種種御振舞御書講義(御書全集九〇九ページ)

 

 去ぬる文永五年後の正月十八日西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年(太歳庚申)に勘えたりし立正安国論すこしもたがわず符号しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし定めて御たづねありていくさの僉義をもいゐあわせ調伏なんども申しつけられぬらんと・をもひしに其の義なかりしかば其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す

 

 すなわち文永五年の正月に ー 西戎(さいじゅう)というのは西のえびすということで蒙古のことですが ー 強大な蒙古の国から、日本の国を攻めるという手紙がきたというのです。

 

 ところで、文永元年に大聖人様が立正安国論をお認めになりました。日本の国がこういう邪教をやっていたのでは、仏教の上からみればかならず七難が起こる。すでに、そのうちの五難は起きている。あと起こるのは自界叛逆難と他国侵逼難である。一日も早く、念仏その他の邪教を止めなさいという御書が、立正安国論であります。

 

 それを、そのときの執権最明寺時頼に出しております。この予言が、ぴったり当たっているのです。そのころの蒙古と申しますれば、たんに中国だけを征服したのではなくて、朝鮮、安南、そして西欧の北の方まで攻め込んでいるのですから、非常に大きな版図でして、日本など眼中にないのです。ひとひねりでもってやってしまえというような勢いの盛んな国であります。

 

 すなわち、大聖人様の立正安国論は、白楽天という中国で有名な詩人でありますが、その人の時局を風刺して書いた詩歌の符にもこえている。またインドの釈尊が未来を予言して「われ今より三か月後に死ぬ」といって、そのとおりに三か月のうちに死んでいる。また二十四人の付法蔵が、私の跡を継ぐというのも合っている。また正法、像法すぎて、二千年から二千五百年のには上行菩薩が出現するとの仰せも、そのとおりにあっている。

 しかし、このような仏の未来記にも劣らず、実に立正安国論は末代の不思議ではないかというのです。

 

 そのときの日本の国政をとる人が、賢王聖主というような偉い人であったならば、日本一のおほめの状も、もらうであろう、生きたままで何々大師という大師号を授けられるべきである。昔は死んでからでなければ大師号はくれなかったのです。今でいえば、生きていて文化勲章を受けること以上です。どういうふうないくさをするのか、また仏法の力によって、蒙古国を調伏することをいいつけられると思うのに、ところがなんの音沙汰もない。そこで、十一通御書と申しまして、十一か所に手紙を出した。早くあなた方は誤った宗教を止めなさい、その宗教を弘めている僧侶が悪いのだ、あるいは、こういうふうにしなければ、日本の国があぶないという十一通の御手紙を出したから、驚く者は逃げてしまいなさいと。もう折伏などやれば、すぐつかまるから、やりたくない者は逃げてしまいなさい。逃げない者は腹を決めて覚悟しなさいという手紙をお出しになったのです。

 

 国に賢人なんども・あるならば不思議なる事かな・これはひとへにただ事にはあらず、天照太神・正八幡宮の此の僧について日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかと・をもわるべきに・さはなくて或は使を悪口し或はあざむき或はとりも入れず或は返事もなし或は返事をなせども上へも申さずこれひとへにただ事にはあらず、設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし、いわうや・この事は上の御大事いできらむのみならず各各の身にあたりて・をほいなるなげき出来すべき事ぞかし、而るを用うる事こそなくとも悪口まではあまりなり、此れひとへに日本国の上下万人・一人もなく法華経の強敵となりてとしひさしくなりぬれば大禍のつもり大鬼神の各各の身に入る上へ蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり

 

 日本の国に賢人といわれるような人がいたならば、ただ事ではない、こういう手紙を出すくらいならば、なにかよほど深いわけがあろうと思って、ただでは捨てておけないと考えるだろうというのです。

 天照太神・正八幡大菩薩が、この僧すなわち日蓮大聖人様について、日本の国を救うのではないかと思うべきにもかかわらず、あるいは使いを悪口しあるいはあざむいて、あるいは取り上げようともしない、あるいは返事もない、あるいは返事をした者があっても、執権の北条時頼にいわない、これはただ事ではない。

 たとえ大聖人の身の上のことであっても、これだけの訴状を出した以上には、政治をとる者が、その中心人物たる執権にこれを取りつがない法はないというのです。側近の者がいけないというのです。

 いわんや、このことは執権時頼の身の上にもかかわることだけではなく、おのおのの身の上にも色々の災難が起こってくる大事件なのであるというのです。それなら、用いないなら用いなくてもよいけれども、悪口だけはあまりである。

 

 創価学会とよく似ています。日本の国を救おう原子爆弾を日本に落とさせない、日本民族の力をじゅうぶんに発揮させようという創価学会の雄大な意図も知らずして、悪口ばかりは、それはひどいではないかと、私もいいたいところです。(拍手)

 

 これは、なぜ大聖人様の意見を用いないかというと、法華経を誹謗して年久しくなって、そしてその大禍が重なって、大鬼神が上下万民の心に入って、その上に蒙古国の諜状に正念を抜かれて狂っている証拠です。

 

 今度の戦争のようすを、もし大聖人様がいらっしゃったら、この言葉でぴしゃッと当たります。大聖人様が、南無妙法蓮華経を唱えあそばしてから七百年近い。日本じゅうの人が捨てて誰もかえりみる人がない。そういうようなことだから、日本の国の今度の戦争を見ても、ダラシがないのです。アメリカとやったのでしょう。どういうわけか、アメリカに行かないで、仏領インドの方へ行っている。ニューギニアなんかへ行っている。島ばっかりに行っている。いったい、なんの戦争したかわからない。大鬼神がその身に入って、そしてアメリカというような大きな国と戦争をしたものだから、正念を抜かれてしまって、指導者それ自体が狂ってしまっていたのです