飢 え
(一)
留置所入りした巌さんは、二日ほどの間は食事をとる気にもならなかった。はげた弁当箱に申しわけばかりの
御飯を入れて、なすびの漬け物が二切れという哀れな食事の上に、欠けたお椀に肥桶の様な中からひしゃくでく
み出してくれる味噌汁をみては、とう底、喉も通らなかった。巌さんの食べられない食事を同房の先輩が、ガツ
ガツと争い取って食った。それが看守に見つかれば、やった方も貰った方もまたなぐられることは必然である。
まるで盗み食いをするみたいであった。しかし四日すぎ五日となり十日となった頃には、巌さんはその粗末な食
事が天国の料理にもまさる感じがした。
巌さんが本当は警視庁に行かねばならぬ立ち場なのだが、警視庁の都合で高輪署仮り住いとなったのであって、
高輪署の刑事からは何も便宜をあたえてもらうことはできなかった。一日おきに小竹刑事がきた時だけ、留置所
から出してもらって取り調べを受けるのであった。それも本格的なものではなくて日数の引き延ばしのように見
えるだけであった。
稲畠さんは入ってから一週間位たって巌さんに合図をするような声で、
『署が移るんですか』といって、としょの羊のように引かれて出て行った。
巌さんの胃袋はだんだんとやせていった、コエ桶のようなたるから出すおみおつけも非常においしくなった。
欠けたお椀も気にならなくなった。弁当箱の二切のなすの漬物も、ただ一口で丸呑みとなり、弁当箱の御飯もの
どを通ったか通らないか意識もしないまでになってしまった。
麻布で箸もつけられなかった料理が、頭の中に毎日えがかれ、南甫園の支那料理もおもいだされ、佐久間のフ
グ料理の入れものまでが、頭の中に描かれるようになってきた。出たならば何から先に食ってやろうか、さしみ
にしようか、支那料理にしようか、フグと行こうかと一日の中相当時間は食い物に頭をなやます様になった。
しばらくこなかった小竹刑事が高輪警察にきて彼を呼びだしたのは三時すぎであった。
『小竹さん、貴方がここへきて食う弁当はいくら位ですか』
『十七銭なんだよ、あんまりいいものは入っていないがね』
『どうだい、一つそいつを取って食わせてくれないか、十七円でもいいんだがな』
『それがね、よその署なんでね、出さないんだよ』
『そんな無慈悲なことをいうもんじゃないぜ、なんぼ刑事だからって』
『そんな意味じゃないんだ。なかなかこの頃はきびしいんでね。できないんだ』
『そんな気の小さいこといわんでもいいではないか、腹がへって物もいえないっていったら、君だって考えたら
いいじゃないか』
小竹刑事は小柄な男で鼻をすするくせがあった。ちょいと鼻をすすって
『無理いうなよ』
『無理じゃないよ。そんならなぜ差入れさせてくれないんだ』
巌さんは弁当一つに対して大攻勢である。弁当一つの、二〇三高地はついに陥ちなかった。巌さんの心中は旅
順攻撃の二〇三高地を陥とせなかった。あのあんたんたる乃木大将の心境に似ていた。
(二)
風も入らぬ留置所の七月は誰でも苦しかったのに、きちんと端座している悩みはたいていなものではない。も
し地獄の獄卒が廊下で罪人をさいなむ芝居でもなかったならば、思索するという事を知らぬ者にとっては地獄以
上のものであったにちがいない。
巌さんは自分がこの罪を受けているのは学会の事であるという事を充分に知る事ができた。しかし罪の焦点が
どこにあるか、まだつかみ得なかった。どうせ自分はろくなものでないから仕方ないにしても、あの立派な牧田
先生まで同じ苦しみを受けるとはどうしても解せない人生であった。正直で慈悲深く、人には親切で学問にひた
ぶるな人格者が罪人にされるとは何という事であろうか。
巌さんは足は痛くなる、腹はへる、昼の来るのが待ち遠しいといらいらする時に、表の戸があいて何か合図を
看守にしたらしい。
『おい巌、出るんだ。荷物をみんな持て』
『どこへいくんですか』
『そんな事を知るもんか早く出ろ』
ガチャンと戸が開いた。巌さんは自分の荷物を持っておもてへ出た。外の廊下には小竹刑事が待っていた。
『自動車で行くかね』
『どこへだ』
『警視庁だよ』
『フン。自動車に決ってるよ』
小竹刑事と円タクに乗った巌さんは、
『何か食わせるかい、警視庁へ行ったら』
『食物の事ばかり言っているじゃないか、きみは』
『何も悪い事をしない者にあんなものばかり食わしておいて今日で十四日目だぞ』
『よその署じゃしようがないよ。まあ自由になったらうんと食うさ』
『ほんとうの事を聞くがね、何日ぐらいで出られるんだい。さっさと調べて早く出したらいい。三月もかかる
か』
『まあそんなものだろう』
『ほんとうの事を聞かしてくれなけりゃ、ぼくには事業があるのだから長ければ長いように短かければ短いよう
に考え方をかえなけりゃ』
『まあそんなものだろうと思っておけよ』
そして小竹刑事は声をひそめていった。
『きみのあの会社の支配人住田がおはぎを届けてある。留置所に入る前に取り調べるようにして食わせるからし
ゃべるなよ』
巌さんは思わず叫んだ。
『そいつはありがたい。腹ペコだよ』
小竹刑事はにが笑いをして巌さんの顔を見た。
自助車はまもなく桜田門のあの豪壮な表玄関についた。小竹刑事は巌さんを伴って二階の奥まった、がらんと
した机ただ一脚の取り調べ室へ巌さんをつれていった。そして、巌さんをいすへかけさせるや、そそくさと出て
行った。吉原の太鼓の音と芸者の微笑とがよほど気に入っていると見えて、巌さんを手荒には取り扱わなかった。
十五分ほどすると手に重箱をもってきて
『住田からだよ。お茶もないが早く食って留置所へ入れよ』
巌さんは不思議な自分を見出した。毎日一升ほど酒を飲みながら甘い物をみてもいやだった自分が、おはぎを
五つほど丸のみにする間、人心地がなかった自分を唯々不思議と思う以外なかった。
(三)
警視庁へ移った巌さんは飢えと退屈と、空陸軍の襲撃とに悩み切っていた。空軍とは蚊の群である。これには
同室の者が同じく悩まされていた。毛布をかぶれば暑苦しいし、顔を出せばさされるし、まどろむ暇とてもない。
しかし二日二晩と眠らなければ最後にはぐっすり寝込んでしまうものだ。
陸上部隊は二種類あり、一つは軽騎兵で一つはタンクである。軽騎兵の方はまだ防ぎいい、それはのみだから
である。タンクときては手のつけようがない。逃げるのが早くて咬まれたら最後はれ上がってその襲撃は間断が
ない。タンク即ち南京虫は実に苦手なものである。巌さんも一度はつかんでやろうと思って大いに警戒を昼まで
怠たらなかったのがその逃げ足の速いのに驚いた。隣にいる同室の者が『きみの目じゃつかめないよ』といった。
もっともである。留置所という所は眼鏡をかけさせない所である。しかし念願は叶うものである。ある朝方枕を
見たら小豆大なものが動いている。よくよく目をすえて見ると南京虫じゃないか。巌さんの血を吸えるだけ吸っ
て、まん丸くなって歩くのによたよたしている。過去の我が身に引きくらベて南京虫の酔っぱらいとはこんなの
かと思って思わず留置所の中も忘れてフフ……と笑った。すぐ潰すのもおしいのでゆうゆうと眺めた後、びしっ
と潰してしまった。
生物を殺す事を好まない巌さんにとっても、この南京虫を潰した時の爽快さは一生忘れない、血は毒々しくご
ざの上に飛び散った。言い忘れたが留置所という所は板敷きの上にござを敷いているだけの所である。楽しみと
する所は一日置きぐらいの午前中の取り調べである。時には午後からの時もあった。巌さんは不思議な感じをい
だいた。小竹刑事が一生けんめい立正安国論をふりまわして、巌さんが不安の心を抱いているかの調書にこしら
えようとしているのである。巌さんはこの不思議を解こうとしていた。それは小竹刑事は牧田先生を折伏した四
谷素啓氏から立正安国論の講義を受けていたという事である。同門の友の一人は取り調ベる者、もう一人は取り
調べられる者、運命の不思議さは凡夫にはわからぬものである。
巌さんは小竹刑事の顔をみるといつでも、
『おい、おはぎの差入れをさいそくしてくれよ。そのかわり調書などはきみの好きなように書いていいからな。
どうせきみはぼくの言ったとおり書きはしないんだから』小竹刑事はニヤニヤして、
『頼んでやるよ、差入れするように言ってあるんだが、なかなかうるさいからぼくも困る事は困るんだがね』
『きみが困るよりも、罪なくしてモツソウ飯を食う身の上も考え給え。哀れなのはこの子でございという所だ
よ』
といって差入れのたばこをすぱすぱと吸っているのであった。これが何よりの楽しみといえようか。小竹刑事
がお手盛りの調書を一人で綴り方している間、窓の外の青空を一人で眺めて恩師を思い、同志の事を考え、やり
っぱなしにして来た事業はいかにと千々に心を砕くのであった。
妻を思えばそのさみしさを思って涙をさそい、子どもの身の上を思えば、その健康を憂い、恩師を思えばその
いたわしさに胸のふるえる思いがする。巌さんも人の子である。しかも多感多情に胸をひきしめられるような思
いをして取調べ室におったのであった。