今此の法華経わたらせ給へども或は念仏を申し・或は真言にいとまを入れ・禅宗持斎なんど申し或は法華経を読む人は有りしかども南無妙法蓮華経と唱うる人は日本国に一人も無し、日蓮始めて建長五年夏の始より二十余年が間・唯一人・当時の人の念仏を申すやうに唱うれば人ごとに是れを笑ひ・結句はのりうち切り流し頸をはねんとせらるること・一日・二日・一月・二月・一年・二年ならざればこらふべしともをぼえ候はねども、此の経の文を見候へば檀王と申せし王は千歳が間・阿私仙人に責めつかはれ身を牀(ゆか)となし給ふ、不軽菩薩と申せし僧は多年が間・悪口罵詈せられ刀杖亙礫を蒙り、薬王菩薩と申せし菩薩は千二百年が間身をやき七万二千歳ひぢを焼き給ふ、此れを見はんベるに何なる責め有りともいかでかさてせき留むべきと思ふ心に今まで退転候はず。

 

 ところで、そのころの仏教界をみると法華経は伝わってきた。だが、念仏を唱え真言宗を暇さえあれば信仰し、あるいは禅宗、律宗、そういうものに身を入れて、あるいは法華経を読む人ありといえども、南無妙法蓮華経と唱えるものは日本国中に一人もいない。

 一言、ここに付け加えておきたいことは、この思想の発達というものは、何か同じように世界的に起こるのですね。これは不思議なのです。ちょうど天台が現われたころ、日本では聖徳太子が法華経を読まれている。そして法華義疏というものを認めておられます。ところが聖徳太子の法華義疏を大聖人様はお用いになっていない。

 日本人である聖徳太子が法華経を読んだというのに、御書の中に教学的に少しも聖徳太子を用いていないのです。

 そのわけは、聖徳太子はいまだ一念三千の理法を知っておられなかった。法華経を読んだけれども、法華経の根本を知っていない。ただ天台は同じく、法華経を読みながら、そこにあらわれた根本は南無妙法蓮華経と知って説いている。これ大聖人様が聖徳太子を用いないわけである。

 ですから、南無妙法蓮華経と今誰人も唱えなかったという。これは妙です。これは日本で広宣流布が始まると、何かしらん、仏教経典の求め方が世界的にかならずおこってくる。

 ちょうど、微積の学問ですけれども、これはニュートンが英国で作って始めたものです。今、日本あたりでやっている微積は、全部ニュートンの力学からやっているのです。また時を同じくして、ライプニッツというフランスの人が微積をやっています。ちょうど、そのころ誰も、教えたり連絡とったりしたのではないが、日本では関孝和という人が幾何で微積をやっている。同じ時代に同じことをやっているのです。

 あたかも、天台の時代に、たとえ、わからなくても聖徳太子が法華経を読まれたように。今日本で広宣流布がだんだんと進んでいきますと、東洋だけでなく、世界的に法華経の研究がはじまってきます。一度、明治の後期に、非常に仏教経典の研究が盛んなときがあって、それはどうしてそうなったかというと、日本からロンドンあたりに留学した人が、向こうから習ってきたのです。それで仏教の研究が盛んとなりましたが、それが一時またとだえた。今また、再び、仏教経典の研究が盛んになりつつあります。今度は仏教経典全体という考え方より、法華経に対する研究が盛んになります。すでに英語で訳した法華経もあり、それはオランダのケルンという人の訳したケルン訳というものです。これは日本に何冊もないらしいのです。今古本で二十万円くらいするようです。

 

 さて大聖人様が南無妙法蓮華経という三大秘法を、建長五年の四月二十八日から唱えだされた。以来すでに二十何年になる、一生懸命題目を唱えた。ところが世の人はそれを笑い、あるいは憎み、あるいはののしり、あるいは打ったり斬ったり、あるいは島に流し、首を斬ろうとする。一日や二日、一月や二月、また一年や二年でないから、こらうべきもないが、二十何年の間こらえて、ここにやってきたというのです。

 

 これは法華経の提婆達多品に説かれてあるのですが、檀王という王様がおりまして、妙法蓮華経という経文をもとめた。そこに阿私仙人という仙人がおりまして、わしに給仕をするなら教えてやるというので、千年の間、自分の身体を床にして、水を汲みたきぎをとり、木の実を拾いして給仕して、ついに妙法蓮華経を得た。その功徳によって生まれてきたのが、釈迦仏であるとあります。そして阿私仙人が提婆達多だというのです。昔のお師匠さまが敵になって生まれてくるのはおかしいでしょう。提婆達多品には意味があるのです。深く深く考えてみますと、釈迦仏が仏になり仏法を説くと、かならず反対する者がある。その反対する方の大将になって、反対して自分が負けて阿鼻地獄におちて、仏の行化を助けたわけです。そして行化を助けたのだから、提婆達多は阿鼻地獄におちたけれども、一年もたたないうちに、天王如来という記をうけているのです。おかしいと思われるかもしれませんが、地獄の一年間の苦しみというのは、ものすごく長い苦しみなのです。

 本人にはその苦しみの長さを無間と感ずるのです。ですから、そういう話しを知って、無間地獄なんかは、まっぴらごめんだから、仏教をやらなければならないということになるのです。これは檀王と阿私仙人の話です。

 

 そこで不軽菩薩は、不軽品に説かれているのですけれども、もう長い間、あらゆる衆生の仏性を拝んで"あなたは菩薩の道を行ずれば、かならず仏になるのだ"と説きまわり、いわゆる二十四文字の法華経を弘めた。みんなは"よけいなことをいう"といい、不軽は長い間、悪口をいわれたり、さんざん石を投げられたり、たたかれたりされた。

 また薬王菩薩は仏の功徳にお礼するために、千二百年の間、身を焼き、七万二千歳の間ひじを焼いたという。

これは法華経薬王品にある教えです。

 

こういう経文を拝して、檀王の苦しみ、不軽菩薩の苦しみ、それらのことを考え、また薬王菩薩が仏に感謝した、その行化をみるならば、どんな大難がこようとも、決して自分が今、南無妙法蓮華経を弘めるということはせきとどめることができない、やめるわけにはいかない。そう決心して退転しないでやって来たのだといわれるのです。

 

 然るに在家の御身として皆人にくみ候に、而もいまだ見参に入り候はぬに何と思し食して御信用あるやらん、是れ偏に過去の宿植なるべし、来生に必ず仏に成らせ給うべき期の来りてもよをすこころなるべし、其の上経文には鬼神の身に入る者は此の経を信ぜず・釈迦仏の御魂の入りかはれる人は・此の経を信ずと見へて候へば・水に月の影の入りぬれば水の清むがごとく・御心の水に教主釈尊の月の影の入り給ふかとたのもしく覚へ候、法華経の第四法師品に云く「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在って無数の偈を以て讃めん、是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん、持経者を歎美せんは共の福復た彼れに過ぎん」等云云、文の意は一劫が間教主釈尊を供養し奉るよりも末代の浅智なる法華経の行者の上下万人にあだまれて餓死すべき此丘等を供養せん功徳は勝るべしとの経文なり。

 

 ところが、松野殿、あなたは、人のいやがる南無妙法蓮華経を、人に憎まれながらも、一生懸命にやっている。

 しかも、まだ自分と会っていないのに、どうして私を信用してくれるのかと、こういう意味です。それというのも、過去の宿因である。この宿因がもとになっているのだというのです。

 かならず、あなたが仏になる、そういう時がきて、信心というものに、めざめてきたものと思われる。そのときに当たるのであると。これは、経文にはかならず「一時」とあり、あるときと読みますが、どの経典にも「一時、仏○○にいて法を説いた」とある。ある時とは、衆生が説法をうけたいという気がおこってくる。そのおこってきたのに応じて、仏がこれを説いたときという意味です。そのように、いま松野殿に大聖人が仰せには、あなたがいま南無妙法蓮華経を御信用あるのは、仏になる時が熟してきたのだというのです。

 だから、この前も、話したと思いますが「折伏なんかやるのはめんどうくさい、だから題目だけ唱えるだけでも功徳があるか、ないか」という質問をする人が多いのです。功徳はあります。

 ただ、それだけでは、功徳はうすいのです。

 

 ところで私が思うのには、題目をほんとうに唱えて御本尊様を拝めば、折伏したくなるのが当たり前なのです。折伏したくならないというのでしたら、ほんとうの信心ではないのです。なぜなら、これは自行化他の南無妙法蓮華経なのです。だから自行をやったら、かならず化他がしたくならなくてはならない。酒を飲めば酔わないのなら飲まない方がよい。酒というものは、飲めば酔うようにできているのだから、それを飲んだのだから酔うのが当たり前なのです。この三大秘法の御本尊様も、自行化他にわたるのだから、これを飲むのと同じです。化他をしたくなる、折伏したくなるのが当たり前なのです。ならなければほんとうの信心ではない。ほんとうの信心をしているとはいえないわけです。では、それを待っていればよいかというに待っているわけにはいかないのです。自行化他の題目なのだから、化他をやれば、ますます自行の方が強くなってくる。自行が強くなればまた化他が強くなる。化他が強くなれば自行が強くなってくる。それでどんどんと功徳がでてくる。早く功徳がでるのですから、それで折伏しなさいというのです。さっぱり折伏しない人がこの中に来ているのではないのか。(笑い)

 

 すなわち大聖人様が、この経文を読みまいらせるのに、悪鬼神の身に入ったものは、南無妙法蓮華経という経をいやがり、仏の心がその人の心にうつっている者は、その経文を喜んで信ずると説いてあります。あたかも、水に月が映れば、水が澄んでいるようなものであるといわれる。だから月が水に映れば水が澄むように、あなたの心も水に仏の光がうつってきたのか、まことにたのもしいことであるとの仰せです。

 

 また、さらに、法華経の第四法師品には「仏道を求める人があって、一劫という長い間、合掌して、数限りもない偈を説き、また仏の功徳をほめたたえるならば、無量の功徳があるだろう。ところがこの法華経をもつ者、南無妙法蓮華経をもつ、その人を歎美し供養する、その功徳は前の功徳よりも勝れている」ということが説かれているのです。

 その意味は、末法において、万民にあだまれて、南無妙法蓮華経と唱えている日蓮の一門を供養する功徳というものは、まことにばく大なものであるという仰せです。