堀日亨上人と創価学会との関係
牧口先生と意気投合
小平 牧口先生が始めて堀猊下にお会いなされたのは、歓喜寮(中野教会)でもって、堀猊下の身延離山史のお話があ
ったときでしょうか。
戸田 そうそう。
小平 このとき、聞きに行がれた方は……。
戸田 それは、はっきり記憶していないな。そのころの幹部が、いっしょだったと思う。
小平 堀猊下が畑毛に行かれたのはいつだったですか。
石田 それは昭和十四年です。
小平 堀猊下が畑毛に行かれた、そのあとの建物を、そのまま買われて理境坊の建増しをしたわけですか。
戸田 いいや、そうではない。庫裡だけ買った。買ったときが面白いのです。畑毛が建つ前に、常在寺さんに、猊下が
住んでおられた。その家が面白いのです。今のお山の小さい家があるでしょう。
小平 理境坊の前の……。
戸田 いやいや、何だか、雪山文庫のくらへくっつけて、新しく建てられた、日本的な住宅が……。
石田 一番新しいのですか。
戸田 そうだ。
石田 あの中二階のついている……。
戸田 そうそう。あれと同じようなものを、常在寺に建てたのです。(笑)
それで、驚いたのです、僕は。常在寺さんにいるというので、庫裡を買いに行ったわけだ。三百五十円だと思った。そ
れで、猊下にお話を決めに行ったのです。そのころ、常在寺は庫裡と本堂とが、離れておって六尺か五尺ほどの高さの
廊下をわたって行く。知っているでしょう。
小平 ええ、知っています。
戸田 そこを途中から下りて行くのです。すると、そこに二畳間があって、そこが受付なんだ。奥がたしか、四畳半か
六畳間だと思ったが、そこにお坐りになって、仕事しているのです。
その奥に金庫がある。ぼくは、金庫というものは、金を入れるものとばかり思っていた。(笑)ところが、本だけ入れ
てある。(笑)
そして、自分でご飯をたいて、それで洗濯物なんか……あのときの御住職は桜井さんだ……その住職の奥さんが、洗
濯物をしてやるなんていうと、とっても機嫌が悪くなる。自分で洗濯せんと気に入らない。ご飯をたいて余ったのは、干
飯にする。袋につめてぶら下げておいて、(笑)そして、そのころは大宮です(今の富士宮)、「大宮のカツは量が多い」
とか、「そこのカツの量は少ない」とか、おっしゃっているんで、僕はびっくりしてしまったんだが。
その時が初対面であって、とても印象深いものがあった。
その後、牧口先生と意気投合して、牧口先生も畑毛に行かれる、僕らも、くっついて行くようになったというのが、最
初の牧口先生とのつながりなんだ。どっちも学者だから、話も非常に合ったらしい。
それから、その第二段としては、畑毛へ移られてから、生活に非常にお困りになって……それは書くか書かないか、わ
からないけれど……それで、今の畑毛の雲山荘を売るといい出したんだ。そのときに、三万五千円か四万五千円かで、買
いとったものなのです。そして、牧口先生の名義にしてあった。それから僕が拘置所から釈放されて帰って来たら、家の
相場が上がっていたのです。古い信者から金を出す人があるというので、買い戻すというわけだ。買い戻すなんていった
って、値がわかるものでなし、もともと猊下に差しあげるつもりで、やったことだから、猊下から金をもらっては、すま
ないというので、そのまままた猊下におかえしした。
牧口先生の名義にはしたけれども、謄本のやり方が、非常に不完備になっていて、その不完備を利用して、猊下の名義
に書き変えて、かえしてしまった。それが一番最初の終戦後の交渉だ。それから猊下の名義になったわけです。
それがため、今度も、お山と学会へ死後寄贈ということになっているのだ。遺言状が正々堂々と、それなのです。全部
総本山へやるから、学会と相談の上、処理せよという……それで一応総本山の名義にして、未亡人へ、ある程度してやる
というのが現状なのです。
常在寺の事件と、それから、家を一ぺん買って、おかえししたという、それさえ、はっきり、のっていれば、学会との
関係はもう、はっきりするのです。
その庫裡が、今の理境坊の古いあれなのです。三百五十円で買って、三百円かけてあれが出来上がったんだから、六百
五十円で出来たことになる。
小平 そのときが、稲葉さんが最初、話を聞いてきて……。
戸田 そうそう、あれなんだ。それは理境坊から話があった。まあ、新しく買うよりは、雪山坊の康裡が、どうせこわ
して持っていくものなら、やろうという話で買ったんだ。
小平 そうすると、今の雪山荘は、大体は前の雪山坊なんですか。
戸田 いや場所はその隣りです。今の雪山坊は、前の雪山坊の隣りになっているわけだ。
小平 今の畑毛の建物は、大石寺から持っていったものですか。
戸田 そう、持ってったものです。持って行って、つぎたしたものです。
小平 一回、革新クラブの方が行かれたことがあります。あれは……、
戸田 いや何回も行っておりました。戦争前でしょう。何回も行ってました。
小平 それでは、相当、牧口先生も畑毛に行かれたり……、
戸田 行かれたり、本山で会われたりしておられたのです。
小平 ああ、そうですか。
戸田 僕らは、みな、おつきそいだから、そのとき。(笑) あまり、むずかしい話は知らん。(笑)
国家諫暁に対して
小平 「牧口さんの言うことは正しいが、わしは嫌いじゃ」といわれたとか。
戸田 ああ、そうだ。
小平 やっぱり、おっしゃったのですか。
戸田 ええ、面白いことをいうのです。「強信な信者は、あまり好かん、うるさくて」(笑)それから、平坊主にかえ
せという、あれは、総本山では実際にこまったらしいのです。
いっぺん猊座につかれた方を、平僧にしろったって、それは無理でしょう。あれでは、ずいぶん喧嘩した。処女を破って
おいて、もとの処女にかえせっていったってそれはむりだよ。(笑)
小平 牧口先生の国家諫暁にたいしては猊下はどのような……。
戸田 いいや、反対はなさらなかったです。反対はなさらなかったが、小笠原慈聞の関係もあって、猊下は、口をあら
わにしては、それをおっしゃらないんです。しかも全国の寺寺をまわっておられた関係上、古い坊さんとのつながりが、
あるわけなんです。だから、そんなに態度をはっきりできない。そういう、ちょっと微妙な関係はありました。
小平 「言うことは正しいけれども、応援するというわけにはいかない」というような。
戸田 そうそう。理想は正しいが、大石寺の形勢上、今すぐにはできない、というような立ち場であった。
小平 最後に、先生方がお山に行かれましてですね。渡辺さんから言われたという……「神礼を一旦うけて、国法にふ
れるようなことをやってはいけない」といわれたという……、
戸田 それは渡辺慈海君です。猊下は黙ってすわっていらした。あまり、たくさんはおっしゃらなかった。しかし、腹
の奥底では、まあ、こっちには賛成しておられたんでしょうか。一山の空気で、創価学会を押さえるためには、猊下のお出
ましを願ってないと、やれなかったので、お出ましになったのでしょう。
だから、あの時は、お山では一つの儀式として、われわれに会ったのですから。六、七人行ったのです。引っ張られる
などとは思わないで、のんきな顔して行ったのでしたが、けっきょく……それからまもなく引っ張られてしまったあのと
きの小笠原慈聞の活躍たるや、大したものだった。それくらいのもので、あとは大体、君らも知っている。
牧口先生の地方折伏
小平 ちょっと猊下とは直接関係がなくて恐縮ですが、長野県へですね、牧口先生が矢島さんたちをつれて、折伏に旅
行されたことがあったわけですね。それは、いつごろだったのでしょうか。
戸田 それは、いつごろだったか。それはやはり昭和十二年ではなかったか。こっちの第一回の発会式は昭和十二年だ
ったか三年だったか。
小平 昭和十二年です。
戸田 その前後だと思うのです。矢島は怒られてばかりいてね。矢島は組織力がなくてだめだというわけだ。わたしの
罪じゃないんだけれども、怒られるのはこっちになってくる。
小平 北海道へ行かれたのは、そのあとなんですか。
戸田 その後です。
小平 北海道には、先生がいらっしゃって。
戸田 そう、十四、五年ごろだね。長野県のあとです。それから新潟へ行ったのは第一回のときには、昭和五年だった
ね。そうすると、昭和六年か七年です。
小平 今の地方折伏です。
戸田 そうそう。
石田 新潟というのは、やはり牧口先生の実家があったところですか。
戸田 そう。新潟の荒浜というのが、先生の生まれたところなのです。
石田 その関係で折伏に行かれた。
戸田 そう。そこは全部、牧口先生の関係で、本家は渡辺というのです。その系統が、たくさんいるわけです。
要するに、牧口先生の世話した男が、あそこで成功しているわけなんだ。そういう関係で行ったのです、荒浜に。
小平 長野県は共産党の……。
戸田 そうそう。共産党系のクビになった教員の系統をたどって行ったわけだ。今は全部退転して一人も残っていない
けれどもね。だいぶ昔の話だ。
お山の大計は
小平 あとは一つ、先生から面白いお話を……、
戸田 ええ、面白い話といっても、平僧にかえせというけんかと、常在寺で度胆を抜かれた、干飯を腰にぶら下げて歩
くんだから……あれは、どうやって食べられたもんだろう。やはり、お腹の空いたときに、どこかで、そのまま食べられ
たものかなあ。(笑)
小平 その常在寺にいらっしゃったときには、もう畑毛の雪山荘はできていたのですか。
戸田 ええ、雪山坊は作ったときだろう。いくらか、引き続き、こちらにも根拠地が欲しかったのでしょうから、おら
れたのではないかな。
小平 頑固だったということでしたが……。
戸田 頑固だな。「まいった」なんていったのを、聞いたことがない。「そうか」なんていったのを聞いたことがない。(笑)
小平 その頑固さで研究をやりとげたというような……。
戸田 それは、そうでしょう。ただ心残りは、要集(富士宗学要集)を作りあげたら全集にかかろうということに、
なっていて、それが、そのまま作らずじまいになったことだ。
石田 何とはなしに、九州人らしい気質ですね。
戸田 それは、ある。一番最初に行って、わしは中奴でね、といわれたときは、なんのことか、わからなかったが、聞い
てみたら、いっぺん坊さんになって、途中でやめてまた坊主になったという……だから、奴が途中で中継したというわけ
だ。(笑) そう説明しておられたよ。いつのころのことですか、二十歳前後のことではないかね。
小平 猊座に上がられる時もいろいろと……。
戸田 あれはね、本山に紛争がおこったのです。その紛争をまとめるために、立正大学におられた猊下が、両方の派を
まとめるために止むなく猊座へ上がったのです。やはり猊下は学者として、より一層突っこんで、そのまま行けばよかっ
たという、お考えがあったのではないか。これは、推察し奉るところによれば。だから、猊下々々といわれるのが嫌だっ
た。そのあらわれが、今の大石寺の雪山坊にいてさ、そして、奉安殿まで行くときに、みな拝むから、トンネル作れとおっ
しゃった、その考えではないか。
小平 いつでしたか。本山から先生のお供をして、畑毛へ参りましたことがあるでしょう。何か二人でくるようにとい
われてお寄りしたことがあるんですが、話の内容はよくおぼえていない。
戸田 大したことはなかったでしょう。
小平 そのときのことを思い出そうとしているのですが。結局、先生が「戸田は生命がけで折伏をするから、お山では
派閥争いなんかは、絶対よしてくれ」っておっしゃった、そのことを特に強く覚えているのですが。
戸田 やっぱり、総本山の大計は考えておられた。実に明快なものだった。
今度の日昇上人様のこ隠退の時だって、やはり、猊下の鶴の一声です、あれだけは。
だから昇師様のご隠退について身延あたりでは「戸田に詰腹切らせられた」と、言っているそうだが、切らせられたと
か、切ったとかそんなわけではもちろんないけれども、あのころが、最高の時期であったからね。あの時期を逸したら、
ひどかった。何も傷つかずにすみました。猊下のあの断の下し方は、やっぱり、何も聞かずにいて聞いていたんだ。で
なかったらあのようにはできません。わたしもほとほと頭を下げたよ。
たった一言いっただけです「この家は法主様にさしあげて、あなたは、もう一回、新しく建てたらどうですか」と、そう
いっただけだよ。
あそこには法主様くるわけはないんですからな。御隠居なさらなければ、きちんと大局はごらんになって、おられたで
すからね。
私も昇師様に「止めてくれ」と申しあげたのではないからな。ただ猊下に、「この家をさしあげたらどうですか」とい
っただけだからな。それは、いい出しにくかったよ、あれだけは。