華果成就御書講義(御書全集九〇〇ページ)
これは、大聖人様の清澄山における兄弟子であって、大聖人様をよくかばってくれた浄顕房・義浄房の二人へあげられた御手紙です。
其の後なに事もうちたへ申し承わらず候、さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入って候
今までさっぱりようすがわからなかった。ところが建治のころに、故道善房聖人 ー この方は大聖人のお若いときの師匠です ー 道善房へ「報恩抄」と奥書を書いてあげた二札を、嵩(かさ)が森で読んだという報せを受けて喜ん
だ、とおっしゃっておられます。
たとへば根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流かはかず、火はたきぎ・かくればたへぬ、草木は大地なくして生長する事あるベからず、日蓮・法華経の行者となって善悪につけて日蓮房・日蓮房とうたはるる此の御恩さながら故師匠道善房の故にあらずや、日蓮は草木の如く師匠は大地の如し
ここは要するに、お師匠さまの恩をいうわけでありますが、また逆に、大聖人様自身を育てられた道善房の言葉を、思っておられるわけです。すなわち、根が深ければ枝が枯れない、源に水があれば末の水の流れは渇(か)れない、火は薪(たきぎ)がなければ消えてしまう、草木は大地がなければ生長しない。このように師匠と弟子の関係は密接であるとお述べになっているのです。
大聖人様が大折伏をされて、何事につけても善きにつけ悪しきにつけて、日蓮房、日蓮房といわれるのも、師匠道善房の御恩であるというのです。自分は、草木のようなものであり、お師匠さんは、大地のようなものであるとこういうのです。
彼の地涌の菩薩の上首四人にてまします、一名上行乃至四名安立行菩薩云云、末法には上行・出世し給はば安立行菩薩も出現せさせ給うべきか・さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり、日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべしあらたうとたうと、よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成(なす)べからず委(くわし)くは又又申すべく候、常にかたりあわせて出離生死して同心に霊山浄土にてうなづきかたり給へ
これは、大聖人様の御内証の悟りからいわれているのです。お師匠さんは大地のごとく、自分は草木のようだ。
上行菩薩が末法へ出現することになっていますから、自分は四菩薩のうちの一人である。しからば、道善房も、四人のうちの一人であるというのです。すなわち、大聖人様は上行菩薩の再誕であられます。末法にその上行菩薩が現われるならば、他の無辺行・浄行・安立行の菩薩方もいっしょに現われるかというのです。
されば、華が咲いて籾ができる、そして米の精が地中に収まって、再び刈りとったあとの株から苗となって、また華果がなるのだというのです。ですから大聖人様が南無妙法蓮華経を弘める功徳というのは、ちょうど、このようにして、道善房へ返ってゆくのです。良い弟子を持つと、お師匠さまも同じに仏果を得る。弟子が悪い者になれば、お師匠さまも悪くなると。師匠と弟子とが相違したならば何事もできあがらないと。これは不思議な言葉です。その次にこの意味がでてきます。
出離生死、悟の境地を開いて、霊山浄土でみな会おうではないかというのです。
経に云く「衆に三毒有ることを示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」云云、前前申す如く御心得あるベく候、穴賢穴賢。
弘安元年戊寅卯 月 日
浄顕房
義浄房 日 蓮 花 押
これは法華経にある言葉ですが、教相の上からゆきますと、舎利弗尊者やその他の二十大弟子、声聞級というものが現われたと、それは「おまえたちは、三毒強盛のものである。貪・瞋・癡をもった輩であり、間違った考え方をしているものである。だが、仏の目から見れば、自分の弟子が衆生のためにそういう姿を示して、そうして、それから仏に教えられて、覚った境地へいく姿を見せるためなのである。もともとおまえ達は、仏になるのが目的である」というのが教相の用い方です。
大聖人様が、ここにお引きになった意味は、道善房のことをいっておられるのです。道善房が、大聖人様の真実の教えそのものに、すっかりなりきらない。ですから邪見の姿があるわけです。しかし、そういう姿を示したといえども、経文にあるように、道善房が自分の師匠でありながら、邪見の相を示しているということは、もともと師弟相対の上からいって、わざとそういう姿を示したのであると、こういう意味なのです。
自分は良き弟子であるからして、道善房を救ってやるのだ、ということをはっきりお述べになっているわけです。
前々からいうように、しっかりと信心をしていきなさいというのです。