行なっても、大聖人様当時のようなことはありません。われわれが折伏をすればするほど、世の中はわれわれを憎みます。憎んだってしようがないのです。また、あなた方も憎まれてもしかたがありません。これは、あきらめてもらう以外にない(笑い)。大聖人様がそうおっしゃっているのです。あきらめなさいといっているのですから、御本尊をいただいた以上は、折伏をしなければならないようになっているのです。だから、あまり泣きごとをいわないでやった方がよいのです。(笑い)
日蓮悦(よろこ)んで云く本より存知の旨なり、雪山童子は半偈のために身をなげ常啼(じょうたい)菩薩は身をうり善財(ぜんざい)童子は火に入り楽法梵士(ぎょうぼうぼんじ)は皮をはぐ薬王菩薩は腎(ひじ)をやく不軽菩薩は杖木をかうむり師子尊者は頭をはねられ提婆菩薩は外道にころさる、此等はいかなりける時ぞやと勘うれば天台大師は「時に適うのみ」とかかれ章安大師は「取捨宜(よろし)きを得て一向にすべからず」としるされ、法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし、仏記して云く「我が滅後・正像二千年すぎて末法の始に此の法華経の肝心題目の五字計りを弘めんもの出来すべし、其の時悪王・悪比丘等・大地微塵より多くして或は大乗或は小乗等をもって・きそはんほどに、此の題目の行者にせめられて在家の檀那等をかたらひて或はのり或はうち或はろうに入れ或は所領を召し或は流罪或は頸をはぬべし、などいふとも退転なく・ひろむるほどならば・あだをなすものは国主は・どし打ちをはじめ餓鬼のごとく身をくらひ後には他国よりせめらるべし、これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等の法華経の敵なる国を他国より責めさせ給うなるべし」ととかれて候ぞ
大聖人様はこういう大難がきたときに、喜んでおられる。もとより覚悟の上であると。これほどまで腹がどっしり決まれば、何事も驚かないですみます。
雪山童子は「諸行無常、是れ生滅の法」と「生滅滅し已って寂滅をもって楽と為す」の句を聞いて仏となった。
ところが、はじめは前の句しかきくことができなかった。そこであとの方の句のために、帝釈が鬼の姿になってきたときに「半偈を教えよう、だが暖かい肉を食べたいから、それを持ってくれば教えてやる」ところが暖かい肉はないから、私の肉を食べてくださいといって、半偈を習ったというのです。これは小乗教の句です。童子は、その句のために自分の生命を捨てたというのです。
常啼菩薩は法を得ようとするのに供養する物がないので、自分の身を売り、血をしぼり、肉をさき、骨を破り、髄を出して供養物を得ようとした。また善財童子は、やはり仏法のために火の中に飛び込んだという。楽法梵士は仏法の句を書いておくために、求められたままに自分の身の皮をはいで紙とし、骨を筆とし血を墨として仏法の句を書いたという。薬王菩薩という方は、仏にお礼するために身を焼きひじを焼いたという。
また不軽菩薩は、正法を説いて増上慢の人達のために、杖木で打たれ瓦石を投げつけられ悪口をされた。師子尊者は邪宗をやっている国王によって、仏法のために首をはねられた。提婆菩薩は法論に負けたバラモンの弟子のために殺された。そのとき弟子が、殺した者が峠を越さないだろうから、追っかけて殺してやろうとしたら、止めたという。わしが殺されるのは因縁だ。しかしおまえ達がその人を殺して、殺される因縁をつくってはあいならん。このまま自然に死なしてしまえと。これは、さっぱりしたいい方です。
次は摂受・折伏のことについて仰せられております。天台大師がいうのには、仏法というものは時にかなってやらなければならない。時というのは、正法の時、像法の時、末法の時という意味です。摂受の時に折伏がないわけではありません。また折伏の時に摂受がないというわけでもありません。正法の時には、摂受を表として折伏を裏にする。みな時によらなければならないということです。時というのは、あくまでも仏法の時です。われわれのいう時間という意味ではありません。ですから、章安が「取捨宜きを得て一向にすべからず」というのは、摂受折伏というのは、正法、像法、末法という時によって変わるものであると、はっきりいっている。
また今の大聖人様の御書を拝読するに当たっても、鬼神があらわれて半偈のために自分のからだを食べさせる、そんなことを今やらなければならないなどというのはバカの骨頂です。屠殺場がいくらでもある。暖かい肉なんか、そこからもっていって食べさせればよい。また、火に飛び込むなどというのもバカである。楽法や薬王が皮をはいだり、ひじをやいたりしたから、われわれも手のひらに油を注いで火をつけて、手のひらが焼けるまで題目をあげなければならない、などという教え方をするものがいる。ロウソク台がないときには、手のひらも場合によっては台のかわりになるかもしれないが、今は台がたくさんあるのです。なにもひじを焼かなくてもロウソクがたくさんある。皮をはぐなどというバカなこともいらない。紙がたくさんあるのです、万年筆もある。今になってそんなことはいらない。これらは時によるのです。
大聖人様の御時は広宣流布といいましても、法体の広宣流布です。薬王等の時のままを、われわれがやる必要がない。現在は化儀の広宣流布の時です。ですから、今、折伏を行じ、本尊流布をする者は功徳がある。それが時にかなうのです。時にかなわなければ、仏法というものは功徳がないのです。今ごろ念仏なんか唱えたり、あるいは坐禅をやったりしたって、功徳なんか出るわけがない。時にかなわないのです。この忙しいときに、坐禅など今ごろやってはいられない。そういうことを、よく考えて時にかなう仏法をやらなければならない。
法華経というものは一法であるけれども、時によって違うのです。すなわち天台のときには観念観法、教相より文底にはいる。末法は文底より直達正観する。大聖人様の時には、南無妙法蓮華経をお弘めになった。われわれの時代には御本尊を弘める、時によってその行は万差であります。
仏記して云く云云とは、法華経の勧持品および薬王品、寿量品、その他の経文では涅槃経、金光明経、仁王経、大集経、薬師経等を総合した御意見であります。
仏の滅後、正像二千年すぎた末法の初めに法華経の肝心、寿量品の肝心の題目の五字を弘めるものがある。ところが、そのときには悪王と邪教の坊主がいて、それが小乗教や大乗教をもって、法華経の肝心たる題目の五字と争うであろう。その予言書には、やさしくいうならば、その悪王、悪坊主は在家の檀那を語らって、あるいはののしり、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を召し、あるいは流罪にし、あるいは死罪に科さんとするとあります。ところで、そういう迫害をうけて、ペシャンコになれば別のこと、ペシャンコにならずに、ますます強盛に折伏を行ずるならば、国王は同士打ちをし、餓鬼のように身を食らい、しまいには他国より攻められるであろう。そこで、いかにわれわれが、驚かされようと悪口いわれようと、どこまでも折伏するならば、かならずこれと同じ状態がまた起こる、それを救わねばならないというのです。
今の政党を見てごらんなさい。同士打ちでしょう。餓鬼のごとくお互いに食らい合っているではありませんか。この中に代議士などいないから大丈夫だと思います(笑い)。いたら、参議院みたいに、出てきてなぐられたらたいへんです(笑い)。それと同じです。今の二大政党などといったって、社会党と自民党とでは思想があまりにも離れすぎていて、政権の交替など考えられない。仲間割れしてケンカばかりしているのは、日本の政党では昔からですけれど、あれはなんとか行儀よくならないものでしょうか。投票するときには、そんなつもりで選んだのではないつもりですけれども、議会に行くと、どうもブルドックの系統を引いているようです。この次にはよく気をつけて選ぼうではないですか。
梵天・帝釈・日・月・四天等の諸天善神が法華経の敵である国を他国の梵天帝釈にいいつけて攻めさせる、そうなると、マッカーサー将軍は梵天・帝釈の使いです。私が牢にはいっている間に、あなた方が一生懸命歌った歌があるでしょう。「いざこい、ニミッツ、マッカーサー」といって、きたけれども、なにもやらなかった。みんな、パン粉をもらって喜んでいた(笑い)。どうも、ダラシがない。いわば梵天・帝釈がバン粉をもってきて食べさせてくれたようなものです。(笑い)
各各我が弟子となのらん人人は一人もをく(臆)しをもはるベからず、をやを(親)をもひ・めこ(妻子)ををもひ所領をかへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこ(親子)のため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにと(遂)げざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。
おのおのわが弟子となる人々は、どんな迫害にあっても、一人も憶してはいけない。親を思い、妻子を思い、所領をかえりみずに、この迫害を堪えしのべというのです。しかし、なかなかこれはやれないものです。口でだけは勇ましくいえる。しかしいざとなったら、やれない。あなた方は、みんな退転します。この二千人ぐらいのうちで、十人ぐらいは残るかもしれない。その「残るのはオレだ」などと思っているのでしょう(笑い)。思うのは自由です。思想は自由です。憲法と同じです。本当はやれないものです。たいてい退転して逃げてしまう。
ここの御書は、大聖人様は永遠の生命ということを、なにも疑いもしなければ、疑問もはさんでいないのです。ですから御説明がない。われわれ今聞くというと、ちょっと説明してもらった方がよいように思う。無量劫よりこのかたというと、永遠という意味です。長い間、妻子のためや、金のためや、親子のために命は何遍も捨てて、大地微塵よりも多くの骨を残しているというのです。その間の骨を積んでみれば須弥山の山ほどもある。その間の涙をためてみれば、大海の水のようだと大聖人様はおっしゃっています。そういう言葉の裏をよく考えてみれば、大聖人様は、われわれがかならずまた人間に生まれてきて、死んで、また人間に生まれてきて、死んで、また人間に生まれてくる。それを何万回、何十万回繰り返しているかわからない。その中に人間として、われわれは当然生まれてこなくてはならないし、過去にも生まれてきたことも含まれますが、妻子や金のため生命を捨てたことはあるけれども、法華経のためには命を捨てたことがない。それはその通りです。よく、あなた方が折伏に行ったときに、天照太神の神札がかざってある。これは大切だ、大事だという。ところが火事にでもなれば、その神札なり神棚を、一番先に出したなどということを聞いたことがありません、どうですか。「火事だ。天照太神の札をもって早く逃げろなどと、誰もいわないでしょう(笑い)。それで折伏にいくと「これだけは、はずせない」という。それくらいなら、火事のときに一番先に持って逃げればいいのですが、持っていきません。天照太神のようなものに対しては、命を捨てられないのです。「御本尊様のために命を捨てる」などと口ではいうけれども、実際となったら、恐ろしくて命なんか捨てられません。だから、大聖人様は重ねて強く、法華経のために、命を捨てると、かならずそこに永遠の幸福が来ると、われわれに仰せられている。法華経を少しばかり信じたようでも、政府の迫害が生ずるならば、みな退転するのは普通だというのです。それを例でいうならば、お湯を沸かしても水を入れたらなんにもならないでしょう。カチカチやって火をつけようとするが、火をつけないで終わったと同じです。退転したならば、本当の幸福にいく途中で止めたのと同じなのだというのです。
おのおの覚悟しなさい。迫害されてもいい、こう思い切りなさい。この法華経にわが身をかえるのは、石を金にかえ、糞を米とかえるようなものだ。たいへん、得なんだというのです。