寂日房御書講義(御書全集九〇二ページ)
是まで御をとづれかたじけなく候、夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。
なかなかたいした御手紙です。色々と、お使い、御手紙を下されてありがたい。ちょうど、人間に生まれてくるということは、仏法の議論からゆくと、非常にめんどうなことだというわけです。
その中でも、また人に生まれてきて、仏法にあうということは、これまた至難のことである。それを、人の身として生まれてきて、あいがたい仏法にもあったと。
ところで、その仏法の中にも色々あるが、法華経の題目、すなわち御本尊にあって、法華経の行者となったというのです。
すなわち、大聖人様御自身、同じく弟子達も、多くの十万億仏という仏様を供養した功徳の現われかと、こうおっしゃっているのです。
日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり、八十万億那由佗の菩薩は口には宣たれども修行したる人一人もなし、かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり、父母となり其の子となるも必ず宿習なり、若し日蓮が法華経・釈迦如来の御使ならば父母あに其の故なからんや
はっきりとおっしゃっています。すなわち、勧持品と申しますのは、こういう予言をしているのです。後にもありますが、八十万億那由陀の菩薩がいうのには、末法において法華経を行ずるならば、三類の強敵がある。なかなか信じとおせるものではないと、難のことを説いている経文です。
その経文を身で読んだと。身で読んだのは、日本の国に大聖人様ただ一人しかいない、過去にも未来にもないでしょう。
八十万億那由陀の菩薩が、その勧持品の偈は唱えたけれども、その中で一人も修行した者はいない、大聖人様御一人である。勧持品の中に「数数見擯出」というのは、島流しのことです。ところを追い払われることです。
数数とは、大聖人様が、伊豆と佐渡と二度擯出されていることにあたる。数々の文字を、身でお読みになったということにきちんとなっているのです。他の者は、法華経の故に二度流された者はない。天台大師はただ悪口をいわれただけなのです。伝教はただ海を渡っただけなのです。大聖人様のような勧持品の読み方はしていない。
末法の本仏は勧持品を読んで、勧持品において証しを立てられているのです。
こういう日蓮を産んだおとうさんおかあさんは、日本の国で第一の果報者であろうと。親となり子となるのも宿習である。すなわち、大聖人様が、釈迦仏の使いであるならば、おとうさんおかあさんも、これはワケのあることである。これは法華経の寿量品の教相から述べておられるのです。すなわち、遣使還告(寿量品長行に)とある。還って使いを遣わしたということをおっしゃっているのです。自分は日本第一の法華経の行者である。されば、すなわち、仏から遣わされた者であると、表から御説明になっているのです。
例せば妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の如し、釈迦多宝の二仏・日蓮が父母と変じ給うか、然らずんば八十万億の菩薩の生れかわり給うか、又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か不思議に覚え候
これはおもしろい例ですが、昔、四人の道士がおりまして、仏道の研究をしたのです。ところが、みんながごはんを作ったり、薪を取ったりして苦労すると、勉強する時間がない。仏法を研究する時間がないということから「この中で誰か一人当番をやり、あとの三人は、しっかり勉強するということにしてはどうか」ということになって、その中の一人が「その当番は自分がやろう。しかし、君達が仏道で悟りを得たならば、自分を救ってくれなければいかん」「よかろう」と、そういう約束ができた。そして、三人の若者は仏果を得た。ところが、その当番の一人の者は、仏道修行する者を供養した功徳によって、妙荘厳王という王様に生まれてきたのです。ところが、おもしろいことには、その三人がどうなったかというと、一人は浄徳夫人といって奥さんに生まれ、二人は、浄蔵・浄眼という二人の子供に生まれてきた。みんなまた会ったわけです。そうすると今度は、その王様は邪教をやっているわけです。二人の子供は、経文の表では火に飛び込んだり、あるいは高く上がったり、低くなったり、あらゆる神通力を現わして見せる。そうするとおとうさんは「いったいおまえ達は、そんな神通力を誰に習ったのだ」といった。その前に、おかあさんに「法華経を説かれる仏様がいるから、その仏様のところへ行きましょう」というと「いや、おとうさんを折伏していらっしゃい」と、二人の子供にいうのです。そうして、子供が神通力を見せるのです。それでおとうさんも行く気になるのです。ここのところがおもしろい。子供が親を折伏するのに「うちのおとうさんはどうも信仰しないので困る。そもそもおとうさん、南無妙法蓮華経とはすごいものなんだよ」などといって、ケンカをする人もありますけれども、経文に説かれた神通力を見せるという意味は、自分が立派になって見せることなのです。「あんなふまじめな息子でも、こんなに良くなるのなら、自分もやろう」とこうなるのです。この中には、ふまじめな人はいないと思います。
そこで、二人がおとうさんを仏様のところへ連れて行き、おとうさんは邪教を改宗し、ほんとうに信心して成仏したのです。こういう因縁です。またこれが、不思議なのです。今度は、浄蔵・浄眼が、薬王菩薩・薬上菩薩、それからおとうさんが華徳菩薩、おかあさんが荘厳相菩薩、その四菩薩になって、釈迦如来が仏になられた時に、きちんとそろって出てくるのです。これは、三世にわたって、親となり子となることは宿習なのです。だから大聖人様は、妙荘厳王および浄徳夫人、浄蔵、浄眼のごときものであろうと、お認めのところなのです。
そういう理論から考えてみれば、釈迦・多宝の二仏が、大聖人様のおとうさん、おかあさんになられたのかと。
さもなくば、勧持品をわが身で読む子を産んだのですから、勧持品を予言しておいた、八十万億那由佗の菩薩が親となられたのか。
また、さもなくば、上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の四菩薩のうちの垂迹かと仰せなのです。