日蓮・理のゆくところを不審して云く善無畏三蔵の法華経と大日経とを理は同じく事は勝れたりと立つるは天台大師の始めて立て給へる一念三千の理を今大日経にとり入れて同じと自由に判ずる条ゆるさるべしや、例せば先に人丸が・ほのぼのと・あかしのうらの・あさぎりに・しまかくれゆく・ふねをしぞをもう・とよめるを、紀のしくばう源のしたがうなんどが判じて云く「此の歌はうたの父・うたの母」等云云、今の人我うたよめりと申して・ほのぼのと乃至船をしぞをもうと一字をもたがへず・よみて我が才は人丸にをとらずと申すをば人これを用ゆべしや、やまかつ海人なんどは用ゆる事もありなん、天台大師の始めて立て給へる一念三千の法門は仏の父・仏の母なるべし、百余年・已後の善無畏三蔵がこの法門をぬすみとりて大日経と法華経とは理同なるべし、理同と申すは一念三千なりと・かけるをば智慧かしこき人は用ゆべしや、事勝と申すは印・真言なしなんど申すは天竺の大日経・法華経の勝劣か漢土の法華経・大日経の勝劣か、不空三蔵の法華経の儀軌には法華経に印・真言をそへて訳せり、仁王経にも羅什の訳には印・真言なし不空の訳の仁王経には印・真言これあり、此等の天竺の経経には無量の事あれども月氏・漢土・国を・へだてて・とをく・ことごとく・もちて来がたければ経を略するなるべし

 

 この御文は、大聖人様が"理同事勝"という善無畏三蔵の意見を破るところです。まず、理は同じとは、どこが同じなのか、理が同じわけがないではないかと。理は同じといわれて「そうですか」と聞くのは、バカな人間だけである。理というのは、法華経には、一念三千という法門がある、大日経には、一念三千という法門がない、ないのに理が同じというわけがないではないかと。

 理が同じということは、大日経の中へ、一念三千の法門を盗んできて入れたからだ。これは盗人のやり方です。たとえていえばといって、次におもしろい例を出しておられる。

 柿本人麿が「ほのぼのと・あかしのうらの・あさぎりに・しまかくれゆく・ふねをしぞをもう」という歌を作った。これは良い歌です。それを歌の大家である紀のしくぼう・源のしたがうなどという人たちが、これは、歌のおとうさんだ、おかあさんだと、ほめるという。この間、ラジオで聞きました、落語に「オレこのごろ、歌を詠むようになったよ」「どういう歌だ」と聞いたら、百人一首の歌をいっているのだ。ヒドイのになると、俳句まで詠んでるのだ。「"古池や蛙飛び込む水の音〃どうだいウマイだろう」と(笑い)。

 誰に聞いたってうまい句には違いないでしょう。これは、芭蕉の句ですから。「フーム、なんだか聞いたことがあるような歌だなあ」などと、落語ではいっていましたが、それと同じように、この人麿の歌も、偉い人なら柿本人麿の歌だとわかるけれども、やまかつや海人など、学問のない者に聞かしたら、ああもっともかと思うように、理同事勝といって、一念三千の法門を大日経にありとしたならば、ちょうどこの落語みたいなものだというのです。ほんとうに智慧のある者なら、誰も信用しないと、大聖人様がおっしゃっているのです。真言宗に一念三千の理論なんか絶対ない

と、おっしゃっているのです。

 

 そこで今度は、事勝ということですが、どこが勝れているとかいえば、大日経には印と真言がある、法華経に

は印と真言がないからだめだという。その理論がおかしい。これは、インドの大日経と法華経を比べたのか、中

国へ訳された大日経と法華経を比べたのか。三三蔵といわれる中の不空三蔵の訳である法華経の儀軌の中に、き

ちんと印と真言があるではないか。仁王経も、羅什の訳したのには、印も真言もあるし、不空の訳したのは印・

真言があるではないか。印・真言というものは、インドにおいては、法華経にも大日経にもあったのだと、しか

し、中国へ来て訳す場合に必要がないから、ここでは、数が多いからと大聖人様はおっしゃっていますが、印と

真言ははずしてあるのだと。印・真言のある、ないによって、経文の大小・高低を論ずる義はないと、こうおっ

しゃっているのです。

 

法華経には印・真言なけれども二乗作仏・劫国名号(こうこくみょうごう)・久遠実成と申すきぼの事あり、大日経等には印・真言はあれども二乗作仏・久遠実成これなし、二乗作仏と印・真言とを並ぶるに天地の勝劣なり、四十余年の経経には二乗は敗種の人と一字二字ならず無量無辺の経経に嫌はれ、法華経には・これを破して二乗作仏を宣べたり、いづれの経経にか印・真言を嫌うことばあるや、その言なければ又大日経にも其の名を嫌はず但印・真言をとけり、印と申すは手の用なり手・仏にならずは手の印・仏になるべしや、真言と申すは口の用なり口・仏にならずば口の真言・仏になるべしや、二乗の三業は法華経に値いたてまつらずは無量劫・千二百余尊の印・真言を行ずとも仏になるベからず、勝れたる二乗作仏の事法をば・とかずと申して劣れる印・真言をとける事法をば勝れたりと申すは理によれば盗人なり事によれば劣謂勝見(れついしょうけん)の外道なり、此の失によりて閻魔の責めをば・かほりし人なり、後にくいかへして天台大師を仰いで法華にうつりて悪道をば脱れしなり。

 

 そこで、理同事勝ということを論ずるならば、法華経には二乗作仏という事勝、実際問題において勝れた問題がある。劫・国・名号といって、法華経には「この仏の劫はどのくらい、国はどこ、名前はどう」という、はっきりした仕組みがある。また久遠実成といって、永遠の生命論も説かれている。それが大日経にあるか、どうかというのです。理は同じといったって、同じではない。事において勝れているというけれども、二乗作仏・劫・国・名号・久遠実成という事実の問題がないではないかというのです。印と真言などといったところが、二乗作仏という理論と比ベたら、天地雲泥の相違がある。法華経以前の経文においては二乗は絶対に敗種、焼けた種だといって、絶対に仏にならないと、一か所二か所にあらず、一年二年にあらず、二乗は仏にならないといっているのに、法華経の功力、法華経の功徳、法華経の力によって、敗種の二乗が仏になる経文だといっているではないか、というのです。印と真言というのは、どの経文でも、ダメだといっているところはない、いずれも用いている。だから大日経でも用いている。ところが二乗作仏ということは、他の経文ではきらわれている。ところが、法華経になって、二乗作仏をはっきりいっているではないかと、これは、経文の力を論じているのです。

 

 ところで、印というのは、手でやることで、真言というのは口でやることです。仏教では、身口意の三業と申しまして、身と口と心とが、研究の対象になっているのです。印というのは身で真言は口です。千二百余尊というのは真言宗の仏ですが、それがどうしたって、仏教の原理によれば仏になってないというのです。仏になるということは、身口意の三業によって仏になることです。それと比ベてみたら、千二百余尊の仏の印・真言などというのは、問題にならないではないかというのです。要するに、二乗作仏という大きな事法、それが勝れていることをもって、劣れりといい、劣れるところの印・真言をもって勝れているというならば、それはたいへんな盗人であり、劣謂勝見の者である、間違いも甚しき者であるというのです。

 

「此の失によりて閻魔の責めをば・かほりし人なり……」これは、色々と研究してみますと、善無畏三蔵が頓死したらしいのです。そして、生命を吹き返したらしい。その頓死した間に見た、夢といおうか事実といおうか。"閻魔の庁"へ行って、鬼に鉄の鎖でしばられて、これを切ろうと思って、千二百余尊の仏の印と真言とを一生懸命やったのですが、さっぱり解けない。そこで初めて、法華経の「此の三界は我が有なり」という譬喩品の経文を口にしたら、たちまち鉄鎖が解けて、息を吹き返したということが、善無畏三蔵の自記の中にある。これを大聖人様がお読みになっていらっしゃるのです。真言宗では、地獄の責めはのがれられないが、法華経によって地獄の責めをのがれられたということを、今説かれているのです。