抑(そもそも)因果のことはりは華(はな)と果(このみ)との如し、千里の野の枯れたる草に螢火の如くなる火を一つ付けぬれば須臾(しゅゆ)に一草・二草・十・百・千万草につきわたりてもゆれば十町・二十町の草木・一時にやけつきぬ、竜は一渧(しずく)の水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候、小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれば功徳此くの如し

 

 因果の理法について、今説かれているのです。ある事件を起こせば、かならずその結果が出る、因果の理法と

いうものは、華と果とのように、厳然としているものであるというのです。

 ところで螢火のような火を、広大な千里四方もあるような、枯れ野の野原につけたところが、それがだんだん

と燃えて、やがて野原一面の大火事になってしまう。これは原因と結果ではないかというのです。

 今度は前に火の方を申しましたから、水の力を喩えにとりました。竜が水を一しずくとり、天に昇れば、三千

世界に雨を降らすことができると、昔の理(ことわり)を、そのまま申したところです。

 よく仏法では火と水を使いますが、火を使った場合には、煩悩を意味するのです。水を使った場合には、生死

を意味するのです。

 ところで、あなたが米三石を送ってくれた。これは小さな善だ。それでも法華経に供養すれば、このように、わずかのものが大きな結果になるのだと、こういうのです。 

 

仏滅後・一百年と申せしに月氏国に阿育大王と申せし王ましましき・一閻浮提・八万四千の国を四分が一御

知行(おんちぎょう)ありき、竜王をしたがへ鬼神を召し仕はせ給う、六万の羅漢を師として八万四千の石塔を立て十万億の金(こがね)を仏に供養し奉らんと誓はせ給いき、かかる大王にてをはせし其の因位の功徳をたづぬれば・ただ土の餅一(もちひとつ)・釈迦仏に供養し奉りし故ぞかし

 

 これは釈尊滅後一百年に阿育大王という王様がいまして、仏法を非常に広範囲に弘めたのです。そして国も非

常に栄えたのです。この王様のことをいま申すのです。

 この方はおもしろい人で、他国へ戦争に行ってもなにもとってこない。かならず仏様のお骨を(?)、その国から持って帰ったという人です。寺を建てて仏に供養しようという、非常に仏法信仰に熱心な大王でありました。

 

 この方が、前世に釈迦仏に土の餅を差し上げた。なにか差し上げたかったのですけれども、キコリをやってい

て、貧乏でなにも上げるものがなかった。そこで「気は心」ということから、土で餅を作って「なにもありませ

んが、食べたつもりになって下さい」といって差し上げた。その功徳によって、七代の間、長者に生まれたと、

仏法上、伝えられているのです。ですから、因位を尋ねれば……だから、今、あなた方の中に、一千万長者の人

がいて、そういう福運は、いつつくったかというと、過去世につくってあると、こういうのです。この福運の問

題につきましては、今だんだんと進んでいったら、話しましょう。

 

釈迦仏の伯父に斛飯王(こくぼんのう)と申す王をはします、彼の王に太子あり阿那律(あなりつ)となづく此の太子生れ給いしに御器(ごき)一つ持ち出でたり、彼の御器に飯あり食すれば又出でき又出でき終に飯つくる事なし、故にかの太子のをさな名をば如意(にょい)となづけたり、法華経にて仏に成り給ふ普明如来(ふみょにょらい)是なり、此の太子の因位を尋ぬればうへたる世にひえの飯を辟支仏(ひゃくしぶつ)と申す僧に供養せし故ぞかし、辟支仏を供養する功徳すら此くの如し、況や法華経の行者を供養せん功徳は無量無辺の仏を供養し進らする功徳にも勝れて候なり。

 

 そこで、これは天眼阿那律といわれた人でありますが、天眼阿那律の福運について、大聖人様が御説明なされ

ています。

 釈迦仏のおとうさんを浄飯王といい、その兄を斛飯王(こくぼんのう)といいますが、その王様の子供に天眼阿那律という人がいた。これは釈尊十大弟子の一人で、天眼第一といわれた人です。経文では、この阿那律を阿㝹楼陀(あぬるだ)とも訳してあります。無量義経では天眼阿那律となっており、法華経には阿㝹楼陀(あぬるだ)と訳しております。これは法華経の伝わり方によりまして、地方の語調の相違かと思われます。

 この天眼阿那律が生まれたときに、入れ物を一つ持っていたというのです。それが、いつでも御飯を食べると

また出てくる。これは、うまい物を持っていたわけです。お腹の中から、まさか茶わんを持って生まれてくるわ

けはありません。出てくるのに骨を折ってしまう。(笑い) それは福運を意味するのです。いくら金を使っても、

あとからあとから金がはいってくるのと同じです。そうなるとうまい。(笑い) 財布の中の金を、あるだけ使って

しまえ、またはいったなどと。そのような意味なのです。使ってもまた出てくるようになっている福運をもって

きたのです。

 

 これは、どういうわけかというと、飢えたときに、辟支仏(ひゃくしぶつ) … 仏のいないときに、世を指導する人、十界のなかの、縁覚ともいい、これは仏がいないときには、世の人を救う力がある … に御飯を差し上げた。まずい稗(ひえ)の御飯を差し上げた。しかしその功徳によって、この福運を得たのであると、こういう意味です。

 

 ところで、辟支仏に差し上げて、そのような功徳のあるものを、ましてや、法華経の行者に供養して、功徳が

ないわけはありません。無量百千万億の仏に供養したよりも、法華経の行者に供養した功徳の方が多い。ここで

間違ってはいけません。法華経の行者とは大聖人様のことです。法華経の行者とは、南無妙法蓮華経という名前

の仏様です。よく、法華の行者というと、妙なかっこうをして、南無妙法蓮華経と拝んで歩く人を、法華経の

行者だと思っている人があります。たとえば、われわれも南無妙法蓮華経を唱えているから、法華経の行者だと

いうが、総じていえばそうなります。しかし、別していえば大聖人様お一人です。総じていえば、われわれも大

聖人様の弟子ですから、その中にはいるのです。「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を

南無妙法蓮華経と云うなり」と御義口伝(御書全集七五二ぺージ)の中に認められてありますが、それを、よくよ

く心に入れて、総別の違いを分別して、普通のわれわれといっしょにしないように考えて下さい。そのような区

別があります。

 

 そこで、ここまで読むと、因果の理法は前の世で、仏様に対して良いことをしていなければ、もうこの世に福

運が、出てこないではないかということになります。そこがめんどうな話でして、今われわれが大聖人様につく

しておりますが、この功徳は無量無辺であります。したがって、将来にわたって、成仏することは決定して疑い

ないものです。そして、永遠であると私は思っております。振り返って、いま功徳をわれわれが出すのは、どう

したらよいでしょうかと、これが問題です。過去世になにも良いことをやっていない。過去世に悪いことをして

きた。だから貧乏する。仏法の原理では、この世で貧乏する者は、過去世において泥棒したことになるのです。

そうすると、この中に相当過去世の泥棒がいることになります。(笑い) 今世でないから、おこらないで下さい。

そういうことですが、金持ちになるには、どうしたらなれるのですか、という問題があるのです。これはわれわ

れは、もともと金持ちになれるような、功徳をもってきているのです。それがわれわれの福運として、あらわれ

てくればほんとうの金持ちになる。ところが、まだあらわれてこない。それでは、どういう状態になればよい

のか。たとえば、この拡声器に泥をいっぱい詰めて、泥まみれになっていれば、拡声器の用をなさない。それを

洗ってしまって泥を落とせば拡声器の用をなす。そのように、われわれの福運というものは、久遠元初という時

に、ちゃんともっている。素晴しい福運をもっているのです。これを、すっかり泥をくっつけて生まれてきてし

まったのです。だからこの泥を落としさえすれば、見事な福運をもっているのだから、出てくるのです。心配は

いりません。あなた方は、もともと福運をもっているのです。それに泥をつけてあるのですから、そこで題目を

唱え折伏をしていきますというと、自然にこれがあらわれでてとれてしまうのです。そしてほんとうに金無垢の

福運がでてくる。そう思ったら心配ないでしょう。なんだか題目を唱え、御本尊様から福運をもらうように人は

思う。そうではありません。もともともっているものを出せばよいのです。このことを、大聖人様は通途の仏法

というのです。御書は、文底仏法に到達しておりません方に上げている御手紙でありますから、普通世間にいわ

れている因果の理法を、説いてお聞かせになったのでありまして、今一歩突っ込んでくると … これは後に説か

れてあります … 最初、文上仏法を説かれて、次に文底仏法にはいっております。もちろん福運論も、後に文底

仏法の面から説いてありますけれども、最初に申し上げれば、このような次第なのであります。