久遠実成なんどは大日経にはをもひもよらず、久遠実成は一切の仏の本地・譬へば大海は久遠実成・魚鳥は千二百余尊なり、久遠実成なくば千二百余尊はうきくさの根なきがごとし夜の露の日輪の出でざる程なるべし、天台宗の人人この事を弁(わきま)へずして真言師にたぼらかされたり、真言師は又自宗の誤をしらず・いたづらに悪道の邪念をつみをく、空海和尚は此の理を弁へざる上・華厳宗のすでにやぶられし邪義を借りとりて法華経は猶華厳経にをとれりと僻見せり、亀毛の長短・兎角(とかく)の有無・亀の甲には毛なしなんぞ長短をあらそい兎の頭には角(つの)なし・なんの有無を論ぜん、理同と申す人いまだ閻魔のせめを脱れず、大日経に劣る華厳経に猶劣ると申す人・謗法を脱るべしや、人は・かはれども其の謗法の義同じかるベし、弘法の第一の御弟子かきのもとき(柿本記)の僧正・紺青鬼(こんじょうき)となりし・これをもってしるべし、空海悔改(かいげ)なくば悪道疑うベしともをぼへず其の流をうけたる人人又いかん。
ところで、法華経には、先ほど申したように二乗作仏・久遠実成という実際上の問題がある。ところが、大日経などは、そのようなことは思いもよらない。そんなことは、考えてもいない。しかるに法華経には久遠実成がある。久遠実成とは、大海のごときもので、千二百余尊が真言宗にあるといっても、千二百人の仏などというものは、魚や鳥みたいなものです。大海が根本なのだ。あるいは、夜の露のようなもので、太陽にあったらペシャンコになってしまう。それほど位が違うというのです。
すなわち、天台宗というものは、真言宗なんかのバカなことを聞くべきではないのに、真言師に騙されたのです。また真言宗の連中は、自分の間違ったことを少しも知らないで、その罪を重ねている。それはまことに、間違いの大いなるものであるというのです。
今の邪宗教の連中は、皆そうです。要するに、亀の背中には、毛がないのに、亀の背中の毛は、長いとか短いとか議論してもしようがないでしょう。また、ウサギの頭には角がないのに、ウサギの角はどうとかこうとか議論してもしようがないでしょう。理同事勝などというのはそれと同じだというのです。
あたかも、あなた方の財布の中に、千円札があるかないかを議論するようなものだというのです。(笑い) 申しわけありません。
華厳経にも劣るような大日経が、法華経に勝つとか負けるとかいうのは、謗法の罪である。人は変わっても、同じことをいうものは、同じく謗法になるというのです。
「弘法の第一の御弟子かきのもときの僧正紺青鬼となりし・これをもってしるべし……」
これは、神社考(じんじゃこう)にあることだそうですが、空海の弟子が、紺青鬼という鬼になったというのです。天狗になったという伝えをお取りになったのです。弘法が謗法だから、その流れを受けた者が、謗法になるのはあたりまえではないかというのです。
問うて云わく法師一人此の悪言をはく如何、答えて云く日蓮は此の人人を難ずるにはあらず但不審する計(ばか)りなり、いかり(怒)をぼせば・さでをはしませ、外道の法門は一千年・八百年・五天にはびこりて輪王より万民かうべをかたぶけたりしかども九十五種共に仏にやぶられたりき、摂論師(じょうろんし)が邪義・百余年なりしもやぶれき、南北の三百余年の邪見もやぶれき、日本・二百六十余年の六宗の義もやぶれき、其の上此の事は伝教大師の或書(あるふみ)の中にやぶられて候を申すなり、日本国は大乗に五宗あり法相・三論・華厳・真言・天台、小乗に三宗あり倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律宗(りっしゅう)なり、真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども・くわしく論ずれば皆小乗なり
問うていわくといって、相手方の疑惑をそこへもってきまして、おまえ一人が、真言宗の悪口をいうのは、いったいどういうわけか。大聖人様は、けっしてこの人々を難じるのではない、不審だからいうのだ、あなたが怒るのなら、それはしかたのないことだというのです。
それで、外道というのは、婆羅門の教えでありますが、これは、今のキリスト教の前身のように思えるのです。
結局は、天界に上ることを楽しみにした観念論で、「九十五種共に仏にやぶられたりき」とありますが、九十五派あって、仏教を加えて、九十六派と書かれておりますが、九十五派の人々が全部仏教に破られたのです。なかなかおもしろいのがありまして、よく「阿呆々々」というでしょう。「この阿呆ヤロウ」などと、これは、この中の法なのです。
いったい人間が悩むのは、人間の言葉がわかるから悩むのだと、人間の言葉は忘れてしまったほうがよいという。人間の言葉を忘れたら楽でしょう、店先へ行って、そこにあるのを取って食べてしまう。「この泥棒ヤロウ!」といわれても、人間の言葉を忘れたのだからしようがないではないか。こういうのを阿呆の長者というのです。なかなかおもしろいかもしれない、犬の言葉なんか覚えたら、なおおもしろい。(笑い)
また、摂論師(無著)の意見が百余年続いたけれども、竜樹菩薩に破られたという。南三北七の間違った考えも、天台大師に破られたという。日本の六宗の義も、伝教大師に破られた。真言宗というのは間違った宗旨である、これは法華経以上のものでないと、伝教大師の書物によって破られているのであると。
「日本国は大乗に五宗あり……小乗に三宗あり……くわしく論ずれば皆小乗なり」
これは日本にあるところの宗教を大乗教・小乗教に分けて申されています。真言・華厳・三論・法相は大乗から出たというけれども、詳しくいえば、小乗教だという。
宗と申すは戒・定・慧の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじ(榜示)をうちわかつものなり、東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒を用って論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし、比叡山には天台宗・真言宗の二宗・伝教大師習いつたへ給いたりしかども天台円頓の円定・円慧・円戒の戒壇立つベきよし申させ給いしゆへに天台宗に対しては真言宗の名あるべからずとをぼして天台法華宗の止観・真言とあそばして公家へまいらせ給いき、伝教より慈覚たまはらせ給いし誓戒の文には天台法華宗の止観・真言と正くのせられて真言宗の名をけづられたり、天台法華宗は仏立宗と申して仏より立てられて候、真言宗の真言は当分の宗・論師・人師始めて宗の名をたてたり、而るを事を大日如来・弥勒菩薩等によせたるなり
ところで、何宗・何宗ということは、戒・定・慧の三学をもって、これを分けるのである。今、ここで定・慧はさておいて、戒というものが、大乗・小乗のぼうじ(榜示)、分ける標準になるというのです。ところが、華厳といい、真言といい、三論・法相といい、戒壇がないから、今の奈良の東大寺の戒壇をもって、戒としている。東大寺は律宗です。小乗の戒壇ですから、驢乳ともいい、あるいは汚ない糞ともいうような、大乗仏教から見れば、取るに足りない戒壇である。それをもって戒壇とする以上には、小乗教と断ずる以外にないではないかと、こういう意味です。
戒壇をもって論ずるならば、伝教大師が比叡山に天台宗の戒壇を建てた。真言宗とかなんとかいわずに、天台法華宗と称し、しかも戒・定・慧の三学を備えた大乗の円戒ではないかと。慈覚に賜わった誓戒の中には「天台法華宗の止観・真言」とあって真言宗ということばは削ってあるのが証拠ではないかというのです。真言宗というのは、あるべきはずがない。もしあったとしても、東大寺に属しているのだから、小乗経であり、また天台法華宗である。天台法華宗の開祖たる伝教大師は、真言宗というものを認めていないというのです。
天台法華宗というのは、仏の立てたもうところの宗であるから、仏立宗というのです。今の仏立宗は、この名前を盗み取って使っているのです。法華経についてなんにも知らないで、一念三千の法門の哲理もなく、仏立宗だなどと可哀想な人たちです。真言宗の連中が大日如来や、弥勒菩薩に寄せて、真言宗という名前を使っているのであって、宗などとつけるのはもったいないというのです。
仏御存知の御意は但法華経一宗なるべし小乗には二宗・十八宗・二十宗候へども但所詮の理は無常の一理なり、法相宗は唯心有境・大乗宗・無量の宗ありとも所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり・三論宗は唯心無境・無量の宗ありとも所詮・唯心無境ならば但一宗なり、此れは大乗の空有の一分か、華厳宗・真言宗あ(上)がらば但中・くだ(下)らば大乗の空有なるべし、経文の説相(せつそう)は猶華厳・般若にも及ばず但しよき人とをぼしき人人の多く信じたるあいだ、下女を王のあい(愛)するににたり、大日経等は下女のごとし理は但中にすぎず、論師・人師は王のごとし・人のあいするによて・いばうがあるなるべし、上(かみ)の問答等は当時は世すえになりて人の智浅く慢心高きゆへに用ゆる事はなくとも、聖人・賢人なんども出でたらん時は子細もやあらんずらん、不便にをもひ・まいらすれば目安に注せり、御ひまにはならはせ給うベし。
これは大事の法門なり、こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりてつねによみ奉らせ給うべし。
聖密房に之を遣わす 日 蓮 花 押
ですから仏、すなわちインドの釈迦如来を指しておりますけれども、仏の御真意をいうならば、法華経ただ一宗に定められてある。小乗教には、いく種類もあるけれども、結局 "無" である。今度は理をもって論じているのです。
空・無常・無我、これをもって三法印といっておりますが、それを立てた教法だって問題にならない。
大乗教も所詮は "唯心有境" という境涯になってくる。色々と分けてみても、結局、それに尽きてしまう。また大乗教を、その反対の意見から三論宗の "唯心無境″ という境涯から見れば、またそこへみんな集まってきます。
今度は、真言および華厳の教理をたずねれば、唯心有境でもあり、唯心有境でもない。中道の教えになってくる。
しかし、真言は華厳・般若にも劣るというのです。
ただ社会的に地位のある者がこれを信ずるから、良いもののように思うけれども、要するに、当時でいえば王様が下女を愛したようなものであるというのです。大日経などは下女のようなものなのだというのです。これを論ずる論師・人師は、王のようなものです。人に愛されるから威望があるだけのことだというのです。
前には、こういう議論もほぼあったけれども、当時(大聖人様の時代)には、世も末になったから、議論する者もなくなる。聖人・賢人等が現われたならば、その時は論じられるであろうと、大聖人様は、聖人・賢人でいらせられるから論じられているのです。謗法の人々を可哀想だと思うからめやすのために、これを書いて送ってあげる、よくよく考えてごらんなさいというのです。
清澄寺付近の僧侶にあてた手紙でありますから、大聖人様が、妙法蓮華経の智慧を授けられたとおぼしき虚空蔵菩薩の前で、この御書をよく読みなさい、そして、ほんとうの信心をするようにしなさい、という御手紙であります。