一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師・五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。
今度は、大聖人様御自身の御名によって、仏であることを断言なさるのです。いっさいの物は名が大事である。
天台大師の五重玄というのは名体宗用教といいまして、名体宗用教を南無妙法蓮華経において説かれるのです。
その中で、名玄義、名前の不思議さというものを、五重玄の初めに天台大師が説かれているのは、名というものが万事に通じて大事だからなのです。
日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん
すごい御言葉です。自解仏乗ということは、誰人からもおそわらずに、自分で仏になる状態をいうのです。ですから、この日蓮という名前を用いるゆえんは、誰にも教えてもらったのではない、自分みずからが仏であるということなのであると。こういうと利口げに聞こえるでしょう。自分は自解仏乗である、仏であるなどといえば、自慢げなことだと思うでしょうが、そうではないのであると。
経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、斯人行世間の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすベしと云う事なり、日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり
すなわち、日や月は闇をばよく照らしなくす。そのように、斯の人世間に行じて、あらゆるわれわれの苦悩を除くであろう。この人というのは、法華経の行者のことです。すなわち、大聖人様が末法に出現あそばして、南無妙法蓮華経の七文字をもって、われわれ衆生の闇を除かれるのだと、はっきりおっしゃっているのです。法華経の中に「斯の人世間に行じて」とある。これは、ただ法華経を受持すればという教相読みでなく、大聖人様の観心の上からお読みになれば、斯の人とは、上行菩薩である。すなわち、釈尊滅後二千年から二千五百年の間に上行菩薩が出現せられ、妙法蓮華経の五字すなわち御本尊をもって、末法の衆生の煩悩、苦しみ、悩みというものを、ことごとく救われるという意味に、この五つの文字を読まなければならないというのです。
ところで大聖人様の仰せには、上行菩薩の御使いとして、日本じゅうの人に、法華経を受持しなさい、御本尊を受持しなさいと勧めるのは、この意味である。御自分が上行であると、もうはっきりしているのです。むしろ御内証は、御本仏であられることははっきりしているのです。へたなことをいって疑われては、かえって相手を苦しめるという意味で、こういうふうにお認めになっているのです。
此の山にしてもをこたらず候なり
この身延の山でも、折伏をけっして怠ってはいないのであると仰せです。
今の経文の次下に説いて云く「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」と云云
次下というのは、前に引いた経文の次のこと、「我が滅度の後」とは、仏の滅度の後において、この滅度の後というのは、すなわち、滅度正法、滅度像法、滅度末法、中でも特に末法を指すのです。「此の経」というのは御本尊になるのです。御本尊を受持すべし、かならずその人は仏道において、仏果を成ずること疑いはない、われわれはみな仏になるということです。貧乏した仏様などはいません。借金取りに追い回されている仏様など、経文のどこをみても出てきません、どこにもない(笑い)。だから、仏になる資格がある人なのですから、今どんなに借金で困っていても、五、六年もして、仏様になる人だということがわかるようになると、誰も借金を取りにこなくなるから安心しなさい。本当です。信心というものは、時間をかけなければダメなのです。すぐよくなろうといっても無理です。なんだかんだといっているうちによくなってきます。だから、あせらなくても、御本尊をたもった以上は、かならずよくなるのですから、心配しなくてもいいのです。少々苦しい時もありますが、この御本尊を戴いているからには、かならず明朗な人生になってきます。「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(御書全集二五四ぺージ)と、きちんと、商売でもなんでも、こうやったらよいということがわかるようになってきます。明らかになってきます。そうして、かならずしあわせになるのです。だから御本尊様を信ずる以外にないのです。
「ご指導願います」と、どこへ聞きに行ったって、ご指導もなにもありません。よく「借金があるんですが、ご指導願います」などと、それをどう指導しようというのでしょう。指導というのは「御本尊を一生懸命拝みなさい」これで終わりです(笑い)。それ以外にないのです。
かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり
このように、大聖人の弟子となったということは、たいへんしあわせなのですから、日蓮と同じに法華経を弘めなさい、折伏しなさいというのです。折伏をしなくてもいいなどとおっしゃってはいません。折伏をしなさいとの仰せです。