講義集

 

太田入道殿御返事講義(御書全集一〇〇九ページ)

 

 はじめの段において、人生には病気があるのが当然であり、今の世で、病気のない人生というものは、あり得

ないということから説き起こされて論ぜられているのです。次に順をおって解釈していきます。

 

貴札(きさつ)之を開いて拝見す、御痛(いた)みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ

 

 お手紙たしかにいただきました。拝見してみたらお病気のようで、一たびは悲しみ、二たびは喜びましたとい

うのです。

 どういう意味かといえば、病気になったようすをごらんになって、一往、病気については非常に悲しい。しか

し、再往において達観してみれば、この病気をしたことによって、あなたのもっている業が消えているのだから、

喜ばしいと仰せられているのです。

 

維摩詰経(ゆいまきつきょう)に云く「爾(そ)の時に長者維摩詰自ら念ずらく寝(い)ねて牀(とこ)に疾(や)む云云、爾の時に仏・文殊(もんじゅ)師利に告げたまわく、汝維摩詰に行詣(ぎょうけい)して疾を問え」云云

 

 維摩詰経には「長者である維摩詰は、たいへん立派な信者であったが、ある時、維摩詰は、自ら念じて病気を

して寝ていた。その時に、仏は文殊師利に告げて、おまえは維摩詰の病気の見舞いに行ってこい」といわれたと

いう経文があるのです。再往考えるならば、立派な維摩詰でも、病気はするという意味なのです。

 

大涅槃経に云く「爾の時に如来乃至身に疾有るを現じ、右脇にして臥したもう彼の病人の如くす」云云

 

 こんどは大涅槃経には「ある時に、仏が身に病いを現じて、右脇を下にして病人のごとく寝ていたが、そのようすは、あたかもほんとうの病気であって、自分はもうこれで死ぬのだ」という意味のことが、涅槃経に説いてあります。

 その時に、迦葉が仏に三十六の問題を出すのです。その中の一つに「これは重大問題であるが、あなたは仏で

はないか。つね日ごろ、仏の命は金剛不壊であると聞いている。しかるにあなたは、今死んでしまうというのは、

一体どういうわけですか」と、このように聞いたわけです。しかし仏は「仏といえども、やはり身に病いは生ず

るのである。病気があるのは当然の事実なのだ」ということを、ここではいっているのです。

 

法華経に云く「少病少悩」云云

 

 それで法華経の涌出品には、地涌の菩薩方が仏のみもとに集まって、仏に「少病少悩で、安楽でいらせられま

すか」と問うたところがあります。これは仏といえども病いがあると、簡単に訳せばそれですむのですが、これ

には、もう少し深い意味があるのです。

 仏には大病大悩はない。中病といえばおかしいがそれもなく、病むことは少なく悩むことも少ない。なぜかな

らば、仏に少しも病気や悩みがないというのならば、それはウソです。なぜウソかといえば、あらゆる衆生には、

すなわち病気があり、悩みのある衆生の中に、仏としてお出ましになったのだから、その衆生の病いと悩みを救っ

てやるためには、ご自分に病悩をおもちになる必要がある。そこで仏といえども、少病少悩をもたれているのです。

 

 そこで、今、釈尊の経文を引いているのです。この日蓮大聖人様の御書の書き方は、法然の選択集などと比

べると、天地雲泥の差があるのです。法然の選択集の書き方は、経文を一つも引用していない。そして、中国の

念仏の開祖である善導が、どういった、こういったということをいっているに過ぎないのです。ところが大聖人

様の御書の書き方は、最初に、まず経文を引くのです。ここでも、維摩詰経と大涅槃経と法華経をもってきてい

ます。すなわち病いは、当然、この世の中に存在するということを文証として、どうあるかを最初に経文を引き、

次に天台の釈を引かれるのです。

 

止観の第八に云く「若し毘耶(びや)に偃臥(えんが)し疾に託(つ)いて教を興す、乃至如来滅に寄せて常を談じ病に因(よ)って力を説く」云云

 

 次に天台大師の摩訶止観の第八には、次のごとく釈してある。「維摩居士は毘耶梨城の邸で、病気になり床に

ふしてしまった。そして、どういうわけで病気になったか等について、病いに寄せて教えを説きおこした。また

仏は、その入滅に寄せて生命の永遠を説き、さらに病気ということによって、自分の生命の力が、あるいは仏の

功力が、どれほどあるかということを説いた。すなわち治すという力を説かれている」と。

 

 天台大師については、たしか小止観に、天台がにいさんの病気を治したということが説かれています。すなわ

ち病気が起こったが、この病気を治すにはどうしたらよいか、ということです。天台のにいさんは、非常に病弱

であるので、天台はこれを治すのに、文底の南無妙法蓮華経すなわち醍醐味は知っていながら説けないので、本門を裏にして、迹門を表にして熟蘇味を用いた。すなわちにいさんを部屋にすわらせて、次のような観念観法を教えたのです。

「熟蘇味が頭の上にのっているとせよ。そして、その熟蘇味が溶(と)けてきて、からだを頭から下にずーっと伝わったと考えてみよ。そのように、念じながら溶けた熟蘇味が足の先まで行ったとせよ。それが部屋いっぱいにだ

んだんと足から広がっていってそこで止めよ。そうすれば、ちょうど熟蘇味のフロにはいったと同じことになろ

う。それで、あなたのからだが丈夫になる」と教えたというのです。

 そして、にいさんがそれをまじめにやって、丈夫になったという記録があります。

 さらに、仏は自分が今死ぬという事件を取り上げて、生命の常住を説きます。すなわち自分の肉体は、ここで

死んでしまうが、しかし、自分の生命はなくなるものではない、この大宇宙に溶け込んでいくのです。そしてま

た、生の生命となって活動を起こしてくるのだと、自己の生命の永遠を説くのです。この自己の生命の永遠とい

うことをいいかえれば、ただここでは法身如来を論じているのです。しかし、報身も応身も三身が共に、永遠で

あると論じなければならないのだが、ここでは法身の常住のみを論じているわけです。

 

 ところが、法華経には法報応の三身の常住を説き、この肉体(応身)も、このまま永遠に連続するのだと説いて

います。これはちょっと不思議です。われわれは死ぬと燃やしてしまう。肉体はなにもなくなってしまう。なに

もなくなるのに、このからだが永遠だとは、おかしいではないか、とだれでも思ってしまうでしょう。しかしお

かしくないのです。それがわかれば、仏教の哲理が一通り腹にはいったといってもよい。そこがわからないとい

っても、これはしかたがない。信じてくれというよりほかはない。一途に思い込むより以外にはない。それでは

困るではないか、そんなこといって騙されたらたいへんだというでしょう。そこで、仏教は証拠論ですから、御

本尊を拝んで功徳があったということ、これが御本尊のいわれることには、ウソがないという一つの証拠です。

それならば、御本尊様が三身常住を説かれているのであるから、これも間違いはないと信ずる以外にはないのです。

 

又云く「病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順ならざる故に病む・二には飲食節ならざる故に病

む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼便りを得る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む」云

 

 また、天台大師の止観には、病気の起こる原因について、六種ありと明かしています。

「一には四大順ならざる故に病む」四大とは、宇宙万物を構成している地水火風をいいます。昔は今のよう

に、科学が発達していなかったから、分子論や原子論や原子分裂などという学問はなかったのです。だから人間

のからだは、何でできているか、それは地水火風空という、五大からできあがっているというわけでした。地は

土などのことで、からだでいえば、肉や骨や髪や皮膚といえます。水は液体で、血液や汗などがそうです。火は

からだの熱など、風はわれわれが息をする空気など、こういう物から、われわれのからだができているというこ

とを、昔の人は感じていたのです。

 ですから、火大不順すなわちこの熱の不順でいえば、寒い夜にフロ上がりで外を歩いていたとか、あるいは地

大不順でいえば、あまりにも窮屈な、肉をしめるような、足に合わない小さいクツをはいていたとか、そういう肉体

の変化が順当でない場合に、カゼをひいたとか、炎症を起こしたとかして病気になる。これは医者で治る病気です。

 「二には飲食節ならざる故に病む」すなわち食べる物が、きちんと節に合わない、不節制から起こるもので

す。夜中に食べて昼一日食べないでいたり、暴飲暴食をしたり、二日間も食べないでいて腹いっぱい食べてみた

り、あるいは偏食して、野菜を食べないで肉ばかり食べていたり、あるいは不景気でしようがないですが、お香

々(こうこう)と麦飯、うどんばかり食べていたり、あるいは塩気のものは絶対食べない、こういうふうなことから、病気に

なるというのです。これは医者で治ります。

 「三には坐禅調わざる故に病む」坐禅とはすわり方とか運動の仕方とか、からだの部分部分を担当している

各部の置き場所がそなわらないと病むのです。すなわち立ったままでやる仕事とか、すわったままで歩かない仕

事とか、これによってなる病気があります。以上のような三つの病気は、医者で治るのです。しかし、次の三つ

は医者で治らない病気です。

 「四には鬼便りを得る」鬼とは断定することは無理かもしれないが、どうもバイ菌のことのように思われま

す。バイ菌すなわち病原菌などが、われわれのからだにはいってきて、繁殖して起こす病気といえます。これは

昔は、医者で治らぬということになっていました。今は相当に医学が進んでいるから、医者で治らぬ病気といっ

ても、その中ではもっとも軽い病気です。

 

 次のような伝説が、中国に伝わっています。ある山に鬼がいて、付近の人は鬼にさらわれる。ところが、その

鬼は昼は出なくて夜に出る。夜出るのであるが、タイマツを五、六人であかあかとつけて通れば、鬼が近寄らな

いとされている。これは医学で解釈すれば、こういうことがいえる。マラリヤの病原菌をもったごく小さい蚊が、

その山に棲息している。ですから、闇の中を歩くとブンブン飛んできて刺す。刺されるとマラリヤを発病し、発

熱して死んでしまう。これを説きようがないから、あの山には鬼がいるものだというようになったらしい。とこ

ろが昼やあるいは夜でも、五人も六人もタイマツをあかあかとつけて行けば、その時は蚊に刺されないですむか

ら、このようなことからきているらしいのです。

 

 ともかく鬼というのは、バイ菌です。そこで医学の発達しない、ごく初期の時代、一例として、日蓮大聖人様

の御出現前後を考えてみましても、赤痢などは、あの時代には全然なおせなかったらしい。赤痢を治す方法は、

どうしてもなかったらしい。それで赤痢とか疫痢とかも「鬼便りを得る」の中に入れていた。今では、この分野

では相当に医学の領域が食い込んできているが、このバイ菌によって起こる病気は、全部なおせるかといえば、

そうは断定できません。

たとえば肺結核などは、医学の力はまだまだ中途までしか至っていません。根本は、その病人の生命力いかんによ

るのです。生命力の弱った人などは治せません。これはよく見ていて下さい。たいていこっちの強い生命力で治

っています。食餌療法といっても、あれを食べさせたら、これを食べさせたらと、生命力を強くする方法を考え

ている。またとくに、今の医者が肺結核だと宣言すれば、それを聞いただけで病人はがっかりしてしまう。これ

が原因で半分ぐらいは死を早めています。今、医者にかかっても、二分の一か三分の一ぐらいは治るでしょう。

しかし、その治る三分の一または二分の一にはいる人も、当人の生命力が強くなければ治りません。ゆえにバイ

菌によって冒された病気は、本人の御本尊を信ずる力が強く、生命力が強ければきいてくるのです。

 

 「五には魔の所為」魔の所為とは、突然に気違いになったりすることがあります。これはどうしようもない、

ある一つの自分の生命力よりも強い、われわれを不幸にする生命力の波動を、われわれの生命が受けることによ

って起こる病気です。その時には、われわれの生命の運行状態が破壊されてきます。この病気は、医者ではどう

しようもない。よく今、医者で頭の悪い脳の病気を、頭蓋骨をわって手術すれば治る等といっているが、それは

よほど注意してやらないとダメです。そこが治ったけれども、目が見えなくなったとか、また口がきけなくなっ

たとか、再発したとかいう現象を起こします。首から上の病気は、手術にしても相当に信心を強くしてやらない

とダメで、下手な医者まかせにするのは注意しなければなりません。そのように、魔の所為は医者だけでは絶対

に治らないのです。

 

 「六には業の起るが故に病む」業とはきのうやったことも、過去世にやったことも業になります。業とは仕

業と訳すのです。この仕業も、四大不順とか、飲食節ならずとか、あるいは坐禅調わざるとかによって起こった

業ならば楽なのです。ところが、仏法に縁を結んで起こった業というものは、どうしようもない。今、小児マヒ

を予防し、さらに進んで小児マヒを治す薬が発見されたとします。今、盛んに新聞に発表されていますが、しか

し絶対にあれで、大丈夫だとはいいきれないでしょう。ごく軽い症状の人が治るのみでしょう。

 

 ところが、もっと恐ろしいことがありますから、かならずあなた方が研究してごらんなさい。それは譬喩品に

こういうことが説かれています。

「この過去世の謗法の業によって起った病気が、名医にあったり、あるいは良薬にあって治ったとする。し

かし、かならず他にこれと同じ量の病気が起こって、苦しむということがある」と。仮に私が業によって、御本

尊を信ずる人を誹謗したとします。そうすれば、私はかならずそれによってゼンソクとか腹膜炎とか、その他か

らだじゅうにいろいろの臭いできものがたくさんできる等の病気になる。そしてその病気を法華経(御本尊)で

すなわち信仰の力によって治さないで、たとえばゼンソクだからといって、どこかの大学病院で手術して治した

とする。ゼンソクが治った、けっこうだと喜ぶと、また他の同じ苦しみの病気がかならず出てきます。これが仏

法上の定理になっております。

 

 浜松でたくさん信仰している人がおりますが、この浜松で信仰が盛んになったのはたった一人、医者の見放し

た腹膜炎が治った人がいたからです。そして治ったので、今度は折伏しなければダメだといわれた。そこで

人で、医者の見放した腹膜炎で苦しんでいる人たちを捜した。それがみな信心したら治った。それからずーっと

弘まったのです。

 

 業によって起こった病気は、信仰以外では治らない。私がよくいう小児マヒは、信仰でなければ治らない。も

し今、その薬が本当に学理的であって、皆がよく治るのであったならば、信仰すればなお一層よくきくのです。

薬の力だけで治ったのではない。根底に信心があるのです。前にいったごとく、信仰の力によって治せば、また

再び他の業病にかかって苦しむということはなくなるのです。

 

大涅槃経に云く「世に三人の其の病治し難き有り一には大乗を謗ず・二には五逆罪・三には一闡提是くの如

き三病は・世の中の極重なり」云云

 

 大涅槃経には「世の中にもっとも治しがたい病気が三つある。一つには大乗を謗ずる、大乗とは法華経のこと、

すなわち法華経をそしった者。次には五逆罪といって、父母を殺し、阿羅漢を殺し、仏の身から血を出し、和合

僧を破るという罪を犯す者。和合僧とは正しい仏法の研究団体や折伏団体、あるいはお寺の正しい宗教団体であ

り、それを破るという罪。第三に一闡提といって絶対に信心しない者。これらは病いの中の極重病である」と。

それらの罪によって起こってくる病気というものは、絶対信心によってでなければ治りません。治しようがない

のです。

 

又云く「今世に悪業成就し乃至必ず地獄なるベし乃至三宝を供養するが故に地獄に堕せずして現世に報を受

く所謂頭と目と背との痛み」等云云

 

 ところがまた、大涅槃経にはこうあります。今世に非常に悪いことをする。たとえば大乗を謗ずるとか、五逆

罪を犯すとか、あるいは一闡提になるとかすれば、来世においては、かならず地獄におちなければならない。こ

ういう宿業をつくった人も、今世に正しい三宝(御本尊)を拝むことによって、来世に地獄に行かないですむよ

うになる。しかし地獄におちないようになるためには、今度は現世で償いをしてしまわなければならない。そこ

で頭とか目とか背とかが、痛むような病気になって、その罪を軽く受け流すのであるというのです。

 今、三宝の言葉が出ましたが、何遍もいいますが、仏と法と僧の三つを宝とする。すなわち仏の宝、法の宝、

僧の宝というものがあります。ところで今、日蓮正宗と邪宗日蓮宗各派との違いはどこかといえば、この三宝が

違うのです。そして、日蓮正宗の三宝こそ日蓮大聖人の御本意であり、仏法定理にかなった唯一絶対のものです。

 

 では、邪宗日蓮宗ではどのように立てているか。仏とはどなたを立てるか。それは久遠実成の釈迦如来と説い

ています。法の宝は南無妙法蓮華経、僧の宝は日蓮大菩薩と立てているのです。

 

 ばかなことをいうなというのです。もったいない立て方です。烏はカアカアと鳴くから烏なのです。もしもチ

ューチューといったら烏でなくなる。猫がニャーニャーというから猫であり、ワンワンといったら、猫だかなん

だかわからなくなります。久遠実成の釈迦如来は、我本行菩薩道において、南無妙法蓮華経を修行したことは歴

然としています。ただ化導にあたっては、釈尊は南無妙法蓮華経とはいわないのです。法華経二十八品をいった

にすぎないのです。南無妙法蓮華経は、その釈尊の所有物ではありません。しかるに、この久遠実成の釈迦如来

の法というのは、文上の法華経でありながら、法の宝をば南無妙法蓮華経といっているのです。そして、末法の

衆生に南無妙法蓮華経を弘められた方をば、日蓮大菩薩と下しています。実に乱暴きわまりない。大聖人様は仏

様です。なぜならば、法が根幹となるから、南無妙法蓮華経を法の宝とするならば、南無妙法蓮華経といった人

は誰か。御義口伝においても、本因妙抄においても、観心本尊抄においても、開目抄等においても、はっきりし

ております。大聖人様は「われ仏なり」とおっしゃっておられます。

 

 南無妙法蓮華経を説いた方は、世界始まって以来、大聖人様よりほかにはいない。だから大聖人様が仏の宝に

なります。仏は人で南無妙法蓮華経が法であり、人法一箇の仏様が顕わされています。すなわち仏宝は日蓮大聖

人、法宝は南無妙法蓮華経、しからば僧宝はといえば、御開山日興上人であられます。

 このように、邪宗日蓮宗の三宝は狂っているのです。三宝が正しく述べられてあるのは、実に日蓮正宗のみで

あり、ここに正宗と邪宗との区別があります。

 

止観に云く「若し重罪有って乃至人中に軽く償うと此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」云云

 

 天台の止観には「もし重罪があって、その罪を後世までもっていかないためには、正法をたもつことによって、

この世で軽く償うのであり、病気をするのです。これは業を謝せんとするゆえである。今までやった悪業を、病

気をすることによって断ち切るのである」ということが説かれています。

 

 竜樹菩薩の大論に云く「問うて云く若し爾(しか)れば華厳経乃至般若波羅蜜は秘密の法に非ず而も法華は秘密なり等、乃至譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云

 

 そこで竜樹菩薩の大論(大智度論)には、次のようにあります。竜樹菩薩という方は、釈尊滅後七百年頃にイ

ンドに生まれた人で、仏教の中興の祖といわれた有名な方です。この竜樹菩薩がいわれるのには、華厳にしても

乃至般若波羅蜜にしても、これ秘密の法というわけにはいかない。なぜなら、秘密ということは仏のみ知り給う

ことを秘といい、いまだかつて一度も説かないことをば密という。ゆえに法華経のみを秘密というのだ。これを

譬えていうならば、すなわち毒を変じて薬とするのである。毒とは先ほど申し上げましたように、五逆罪あるい

はまた大乗を謗ず、一闡提のことです。

 このような大毒をもって生まれてきている。それを法華経でよく治すのです。これは毒を、よく薬としたようなものだ。毒をなくして、また功徳を受けるのです。われわれも御本尊様を拝みますと、業のために商売で損する、そのことは毒であるが、その毒を、損したということをもとにして、御本尊様を真剣に拝み、それから金が儲ってくる。これを毒を変じて薬となすというのです。