新池殿御消息講義
(御書全集一四三五ページ)
八木(こめ)三石送り給い候、今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。
この方は遠江の国にいらっしゃった、実に信心の厚い方であったようです。
米三石を送られたといいますが、たいへんな送り物です。ですから、いつも、私が申しますが、大聖人様が身
延の山にお籠りになられて、大聖人様が、非常に貧乏しておられたというふうに考える人が多いのです。私は断
じて、貧乏はなされてはいらっしゃらなかったと断ずるのです。そのゆえは、仏法に身を投じて、仏法のために
働いた者は、かならず幸福な最後を遂げるということが、仏法上の定理なのです。大聖人様が九か年の間、身延
の山におられたということは、これはたいへんなことでして、大聖人様としましては、九か年の間心安らかにご
生活なさっている。ですからわれわれもいつも申しますように、六十で死ぬものならば、五十五くらいから、あ
るいは早ければ五十代から、また七十で死ぬ者ならば、五十七、八から本当にしあわせで暮らさなければならな
いというのは、仏法の定理になっています。大聖人様は御立派なお屋敷も建てません。またお金をためたという
お話も聞きません。それはどういうわけかといえば、これは少欲知足ということが説かれている。すなわち欲が
少なく足れるを知るということです。これは仏の異名なのです。少欲知足などということは、とうていわれわれ
にはできないことです。ところが、仏の位になりますと、少欲知足になる。ですから大聖人様は少欲知足のお暮
らしであります。あればあるなりに、折伏のために、お使いになったのです。弟子どもに、どんどん持たせてや
ったものと、私は推するものであります。
広宣流布の時について、いろいろ、かれこれいいますが、大聖人様の時代に、あれだけ弘まったということは
たいへんなことです。折伏があのようにできたということは、たいへんなことです。私は広宣流布の間近なる証
拠の一つに、交通の便ということをしょっちゅういうのでありますが、昔、江戸時代のことを考えてみますと、
江戸を折伏するのだって、容易なことではない。だがもちろん政治的な圧迫もありましたから、やれなかったの
には違いありません。豊島公会堂に集まるといったって、皆さんがお出でになったところは、相当遠いところで
す。そこから歩いてくるとしたら、いったいどういうことでしょうか。夜の八時なり、七時半ごろまで、ここで
話し合って、帰られるとすると、帰宅されるのは夜明けごろになってしまいます。それから、これだけの人が集
まって話し合っても、なかなかこれだけ集まる場所がない。まっくらで、たとえロウソクをつけてやるとしても
たいへんなことです。あらゆる文明の進んでいる度合が、広宣流布の時が近いことを証明しております。
大聖人様の時代には、皆、お弟子方が相当遠くへ折伏に行かれた。その方々へ、皆お金を渡してやられたのに
ちがいない。大聖人様は、御自分のところへ金をためておかなければ心配だとか、なんとかということはないと
拝するのです。ですから、いつでも足りなければ足りないなりに、あればあるなりにやっておられた。
今の六十五世の堀米日淳上人猊下が、おもしろいことをおっしゃった。今から十年ほど前ですが、まだ戦争が
終わって間もないときのことです。私が「先生、お暮らしはいかがですか。お寺の方のお暮らしはお困りではな
いですか」という意味のことをお聞きした。そうしたら「私のところの経済は、エレベーター経済ですから」と
おっしゃる。"エレベーター経済"って、最初はわからなかったのですが、考えてみましたら、エレべーターはは
いっただけしか出ないということなのです。エレベーターは、五人はいって六人出るということはない。(笑い)
五人はいったら五人だけ出るのですから、猊下のところも千円はいったら千円だけ出せばいい。これほど楽なこ
とはない。エレベーター経済とは(笑い)うまいことをおっしゃった。これは、やはり猊下になられる人徳がお
ありなのです。サツマ芋を作った、そこで私が「先生、お作りになったって、芋なんかできないでしょう」と申
し上げたら、まじめな顔をして「戸田さん、サツマ芋は、芋を食うのではなくて、葉っぱを食うものです」と逆
にやられました。(爆笑)それなら誰だって作れます。葉っぱを食う決心ならです。(笑い)
こういう方々が、みんな、僧侶のお手本の方でしょう。ですから、大聖人様は米を三石ももらって驚かれたの
ではないでしょうか。どうしたらよいかと。われわれでも驚くでしょう。現在、公定にして一石一万円ですか。
そうすると、これは三万円相当のお金がはいったことになるのです。少欲知足の大聖人様へ、三万円もの金がは
いったらたいへんです。びっくりなさったでしょう。それでもお手紙を拝しますと、なにも、物が多いから少な
いからといって、多いからたくさんお礼をいっているというのでもなければ、少ないからお礼をいわないという
わけではないのです。「八木三石送り給い候」で終わってしまっています。
一乗妙法蓮華経とは御本尊様のことであられます。御本尊様の御前にこれを供えて南無妙法蓮華経と一遍唱え
られた。こういうのですから、これは、ちょっと私にも解しかねる。ただ一遍唱えた。大聖人様がお唱えになる
題目ですから、ただ一遍でもよかったと思いますが、一遍だけ唱えられた。それで功徳があるという意味です。
いかに題目が力強いかということを、お示しになったお言葉と拝します。
この、あなたから送られました三石の米を、御本尊の前に供えて題目を唱えたということは、あなたの愛しい
子供を霊鷲山会へ、すなわち「決定して疑い有ること無けん」これは法華経の言葉でありますが、かならず仏に
なるということが決定して疑いない、というために唱えてやった題目であるぞと、こういうのです。おまえの愛
しい子供を、霊山浄土へ間違いなく送ってやらんがための題目であるぞということです。