いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意
ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我
久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべ
からず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、
二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的(まと)とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身
をまかせ給うべし、釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空にして二仏うなずき合い、定めさせ給いしは別
の事には非ず、唯ひとへに末法の令法久住の故なり、既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、
妙法蓮華経の旛(はた)をさし顕し、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給いし事あに・いつはりなるべきや、併(しかしなが)ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。


 このたびこそは信心をきちんとやって、日蓮が弟子としてこの世の中を渡り、これは大聖人の御弟子ですが、
このたびこそは広宣流布のさきがけとして、戸田城聖の弟子としてとおしたまえ。霊鷲山会にいったときに、広
宣流布の棟梁たる戸田城聖の弟子であるとして、堂々と大聖人にお目通りしたまえ、諸君。(拍手)
 日蓮の弟子ときまれば、地涌の菩薩である。地涌の菩薩なら、久遠の自受用身如来の御当体である。今、大聖人
滅後約七百年を過ぎて、広宣流布をなさんとするわれわれ同士は、地涌の菩薩でなければ絶対にできない。(拍手)
 地涌の菩薩と定まれば、思うとおりの生活ができないわけは絶対にないのです。(拍手)
 しかし地涌の菩薩にも種類がありますから、ただ地涌の菩薩だ、地涌の菩薩だといって、信心もしないでいる
ものはダメです。地涌の菩薩たる資格をきちんと身体につけられれば、断じて、思うとおりの生活をして、しか
も、その上に広宣流布の有能なる闘士となって、霊鷲山会で幅がきいて、この次生まれてくるときには、すごい
人材として、立派な家に生まれてくるのです。うまいことだ。(笑い)
 男といい女といい、末法において題目を唱え、法を弘めるものは、地涌の菩薩でなければやれないところのも
のであるというのです。
 だんだんとみんなが題目を唱えてくる。だんだんと唱えさせてくる。これ、地から涌くということではないか
という意味です。


流布のときには、日本じゅうの人がみな南無妙法蓮華経と唱えると、大聖人の予言がここにある。御本仏
の予言だから心配することはない。ともかくにも法華経に身をまかせ、法華経によって名をたてよというのです。
 

 すなわち虚空の多宝塔中において、釈迦多宝の二仏が、たがいにうなずきあったのは、末法において法をして
久しく住せしめん、南無妙法蓮華経を末法に弘めよう、その約束にちがいないのであると、こういうのです。
 すなわち釈迦多宝の二仏が虚空の中にあって、多宝如来が釈迦仏に半座を分け与え給うのは、他のことではな
い、末法のわれわれを仏にせんがためである、そのご約束である、というのです。
 

 日蓮は其の座には住し候はねども経文を見候に・すこしもくもりなし、又其の座にもや・ありけん凡夫な
れば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり又未来は決定として当詣道場なるベし、過去をも是を以
て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず


 大聖人様は、その場にはいらせられなかったが、経文とちっとも違わない。しかし、あるいはいたであろうと。
本当におられたのです。そのときに私もいた。あなた方もおられた。これは厳然たる事実です。これは誰も信用
しない。そういうことをいっても「なーに、戸田は、いいかげんなことをいっているのだろう」と。それは私の
ことは信用しなくてもよい。ここは大聖人様のおおせです、これは信用しなければなりません。大聖人様は、厳
然と、虚空会にはお出であそばされた。私もいた。あなた方もいたのです。しかしあなた方は、過去のことは忘
れたのでしょう。私はそこにきちんといたのを思い出しましたから、一切の経文をみんな思い出したのです。こ
の世の中では誰にも習わないが、前に習ったのを思い出したのです。これくらい便利なものはない。(笑い)あな
た方も思い出したまえ。習う必要がないのです。(拍手)
 

 今はそのときの約束どおり、はっきり自分が霊鷲山にいたということがみえて、法華経の行者である。当詣道
場というのは、仏になるということです。当に道場に詣るべし、仏になるべしということです。


 これをもって推するに、過去には虚空会の会座にいたであろうという意である。過去、現在、未来各別あるべ
からず、同じことだというのです。虚空会にいらっしゃったからこそ、大聖人があれだけのことをいい、あれだ
けのことができたのだという意なのです。


 此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなしうれしきにも・なみだ・つらきにもなみだな
り涙は善悪に通ずるものなり彼の千人の阿羅漢・仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩
薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は・なきながら如是我聞と答え給う、余の
九百九十人はなくなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり、今日蓮もかくの
如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生
のために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし、現在の大難を思いつづ
くるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮
は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但偏に法華経の故なり、若しからば甘露の
なみだとも云つべし、涅槃経には父母・兄弟・妻子・眷属にはかれて流すところの涙は四大海の水よりもを
をしといへども、仏法のためには一滴をも・こぼさずと見えたり、法華経の行者となる事は過去の宿習なり
同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし、仏なりとも仏となるは又宿業なるべし。


 佐渡におられて、こんなにうれしいことはないというのです。私がまだまだ自分の境涯のできなかった時代に、
これを拝読して、日蓮大聖人様というお方は、実に強情っぱりの方だと思ったのです。佐渡の国の寒いところに
いて、日蓮は喜悦はかりなし、まことに結構なことだと、こういって喜んでおられる。こんなことは本当かしら
と思っていた。ようやく大御本尊様にお目通りして、題目の数が重なるにつれまして、大聖人様の御心境がだん
だんわかってきました。本当に正直にそのとおりのことをおっしゃっている。たいしたものであると私はただ感
服する以外にはないのです。
 すなわち佐渡に流されたということも、南無妙法蓮華経を弘めるゆえに佐渡に流されたのである。
 すなわち南無妙法蓮華経というのは、釈迦仏、多宝如来その他が、末法に付属される南無妙法蓮華経であると
聞いたからこそ、南無妙法蓮華経を弘められたのです。それだからこそ広宣流布し、本門戒壇を建立するのだと
いうことを、大聖人様から御命令あったということを信ずるがゆえに、われわれは広宣流布のために戦うのです。
いかなる難があろうとも、私はなにも恐れませんけれども、あなた方は、おっかなかったら、今のうちに逃げな
さい。(笑い)


 今日の大難を思うにも涙、未来の幸福を思うにも涙せきあえず。このように涙を流すのも法華経のゆえである。
おやじさんのために一言いっておくが、今日の大難を思うにも涙、今日の貧乏を思うにも涙、未来の金持ちに
なるのを思うにも涙、鳥はなけども、涙おちず、私はなかねども、涙ひまなし、女房あんまり心配するなと(笑
い)。それだけ教えたのでは、奥さん方には不公平になるから、奥さまは、そのときには「その下のをはっきり
読みなさい」と。この涙は世間のことではなく、ただ法華経のためにとあるではないか。世間のことのいいわけ
に使っては、それでは信心が足りません。しっかり、しなさいと。(笑い)


 われわれは仏法のためには涙は流しません。妻子眷属のこと、またケンカするときには流すけれども、絶対に
仏法のためには流さない。本当のことであります。
 同じ木でありましても、御本尊様になる木があり、同じ紙でも御本尊様になる紙がある。それに紙でも袋に張
られるのもあり、同じ仏に刻まれるのでも、本仏でなく権仏に刻まれるのではかわいそうだ。折伏して謗法払い
のときに「なんだ、これおまえ」などと、つまみだされてしまう。(爆笑)同じ仏に刻まれても、それはかわいそ
うです。今までは良かったけれども、だんだんと日蓮正宗の仏法が弘まってくると、みんな、つまみ出されてし
まう。かわいそうなものです。(笑い)


 此文には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給へ・意得させ給うべし、一閻浮提第
一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うベ
し、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信
心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経、恐恐
謹言。
     五月十七日     日 蓮 花 押


 そこで、今のところは、この御書には、大聖人様の大事な法門が書かれている。よくよく見きわめなさいとい
うのです。そして、日本第一の御本尊を信じて行きなさいと。これは、いつもいわれることでしょう。いつも大
聖人様は、はっきりおっしゃっています。
 

 その次は講義する必要がない。私が説明するより、暗誦することです。
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よ
りをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」