ある支部の人から聞いた話なんですけれども、折伏座談会のときに新来者の方が「なんだか、この信仰は深い
ものがありそうに思う」といったのです。
ところがその班長さんだか、地区部長さんだかが「これをやると金が儲かる。商売繁盛する。からだが丈夫になる」というような意味のことを長々と教えたそうだ。
それを聞いた新来者の方が「私はからだはこのとおり丈夫だから、これ以上丈夫になる必要がない。商売してないから繁盛する
こともいらない。また金も間に合うだけはあるから、これ以上欲しいとは思わない」
そしたら「おまえみたいな者はバカだ」と、こういったという。
そのときに、どうして第四信の境涯があることを教えてやれなかったのか。
また、現在信心しているその人が、そのような境涯になっていなくてもよいのです。教える分には、いっこうさ
しつかえがないと、無量義経に説いてある。無量義経には三品ありますが、その中に十功徳品というのがある。
この南無妙法蓮華経の信仰には功徳が十あると。その中に、自分はわからんでもよい。自分はそうできなくても、
そのようになれると教えてやれば、その経の功徳のようにその人はなるというのです。自分がなれなくても「そ
ういう境涯があるから、なりなさい」といえばいいのです。
誰も最初から深信解の相、成仏の境涯になるから信仰しなさいなどといっても誰もやらない。いつなるかわからないから、あてにならないのです。
だから大聖人様は、これを用いない。楽な初信の一念信解でいいというのです。それで功徳がうんとあるので
すから、深信解の相まで行かなくてもよいのです。安心でしょう。
今度は五品です。
「又復如来の滅後に、若し是の経を聞いて毀?せずして随喜の心を起さん。当に知るべし、已に深信解の相と
為つく」
毀訾(きし)というのは悪口です。「なんだ、こんなもの」などといわないで、随喜の心を起こす。それで、前の四
信ぐらいに上がってくるのです。これを初随喜というのです。本当に随喜するのです、それが第一品だそうで
す。
「何に況んや之を読誦し受持せん者をや。斯の人は則ち如来を頂戴したてまつるなり」
経典を読誦する。これを寿量品を読誦したり、法華経二十八品を読誦したりすると思うでしょうが、これは御
本尊様を信じ、南無妙法蓮華経と題目を唱えることを読誦というのです。ですから、御本尊様に向かって唱える
題目を読といい、御本尊様を受持している人が御本尊様のないところで、御本尊様を思い浮かべて唱える題目を
誦という。読はヨムということです。誦はソランズルということです。読の功徳も誦の功徳も、功徳には変わり
はないのです。
「御本尊様のないところでやってはダメではないですか、便所の中でやってはもったいない」などという人がありますけれども、新聞を読む暇もあるくらいだから、中でやっていたっていいのです。何も悪いことではないのです。「御本尊様のないところで拝んではダメ」などとウソを教えてはダメです。この中にいるのではないですか。
しかし、誦といっても読の方がなければ、御本尊様を受持していなければ、もちろんダメです。読の方をきちんと実践しておかなくてはいけない。読んでから誦んずるのです。これが第二品です。
「阿逸多、若し我が滅後に、是の経典を聞いて能く受持し、若しは自ら書き若しは人をしても書かしむること
あらんは、則ち為(こ)れ僧坊を起立し、赤栴檀(しゃくせんだん)を以て諸(もろもろ)の殿堂を作ること三十有(う)二、高さ八多羅樹(たらじゅ)、高広厳好(こうこうげんこう)にして、
百千の比丘其の中に於て止み、園林・浴地・経行・禅窟(ぜんくつ)・衣服(えぶく)・飲食(おんじき)・牀蓐(じょうにく)・湯薬・一切の楽具其の中に充満せん。是の如き僧坊・堂閣若干(どうかくそこばく)百千万億にして其の数無量なる、此れを以て現前に我及び比丘僧に供養するなり。
是の故に我説く、如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人の為に説き、若しは自らも書き若しは人をしても書か
しめ、経巻を供養することあらんは、復塔寺を起て、及び僧坊を造り、衆僧を供養すること須(もち)いず」
これは、第三品です。おもしろい言い方です。釈尊の仏法では五種の修行というのです。五種法師の修行です。
大聖人の仏法にこれを約せば折伏になる。折伏というのは、前にありましたように、大きな寺をば百億もたてた
功徳に勝るというのです。だんだん一品から三品、四品と、折伏の境涯になってくれば、寺を百億たてるより、
ずっと功徳の多い位になってくるというのです。
「況んや復、人有って能く是の経を持ち、兼ねて布施、持戒、忍辱、精進、一心、智慧を行ぜんをや。其徳最
勝にして無量無辺ならん。譬えぱ虚空の東西南北、四維上下、無量無辺なるが如く、是の人の功徳も亦復是の如
し。無量無辺にして、疾(と)く一切種智(いっさいしゅち)に至らん」
この第四品のところは、折伏もして、人も救うことができ、そして自分の身もつつしめというのです。その境
涯になうてくると、少しもつらくないのです。自然に信仰のおかげで、布施も行ずる、人も助ける、また自分も
一生懸命、勉強もする、精進もする、商売にも熱心で、また世の中に対しても腹は立てない、忍辱の行もいとな
む。そして智慧の修行もする。世の中のことも知らなくてはいけないから、智慧の修行もしなくてはならないの
です。
「若し人是の経を読誦し受持し、他人の為に説き、若しは自らも書き若しは人をしても書かしめ、復能く塔を
立て及び僧坊を造り、声聞の衆僧を供養し讃歎し、亦百千万億の讃歎の法を以て菩薩の功徳を讃歎し、又他人の
為に種々の因縁を以て義に随って此の法華経を解説し、復能く清浄に戒を持ち、柔和の者と共に同止し、忍辱に
して瞋なく、志念堅固にして常に坐禅を貴び諸(もろもろ)の深定を得、精進勇猛にして諸(もろもろ)の善法を摂し、利根智慧にして善く問難に答えん。阿逸多、若し我が滅後に、諸々の善男子、善女人、是の経典を受持し読誦せん者復是の如き諸(もろもろ)の善功徳有らん。当に知るべし、是の人は已に道場に趣き、阿耨多羅三藐三菩提に近ずいて道樹の下(もと)に坐せる
なり。阿逸多、是の善男子、善女人の、若しは坐し、若しは立ち、若しは経行せん処、此の中に便(すなわち)ち塔を起つべし。一切の天、人、皆供養すること、仏の塔の如くすべし」
こうなればいいのです。第五品にいたって塔を立てることを許している。最初から寺の僧侶に供養する人は信
仰が進みません。ですから、私はやかましく、そのことをいうのです。何だか、最初信心して、すぐ寺でもなん
でもよくしてあげて、僧坊でもなんでも立派にして、僧侶を大事にすれば、信心がとっても、よくなったみたい
でしょう。ところが、釈尊の仏法ですら、第五品にいたって初めて寺を建ててよい、僧侶への供養もきちんとし
ていいというのです。そして自分は立派な人格が完成するというのです。初めて、ここで仏の待遇をうけてもよ
いだろうと、天人の供養をうけてもよかろうという段階なのです。だから、信仰したての人に、僧侶の機嫌をと
らせたりすると、信心がダメになる。
ところが、やかましく、これから言ってやらねばならないと思っているのだが、信心したての人が、支部長や
地区部長の機嫌をとったりするようなものは、第五品を初品の位でやっているのだから、信心が進まない。それ
を許せば地区部長自らも謗法をしていることになります。初心の者にあるいは少しばかりしかたたない者に、自
分の機嫌をとらせる、地区部長のお帰りだからといって列をくんでみたり、支部長のお帰りだからといって列を
くんでみたり、そんなバカなことさせたら結局謗法やっているのです。経文に逆らうということになります。ま
た班長や地区部長なんかで、初心の者に物もってこさしたり、自分の家を掃除させたり、私事のための手伝いさ
せたりすることは、もってのほかです。この中に、やっているものがいるのではないですか。もしそういう謗法
をやってると、いつまでたっても良くならないのです。そういうことは、たいへんな間違いです。
荊谿の云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首なり」と云云、共の中に現在の四信の初の一念信解と滅
後の五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋(ほうきょう)・十方三世の諸仏の出る門なり、天台妙楽の二の聖賢此の二処の位を定むるに三の釈有り所謂或は相似・十信・鉄輪の位・或は観行五品の初品
の位.未断見思或は名字即の位なり、止観に其の不定を会して云く「仏意知り難し機に赴きて異説す此を借
って開解せば何ぞ労しく苦に諍わん」云云等。
すなわち大聖人様が今ここで説かんとするのは、信の中には四信あり、また位には五品があるが、何をもって
末法の肝要とするかというと、初信の一念信解と初品の初随喜である。それだけが肝要なのである。ゆえに荊谿
がいうのには「一念信解という初信の位は、これ仏法の大もとにはいる修行の始めである」と説かれた。重ねて
仰せには一念三千の宝筐(ほうきょう)である。三世の諸仏の出でさせたもうたものは、一念信解と初随喜の位であると。
さて一念信解の仏法における修行上の位を定めるのに、天台・妙楽には三色の説き方がある。まず第一に、天
台の学問の中に、仏法の修行を六つに分けた六即というのがある。始めは理即の凡夫、これはまだ信仰しない者
で普通の人のことです。この人が信心をはじめる、すなわち一念信解の状態を名字即、それから一念信解して色
々と仏を感ずる、悟ろうとする、その位を観行即、それから、仏にようやく似てくる、それを相似即、その次に
仏教上の哲理をいく分ずつ理解してくる、これを分真即、いよいよ完成した位を究竟即という。これが天台の六
即の配立といっております。
それから第二に、五十二段の配立がある。まず最初は十信、次に十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚位の
段階がある。第三に、金輪、銀輪、銅輪、鉄輪の位がある。
それを、天台がどう配立したか。大聖人様はどう一念信解を配立したか、それが問題です。
最初の一念信解は、六即位の中の相似の位にとる場合と、五十二位の中の十信の位にとる場合と、金輪、銀輪、銅輪、鉄輪の中の鉄輪の位にとる場合とある。次に観行五品の初品の位は、未断見思の位、あるいは名字即の位である。名字即の位とは「一切法これ仏法なり」と、一切法、すなわちあらゆる現象はこれ仏法なりと断じた境涯であります。このように、色々分けて説いている。
すなわち止観に「どうして、こんなに違うのか」ということを説いていうのには、「仏の御智慧はわれわれに
は、はかりがたい。機根に赴いて、色々説かれたものであろう。それがわかれば、何もぐずぐずいう必要ないで
はないか」というようにいっている。