外 援

       (一)
 春が来れば地の底より若芽がふくように、歓喜にふれた肉体に自然の変化が生ずる如く、鉄の扉とざされた
三畳の部屋にも残して来た人々の厚い情が感じられて来た。
入獄してから十日目頃のこと、突然看守長に呼び出された。看守長は只一人で待っていた。三十五、六年輩の
目の底光りするきりりとした男であった。丁寧な口調で
『今日から部屋を三十二号に移してあげる。あの部屋が監房では一番陽当たりの良い明るい部屋なんだ』
巌さんはキョトンとした。ただ『ハァ』という以外に返事の仕様がなかった。看守長といえば監房の総督監督
で、新まいの巌さんなぞ知る筈もないと思ったからだ。しかしこの三十二号入りは巌さんの二年の生活を非常に
らくにしてくれたことは後になってわかった。
巌さんが後に出獄して終戦となった時、巌さん達一行を入獄させた思想の持主達の中でも、特に宮中に大勢
力を持っておった木戸侯爵がこの部屋に入った不思議な因縁も、今にして思えばおもしろいことだと思う。だが
その三十二号へ移してやろうと言われた瞬間の巌さんにはおかしなことに思えたのである。
『貴方は母沢浩さんを知っておりますかね』
『知っているどころじゃありませんよ、あの人は私の兄と小学校が同級で股旅物では有数の人で、私の経営する
社でも三十数点出版していますよ』
『私、も母沢さんとは弓の友達でね』
『それは奇遇ですな、会ったらよろしく言って下さい』
『いや私こそ、貴方に会ったら宜しく言ってくれと母沢さんに言われたんですよ』
巌さんはハハンと一切が読めた。それで素直におじぎをして
『何分とも宜しくお願い致します』
『法規内で出来ることなら何でもして上げますから、遠慮なく申し出て下さい。法規を乱すことはできませんが
ね』
さまざまと拘置所内の規則とか風習とか聞かされて、できるだけ法規を守って下さい、という言葉を後に部屋
へ帰った。間もなく
『転出準備』
という命令が出た。さっそくふとんは風呂敷につつみ、こまごまとした物を一しょに集めて風呂敷につつんで
二包みにした巌さんは屋移りにかかったのである。
三十二号へ移った巌さんはさすがに良い部屋だと思った。部屋の構造も広さも何も変わったことはない。ただ
日光がよく入るというだけである。前の部屋には日光がなかったのであった。拘禁される者にとって、日光と風
というものは非常に重大なものである。
二畳のたたみを利用してふとんを置くべき所へ置き、自分の坐る位置を決めてホッーと一息ついた時、表のド
アが開けられた。若いおだやかそうな看守が顔をだした。
『どうだね居心地は』
『すこぶるいいね、これで電話があったら、二三年我慢してもいいんだがね』
この冗談が本当になって二年もいるとは、仏ならぬ身の巌さんは夢にも思わなかった。
『まだ電話はつかないかね』
こういって、この看守にはいつもからかわれていた。
     (二)
 間もなく検事の取り調べが始まった。取り調べが四五日続いて帰る時に、
『君の会社の者が、事業のことで君の指示を受けたいとのことであるから、あすは中央裁判所で取り調べをする。
その時、私が立ち会って会社の者に会わせるから、会って事業の指図をしたらよかろう』
といわれたので巌さんは飛び立つ程の喜びであった。その一夜の長かったことは、未だかつて経験しなかった
ほどだ。この拘置所へ来て始めての外出である。
翌朝、看守に呼び出されて外出のしたくする部屋まで行くのに、厳重に閉ざされた鉄の扉が幾度も開けられた
のには驚いた。巌さんは心の中で
『これはねずみでも逃げ出せはしない。驚いた厳重なものだ』と思った。
始めて外出する時の支度をする溜りへ入った。十四、五人の者が中におった。看守は二人で入ってくる一人一
人に、手錠をはめていた。鉄でできた、土蔵の扉の錠みたいであった。両手首を組み合わせてカチャリと手錠を
はめられた時に、巌さんの背筋には冷たいものが走った。それからあみ笠をかぶせられて、顔を誰だかわからな
いようにさせられた。あみ笠の中ごろには、窓のように四角に穴があけられて目だけはそこで用をすることにな
っていた。
それから丈夫な麻なわを各自の手錠をとおして、十五、六人一組とさせられて、世にいう数珠つなぎである。
この数珠つなぎの一列は順序よく並んで二十人乗りほどの自動車の中へおし込められ、黙々と地方裁判所へは
こばれたのであった。溜りへ入ると縄はとかれて手錠のまま内二尺五寸、奥行三尺ほどの箱のような部屋へ一人
一人おし込められる、ボックスの長屋である。入って草履をぬぐ所が一尺ほどあって、その奥は五寸ほどの高さ
の二尺位の畳敷きであった。その上へちょこんと坐って判検事の呼び出しを各自は待つのであった。前の一尺程
の土間には便器が置かれてある。
一時間程待つと呼び出しがあった。中央裁判所の三階の一室へ看守につれて行かれた。昨日の検事が一人で椅
子に腰かけていて、
『まあ、かけたまえ、今すぐ呼んでやるからな』
『検事さんたばこをのませて下さいよ』
『いや、それが駄目なんだよ、君の監督の責任は看守にあるんでね、僕にないんだ。看守につっ込まれると僕の
責任になるんだ』
『たばこの一本位で検事が首になりもしないでしょう、警視庁では相当のめたんだが、拘置所ではぜったいだめ
なんでね、いいでしょう。一本お出しなさいよ』
検事は笑顔になってたばこを差し出した。巌さんが、その一本をすう時のうまさ、何といっていいか形容のし
ようもない。手錠のはまった手を不器用に口へ当てて、ただこうこつとなっていた。その時、足音がして扉が開
いて支配人の住田と会計課長の森江とが入ってきた。二人が巌さんが手錠をかけられて、たばこをすっているの
を見て検事にあいさつする間も忘れて、彼のひざに飛びついて、『ワッ』とばかりに泣き出した。巌さんの胸に
もあついものが込みあげて、思わずたばこを取り落したのであった。
この日があってしばらくしてから看守長が来て『手錠のことは気がつかなかったよ、もうあれをせんでもいい
ように取りはからったからなあ』といった。思わず巌さんは看守長に頭を下げた。頭を下げた真実の心は外部の
人々へであった。