地球以外に生物は住んでいるか
小平 自然科学では、現在では人間が住んでいるのはこの
地球だけだというのですか?
渡部 いや、そうではありません。他にもあるという可能
性が大いに考えられます。
戸田 この間も何とかいう天文学の本を読んだのですけれ
ども、それによると宇宙に地球と同じような状態の星がだい
たい推定して千くらいあるそうだ。
渡部 大体観測の時は、恒星以外に、太陽みたいにギラギ
ラ光っている星は見えますけれども、地球のように光らない
星では、見えないのがありますから、一体何個くらいあるか
判らないのですが、太陽と同じくらいな規模を持っている恒
星を、望遠鏡の届く限り調べ上げた数ではないでしょうか。
戸田 そこから、推定が千箇くらいあるべきだという話な
のです。
小平 今でさえ、そういう状態ですから、昔なかったなん
ていえないわけですね。
戸田 だって、あんなに恒星があるのですから。
安保 先生、よく〃千世界"という言葉を聞きますが、ど
ういうことなのでしょうか。
戸田 それは千如是のことです。
石田(次) 千如是を覚った世界というような……。
戸田 そうです。数ではない、みんな仏法に関係がある。
「万八千の世界」という時には、万という因を立て、八千と
いう果を立てるのだ。仏法はみんな読み方がある。それをよ
く読んだのは、やはり天台です。
小平 しかし、大千世界というと、やはり、われわれの目
に映る世界をばく然と指す場合もあるのでしょうか。
戸田 やはり、一念三千というところにあるのではないで
すか。千世界は千如是。
渡部 五百塵点劫の説明の中の三千大千世界というのも、
それと同じでしょうか。
戸田 それは、やはり、ふつうの世界というように見てい
ますが、われわれの目に見え、考えられる世界ということで
すが、一念三千の立ち場からも充分みている説明です。
篠原 久遠即末法といった場合の久遠は、久遠元初の意味
の久遠ですか。
戸田 そうです。
篠原 五百塵点劫のことをも略して久遠という……。
戸田 そうもいいますが、久遠即末法ということは、五百
塵点劫を久遠と名づけるのではない。
篠原 即というのは"そのまま"ということですか。
戸田 そのままといっても、どうかなあ……。
小平 一念即三千……一念にそのまま三千を具えている……。
死後の生命はどこにある
北条 それから、木や草なんかの問題なんですが、あれは
結局国土世間として、宇宙なら字宙、地球なら地球というも
のそれ自体の生命の発露といいますか、草や木にしても、水
にしても石ころにしても、そういうものはもともとあるけれ
ども、そこへ、たまたま死後の生命というものが、融けこん
でいる。
戸田 どこへでも融けこむんだと思う、ぱーッと。そうで
なければ、石ころがあると、ここへ御本尊様をお認めになる
と、たちまちに仏の力が現われるという、これが意味をなさ
なくなってくるだろう。即身成仏の意味がなさなくなる。こ
れは仏の我の存在が当然現われてくるわけです。
どういったらいいのか、餅みたいなものなのです。どこを
取ってみても餅になってしまう、餅をついて柔いのを、もっ
てくれば、四角な餅にもなれば、丸い餅にもなるけれど、皆
同じものです。
小平 電波のお話が良くわかります、なるほどと思いま
す。
戸田 邪魔になっていない。ここが英国の声でここがアメ
リカの声でということがなくて、そして、アメリカならアメ
リカの声だけがラジオから出てくるのです。
融けこんだ我というものが、ここのところに固まっていると
はいえない。宇宙に遍満しているとしかいえない。
北条 例えば、ここに木や花があります。そしてそういっ
た死後に、花なら花に託して安らかに休んでいるというよう
な状態で我を感ずるという……。
戸田 託すという、そういうことも無い、そういう、はっ
きりしたいい方もできない、あの花に親爺の我があるなどと
(笑)
安保 先生、その場合に固定はできないのですか。
渡部 先生、時たま、かたよってくるということはないん
ですか。
戸田 片よってきてしまえば、衆生として生まれてこなく
てはいけない。
北条 それでは、花がしぼんで枯れてくると、花としては
死んでしまいますね。
戸田 そうです、花びんの花は花としては生きてるのです。
あの花は花としての生命なんだ、あそこの我が感じているか
も知れません、感じていないかも知れない、断定できない、
人間であった生命なのです。花の生命になってしまえば、
前の人間の生命は感じないのです、もう。あの花は花だけの
我になってしまうのです、人間界に生まれてくると、前の因
果を背負わなくてはならない。
また人間界で行為をした果かも知れないのです。
和泉 それでは先生、実在したものに託されているという
わけには行かないんですか。
戸田 それは託されているということは、一寸無理かも知
れない。
和泉 結局、宇宙の状態というのは、円くもない、三角で
もない、結局わからないものなのですか。
戸田 それはそうだ。
和泉 託されているというと、もう既にそこに形が現われ
ています。
戸田 自分の生命だって、どれだということはいえない。
われわれの生命というものは、どんな生命だといって、本当
はわからない。われわれの生命はわからないで、見えるのは
肉体と心だけでしょう。「色心不二を一極と云う」とあるが、
色心不二といったって、心と肉体としかわれわれは観測でき
ないのです。生きてるといったって、誰も生きていることは
否定しないけれども、それでは、お前の生命はどれだといっ
たってわれわれには説明できない。
みんなに「我」があるといったって、どんな我があるかわ
からない、どうだい、お互いにみんな、こうして生きて、話
しているけれども、おれの我はこれだっていえるかしら。そ
の我というものは、有るといえば有るし、無いといったら無
いし、それで無いかといえば有るんだし。今こうして生きて
いるわれわれの我すら、どんなものだか、どこに有るともい
えないでしょう。
われわれは、ただ有ると思っているのに過ぎないでしょう。
しかし無いといえばまた、これは間違いでしょう。
六十二の我見の中の二つの我見は、有無の見解を邪見とい
っているでしょう。その命というものが有るとか無いとかど
っちかに断ずることを、我の存在を断ずることを邪見とい
っている。そして小乗教で無我だということは、無常なる
ものを無我だと立てるのです、無我、我が無いということ
も邪見だといっているわけだ。我が有るということも邪見
だ。
実際、われわれの身体で観測してごらんなさい、我という
ものは、どこにも無いから。
あるかい、渡部君の我は。俺の我をみせてやろうか、など
と。(笑)
小平 大分でかくなってきたなどと(笑)
北条 それは生命というものに対して、われわれが肉体と
いうものしか認められない、それ自体が非常に狭いのです、
考え方が。
戸田 そうです、我というものを論ずる場合には、われわ
れは今生きているから我があると思いこむのもまた間違いだ。
しかし無いともいえないのです。そういうものが我なんだか
ら。だからといって、我が常住だからというので、どこかに
フワフワしているのだと思ってもまた困るんだ。我というの
は、決して自分より大きいものでもなければ、自分よりも小
さいものでもないんだ。そういうものはあり得ない。大きく
もなけれど小さくもない、では、ちょうど良いかといえばち
ょうど良くもない。(笑)
石田(明) その我と宇宙の関係との考え方ですが。
戸田 そうですねえ、自分の中に持っている我というもの
が、死んでからどこかに行ってしまい、またその我が集まっ
てくるのだと、こう考えれば一番楽なのだが、そうではない
のです。我という名前をつけるけれど、我というのは宇宙の
ことなのだ。宇宙の生命と君等の生命と違うのかというと、
違うのは肉体と心であって生命には変わりない。
渡部 結局生命というのは、たとえば工場なんかで、パイ
プの中に水がザァーッと流れてますと、一刻々々に流速だと
か、圧力だとか、中に入っている液体の性質だとか、温度、
比重などが、変わるわけです。われわれの体も物質はどんど
ん変わるわけだし、ちょうど、そのようなものではないでし
ょうか。
戸田 とにかくわれわれの体をずーっと通っているものが
あるように考えられる。生命というものはその変化をしてゆ
く流れているように感じられる大もとのものなんだよ、流れ
ているものでもなければ、止まっているものでもない、虚空
のごとしと。それが生命の本質なのです。
石田(次) 要するに、一つの法則みたいなものなのです。
それでいて、実際の物質的な現象と、規則的な現象とは絶対
離れられないものなのです。離れられないというよりは、離
さないのです。
戸田 そうだ、離さないのです。
石田(次) 肉体という仮諦の現象と、心という空諦の現象
と、それを掌握してゆく法則みたいなもの、それを中諦とい
うのではないでしょうか。