今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手を授け給はん事・譬えば寙夕顔(うりゅうがお)の手を出すが如くと思し食せ
千人の仏がきて南無妙法蓮華経と唱える人を、死後はいざ知らず、現世においても護るべきはずである。それがあるべきだと大聖人様はおっしゃっているのです。ですから死後はもちろん安心していなさい。一仏二仏ではない。重ねて今度は自分の弟子檀那に対する励ましの言葉です。
過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す
過去に結縁が強盛であるから、あなた方も御本尊様を受けたのです。過去に縁なくしてはうけられないものです。それは、いつの縁か、それはわからない。色々な人がいますから。私などは久遠元初の儀式に、あるいは大聖人様が上行菩薩のお姿でお出ましになったときに、地涌の菩薩の一人としておそばでちゃんと拝見したのです。
だから、あなた方も、そこにいたことと思いますけれども、シラミに食われ、あるいは財布ばかり心配して、仏法の経文を一つも勉強しなかったから、今わからないというわけです。
未来に仏果を成就せん事疑有るベからず、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり。
そうすれば、未来において仏果を成ずるということは疑いないものである。この仏果ということは問題なのです。今これを誰も説く人がいないのです。成仏という境涯はすごいのです。
総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
これは大事なところです。異体同心とはからだが違うけれども心は同じということです。その心とは何か。信心の心の字が心になるのです。すなおに御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えて、体は異なっても心は同じく御本尊を信ずるということが生死一大事の血脈である。おまえも苦労しているか、おまえも貧乏しているか、おまえも苦しいか、お互いに御本尊様を拝もうではないか。これを異体同心というのです。
今、学会の組織をみるのに、支部長の中にはいません。地区部長の中に一人でも二人でも、あんな地区部長とか、あのような人が班長だからみんなダメなのだとか、いろいろという者がいたなら「法に依って人に依らざれ」という金言に背くことになるのです。法に依らなければならない。御本尊に依るベきなのです。人に依ったら、異体同心ではないのです。異体同心でないゆえに功徳が出ないのです。今この御書にあるように、自他彼此の心なく、異体同心であってこそ、生死一大事の血脈、仏になる血脈を継いでいるのだというのです。それを人の悪口をいったり、同じ信心をしている者を憎んだりしていたら、仏の金言に背くのだから、功徳なんか出るわけがない。実に悪いことです。いわれる方も悪ければ、いう方も悪い。両方悪いのです。異体同心の心は、信心の心です。体が異なっても信心が同じという意味です。しかし「あなたと私、異体同心だから金貸してくれ」などと、そんなのはダメです(笑い)。そのようなことに利用するからいけないのです。そういうことに使うから、大きな間違いが起こってくるのです。
学会の組織ですが、御本尊を信ずるという点においては、会長もなければ組長もありません、みな同じです。
ただ広宣流布のため、折伏のための行程として組織がありますので、信心の上では、組長だって支部長より信心の強い人がいるかもしれません。また、地区部長だといっても、それこそ、一組員より信心がない人がいるかもしれません。功徳は信心中心で論ずるもので、組織の位置をもって論ずるものではない。そこのところを、よくよく間違わないようにして下さい。そうかといって、組織なんかいらないからこわしてしまうなどといったら困ります。それこそ広宣流布ができなくなってしまうでしょう。どこまでも組織は組織として厳存しなくてはなりません。しかし信心というものを、人に依るということはいけないのです。どこまでも、異体同心の精神がなければ広宣流布ができないとおっしゃっているのです。
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か
広宣流布の大願には、法体の広宣流布と化儀の広宣流布とがあります。大聖人様御在世の時に、三大秘法の随一たる本門戒壇の大御本尊様を建立なされて、法体の広宣流布は完成しているのです。あとは化儀の広宣流布に移っているのですが、もったいなくも仏勅をうけて、この世に生まれてきた私は、ずいぶん果報者であると信ずるのです。皆さんいっしょに生まれてきたのは、わが身の不運とあきらめて、広宣流布を一生懸命やろうではありませんか。(拍手)
剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し
その異体同心の精神があるならば、広宣流布もかなうベきものか、とこうおっしゃっている。その異体同心の精神に背くならば、大聖人様の教えに背くものです。大聖人様の教えに背いて、しあわせがあると思うのは、大きな間違いであると思うのであります。大聖人の弟子にして、異体異心の者がいれば、大聖人様のお弟子といいながら、他のものを信じている者がいれば、城を守る者として、城を破る叛逆者になるのではないかというのです。
御本尊様をお受けして、それを破ったり、信心しながら日蓮正宗や学会を誹謗したり、そういう悪い輩がいるということが、広宣流布に対する敵だとおっしゃるのです。
日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還って日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す
日本国じゅうの者に御本尊を信ぜしめて、仏の血脈、絶対幸福の境涯の血脈を継がしめんとする大聖人様を、さんざんに迫害して佐渡の島まで流罪したぞとおっしゃるのです。
とんでもない悪人です。われわれも同じ志でしょう。大聖人様の御命令を奉戴して、日本じゅうの人を仏にする、生死一大事の血脈を継がせようとする。そうして幸福なる国家、社会を作り、民衆のしあわせを築こうとするのに、さんざんに悪口をいったり、いじめたり、しかし、みんなとんでもない目にあうだろうと思うと、かわいそうです。われわれのやっていることは、政治運動でもなければ、他のこととは違うのです。大聖人の御命令を奉じて、日本じゅうに生死一大事の血脈を継がせようとするのです。
もう少しわかってもよいはずだが、なかなかわからない人が多い。「なんだあいつは法華気違いだ」「だんだんよくなる法華の太鼓か」などというのだから、こまったものです。(笑い)
而るに貴辺・日蓮に随順し又難に埴い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ
このことについては詳しいことはわからないのですけれども、最蓮房が佐渡へきて大聖人様に随順してその教えをうけ、何かの難にあわれている。その心を思うと実に気の毒である。弟子を思う心が厚くここに出ております
金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か
ここは、人間の素質をいっている。金はどこまでいっても金、鉄は弱いもの、ところがあなたは金のようなものだ。そう思うとあなた方は信心の上に立って、金であるや鉄であるや、少しばかりの難で心くだけてはダメです。鉄は錆びますが、金は錆びません。それを今、大聖人様はおっしゃっている。煩悩の火にも焼けず生死の海にも漂わずとおっしゃっているのです。
経に云く「衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し」
薬王品の文を引かれて、山のうちで須弥山が第一であるごとく、法華経はまた、あらゆる経文のうちで第一である。
又云く「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」云云
ここも問題です。ある人が御本尊様は火にも焼けない、水にも漂わないといっているが、なにをいっているのか私にはわからない。御紙の御本尊様だ、火事にあえば焼けることはわかっている。水に流せば流れるにきまっている。
これは、大御本尊様を拝む者は煩悩の火にもまけないし、生死の海にも漂わない、これが薬王品の原理であります。御本尊様が火にも焼けないし水にも漂わない、そんなバカなことがありますか。信ずる者の心です。そうなってくると、感応の理論になってくる。これをまず基盤において信心強盛になれば、そこの真理がはっきりしてくるのです。
過去の宿縁追い来って今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ
過去の宿縁が熟して、大聖人の弟子と最蓮房がなられたのか、とこういう。
「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ。
どこであろうと、もろもろの仏土に、お師匠様とかならずいっしょに生まれるとあるが、それはウソではない。
師匠と弟子というものはかならずいっしょに生まれるという。この大聖人様のお言葉から拝すれば、実に皆さんに対して、私はありがたいと思う。約束があって、お互いに生まれてきたのです。私はあなた方の師匠に、なにもなりたくてなったわけではない。「僕が日本の国のぶっつぶれたころに行くから、君らもこないか」といったら「はい、行きましょう」「そうだ、あそこで遊ぼうじゃないか、では、行こうかねえ」とかいってきた(笑い)。
「何になって行きましょう」「おまえらは貧乏で、商売が困る役目で出てこいよ」というわけで、みな出てきたのです(爆笑)。それで、それが良くなって、約束で来たのだから良くならなくては困るでしょう。お芝居みたいなものです。やめたっていえばそれで終わりなのです。自分はもう貧乏やめたといったら、終わりなのです。御本尊様の前でやってごらんなさい。「もういい加減に貧乏はやめてもいいでしょう」と(爆笑)。「もうちっとやっていなさい」などといわれるかもしれません。
殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴貴
生死一大事の血脈と、それを尋ねられるということは釈迦・天台・妙楽・伝教その他あらゆる仏教信者が永遠の生命とはどこにあるのだ、どこから永遠の生命はでてくるのか、どういう姿か、それを尋ねられた、あなたの心は実にうれしい。哲学の方からいえば、色々と説けるであろうが、ただ南無妙法蓮華経と唱えるところに生死一大事の血脈があると、私はおまえに教えた。まことに貴いとおっしゃるのです。
此の文に委悉(いしつ)なり能く能く心得させ給へ、只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ
法華経の文上を用いて、教相のすがたを用いて、南無妙法蓮華経と唱えよという観心の文であります。
火は焼照を以て行と為し・水は垢穢を浄るを以て行と為し・風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり
今例を引いて、水はどういう役目をし、風はどういう役目をし、火はどういう役目をするか、最後に結論して仰せあそばすには、南無妙法蓮華経とは本化地涌の菩薩の利益である。
今、大聖人様の御在世を論ずれば、観音菩薩、勢至菩薩がみな生死を救うようにいわれているが、そうではないというのです。本化地涌の菩薩がすなわち上行菩薩をさしているのですが、上行様と久遠元初の自受用報身如来様との関係については、またいつか機会のあるときに、ゆっくり説くとして、これが本化菩薩の利益である、これが絶対永遠の生命を幸福にするものだと、大聖人様はここに断言されている。
上行菩薩・末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・経文には見え候へども如何が候やらん・上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり
これはたいへんめんどうな言葉です。上行菩薩が出現して、本化菩薩の利益を民衆に与えるという約束は経文に明らかなことである。しかるに「上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん」もう出ていらっしゃる。それなのに「日蓮先ず粗弘め候なり」とおっしゃっておられる。上行菩薩が出現するのがわからないという。だが、私はほぼやってしまったといえば、御自分が上行菩薩ではありませんか。
もう一度はっきり「上行菩薩はわしだが、もうやっちゃったぞ。私が上行だから、あなた方心配するな」といえばいいものを「上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり」ちょっと困る、これだけを読むと。
本因妙抄を拝読するとこの言葉がはっきりするのです。上行菩薩、日蓮、名前が違うのですから、はっきりおっしゃってくれればといいますが、それは、今だからそうなので、そのころに「われ上行菩薩なり」とはっきり世間にいってしまうと「なんだ、日蓮はデタラメなこというではないか」と、こういうことになりまして、その人をして、悪道におとさねばなりませんから、それではっきりとおっしゃらないのです。
相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ
死ぬ時は臨終正念でなければならない。死ぬ時に血を吐いたり、世迷いごとをいったりしないで、ただ臨終正念という大信力をいたして、ほんとうに御本尊様を信じ切って、死ぬときに世迷いごとをいわないようにしなさいというのです。
生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ
生死一大事の血脈は大信力を起こして題目を唱える。臨終正念と願って、死ぬときに世迷いごとをいわない、安らかに成仏する、そしてそれには大信力を起こさなければいけない。こう大聖人様は仰せあそばしておられます。
煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり
煩悩即菩提・生死即涅槃とは日蓮正宗の大哲学でありまして、これは今わたしがここでいい出すと、何時間かかるかわからないから、これはこのままで考えて下さい。
信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。
文永九年壬申二月十一日
最蓮房上人御返事 桑 門 日 蓮 花 押
信心の血脈がなかったならば、信心がなかったならばなにをやったってダメです。信心の血脈をたもって、そして本当の幸福の境涯にはいってください。そしてまた人を幸福の境涯に入れて下さい。