聖密房御書講義(御書全集 八九六ページ)
大日経をば善無畏・不空・金剛智等の義に云く「大日経の理と法華経の理とは同じ事なり但印と真言とが法華経は劣なり」と立てたり、良諝和尚(りょうしょおしょう)・広修・維蠲(ゆいけん)なんど申す人は大日経は華厳経・法華経・涅槃経等には及ばず但方等部の経なるべし、日本の弘法大師云く「法華経は猶華厳経等に劣れりまして大日経には及ぶべからず」等云云、又云く「法華経は釈迦の説・大日経は大日如来の説・教主既にことなり・又釈迦如来は大日如来の御使として顕教(けんきょう)をとき給うこれは密教の初門なるべし」或は云く「法華経の肝心たる寿量品の仏は顕教の中にしては仏なれども密教に対すれば具縛(ぐばく)の凡夫なり」と云云。
この御書は、真言宗と法華経との相違を論ずる御書でありますが、真言を中国へもってきた善無畏三蔵・不空三蔵・金剛智三蔵等、これを三三蔵といいますが、彼らの意見によれば、大日経と法華経とを比べてみると、大日経の理論と法華経の理論とは同じである。ただ大日経には呪印と真言がある。印というのは手でやる呪文です。
これは法華経にはなくて、大日経にあるから大日経が勝れているというのです。
今度は、これとは反対の昔の学者を並べていうのには、大日経というのは華厳経にも劣る、法華経にも劣る、涅槃経にも劣る。大日経は方等部という釈尊所説の法の、第三時の経文の中であると。経文の資格を両方で論じているのを出してみたのです。
ところが、善無畏三蔵や不空三蔵は中国の人でありますが、日本に真言宗をもってきたのは、弘法大師であります。この弘法大師がいうのには、法華経は華厳経にも劣る、ましてや大日経にはおよばないといったのです。
ところで、真言宗の連中のいうことには、とくに弘法ですが、法華経と大日経では説く仏が違うという。
ここにおもしろい〈しさ〉があるのです。仏教といえば、なんでも釈尊の説だと、他に仏教はないと思っていますが、仏の学説によって仏教は違うのです。
そのように、今ここで立てた議論と申しますのは、
真言宗というのは、大日如来の説であると、法華経は釈尊の教えである、仏が違うというのです。
釈尊とは顕教を述べた仏であって、大日如来の密教と比べれば、顕教は密教の初門であるから大日如来と釈尊の教えとは違うという。
そこで、顕教の上からゆけば、久遠実成の釈迦如来というものは仏であるけれども、密教の立ち場からいえば、具縛の凡夫である。煩悩にまだ縛られているところの凡夫である、仏の位が違うから、所説の法門も違うというて、論じたところが、真言宗の主張だというのです。
日蓮勘(かんが)えて云く大日経は新訳の経・唐の玄宗皇帝の御時・開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来る、法華経
は旧訳の経・後秦(こうしん)の御宇に羅什三蔵もて来る其の中間三百余年なり、法華経亘(わたり)て後百余年を経て天台智者大師・教門には五時四教を立てて上五百余年の学者の教相をやぶり観門には一念三千の法門をさとりて始めて法華経の理を得たり、天台大師已前の三論宗・已後の法相宗には八界を立て十界を論ぜず一念三千の法門をば立つべきやうなし
今、大聖人様が、真言宗が法華経以上だというのに対して、考えておっしゃるのには、玄宗皇帝の御代に、すなわち、善無畏三蔵が真言の大日如来の教えをもってきて訳した。これが新訳である。
それから三百年前に、羅什三蔵が法華経を訳してある。これが旧訳である。
その間、三百年の違いがある。
日本でいえば、今訳した経文と、徳川綱吉時代の訳した経文との違いくらいなものです。今の立正佼成会と、身延との間は、約四百年ほど隔っている。ですから、四百年前の新興宗教と、今の新興宗教と、というようないい方なのです。
その中間に天台大師が現われて、南三北七の邪義を破って観門 ー 観門というのは考え方の中心という意味です ー に一念三千の法相を立てているのではないか。それから後二百年して出てきた真言の新訳が、なんで正しいのかと大聖人様は破っていらっしゃるのです。
しからば、そのころの宗教界のようすを見ると、三論宗といい、法相宗といい、八界しか立てていない。今、学会でいう十界論に、二界足りないのです。これでは一念三千の法門は成り立たないのです。それを今、大聖人様は理論的に、真言宗といえども、一念三千の法門たる法華経の原理に、あいかなわぬぞとおっしゃっているのです。
華厳宗は天台已前には南北の諸師・華厳経は法華経に勝れたりとは申しけれども華厳宗の名は候はず、唐の代に高宗の后・則天皇后と申す人の御時・法蔵法師・澄観なんど申す人・華厳宗の名を立てたり、此の宗は教相に五教を立て観門には十玄・六相なんど申す法門なり、をびただしきやうに・みへたりしかども澄観は天台をはするやうにて・なを天台の一念三千の法門をかりとりて我が経の心如工画師の文の心とす、これは華厳宗は天台に落ちたりというべきか又一念三千の法門を盗みとりたりというべきか、澄観は持戒の人・大小の戒を一塵をもやぶらざれども一念三千の法門をば・ぬすみとれり・よくよく口伝あるべし
華厳宗という宗教はもともとなかった。華厳では、法華経に勝れているとはいっているけれども、華厳宗とはいっていなかった。唐の代に、則天武后という偉い女の天皇陛下がおりましたが、この方が、華厳の僧をひいきにしたのです。そうして初めて、法蔵・澄観という人たちが、華厳宗という名前を作ったのです。
今度、湛山和尚が身延の権大僧正になって"紫の衣"をもらったでしょう。あの紫の衣というものは、日寛上人様が厳然と仰せられるには「あんなものを着てはあいならぬ」と。そのわけは、則天武后という人は非常に男の人をかわいがったそうです。そこでかわいがっている華厳の僧侶を大臣方の中へ入れて、国政を相談させるのに、みっともない着物を着せては悪いので、紫の衣を着せて、今でいうバンドを立派にさせた、則天武后は女といえども、中国の大国の王様です。その方から賜わった衣というので紫の衣というのは、帝位から賜わる衣として珍重されるようになったのです。
ですから寛師さまの仰せには「紫の衣というのは男妾の着るものである」と断定されているのです(笑い)。これを湛山和尚が聞いたら、さぞや悲しかろうと思うところです(拍手)。
君らも間違っても紫の衣を着てはいけません。かっこうが悪いです。(笑い)
華厳宗には、いろいろな理論をこしらえてあるのです。それには、わけがある。華厳というのは、釈尊が仏になった時に初めて、三七、二十一日間説いて、人々が「釈迦が仏になったか、説法をするのか」といって、聞いたところが、なにがなんだかチンプンカンプンでわからなかったというのです。それほどの理論ですから、十玄・六相と立てたところが不思議はないのです。理屈はあるが、しかし、結局は大聖人様の仰せでは、なんでもないというのです。
色々立ててみても澄観などは理論の立てようがないから、天台の一念三千の法門を借りてきて"心は工みなる画師の如し"と、世の中は、わが心に映してかきとったようなものだという華厳経の言葉で、それを一念三千の法門なりと述べているのは、経文を盗んだといおうか、哲理を盗んだといおうか、みずから天台に下ったといおうかとおっしゃっているのです。
天台に落ちるというのは、降参したということです。澄観という人は、立派な僧侶であるけれども、一念三千の法門を盗んだというところに、心に色々の悩みがあろう、それは口伝に現われているだろうというのです。
真言宗の名は天竺にありや・いなや大なる不審なるべし、但真言経にてありけるを善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか・よくよくしるべし、就中(なかんずく)善無畏等・法華経と大日経との勝劣をはん(判)ずるに理同事勝の釈をばつくりて一念三千の理は法華経・大日経これ同じなんどいへども印と真言とが法華経には無ければ事法は大日経に劣れり、事相かけぬれば事理倶密(じりぐみつ)もなしと存ぜり、今日本国及び諸宗の学者等並びにこと(殊に)用ゆべからざる天台宗共にこの義をゆるせり例せば詰宗の人人をばそねめども一同に弥陀の名をとなへて自宗の本尊をすてたるがごとし天台宗の人人は一同に真言宗に落ちたる者なり。
また、華厳宗がこのようにしてできたと同じように、真言宗というのは、インドにあったかどうかというのです。真言経というふうにはあっただろうけれども、善無畏三蔵たちが中国で真言宗とつけたかどうか、よく考えたがよかろうというのです。
今度は、真言宗の主張をまずお取りになって、一念三千の法門というものは、真言宗にはない。ないのにかかわらず、一念三千の法門があるとして"理同事勝〃の理論をたてる。それは真言の大日経も法華経も同じである、しかし、事はまさっているという。なぜかならば、大日経には印と真言というものがある。印というのは、手で色々なことをやるのです。真言は呪文です。その印と真言があるから、大日経の方が勝れているというが、これはどうだと、これを今、破っておられるのです。
印などというのは簡単なもので、よく指を使って誰でもやります。それが印です。真言というのは、秘密の法です。私たちもしょっちゅうやってるでしょう。女房に聞かれては困るような話は「おうおう……」「うむうむ……」と。(笑い)
ところで、真言宗などに、天台宗が絶対に頭なんか下げてはならないものなのに、全部真言を用いている。あたかも、ナンマイダナンマイダというのは、いってはならないと思いながら、みんな自分の本尊を捨てて、世の中にナンマイダがひろまったのと同じようだ、これはどういうわけかというのです。