一 撃

     (一)

 稲畠さんの泣き声を聞いて牧田先生の身の上を心配した巌さんは、一夜は興奮の中にねつかれなかった。せま
い部屋に八人もかさなりあうようにしてねたとき、そとから誰か声をかけて自分に話しかけている同志がいるよ
うな気がしてならなかった。ことにふだんから可愛がっていた本屋の主人で長さんというのがおったが、その人
が窓から声をかけて、何か話をしているのではないかというような錯覚に落ち入ってねむることができなかった。
もちろん入った当日は食事をする気にもならなかった。かけたおわんの中に、おわいを入れてある樽と、同じ思
いをおこさせるその樽の中から、おみおつけをつがれたのでは、何としても食ベる事ができなかった。その翌日
もただもんもんとして学会同志の身の上や、牧田先生のことや自分の経営する十七の会社の運営について気をも
むだけであった。三日目にやっと呼びだされて刑事の取り調ベとなった。高輪警察署の二階の小部屋であった。
その日は単に巌さんの履歴をきいたに過ぎなかったが、巌さんはその時、
『君の名前は何というんだい』
『名前なんかいいじゃないか』
『それじゃすぐ帰すか』
『それはわからんよ、君等が率直に物をしゃベれば帰すかも知れないし、帰さんかも知れん』
『僕らは何も悪いことはしておらんよ。何かのまちがいではないのかい。一体どれだけおくつもりなんだい』
『まあ二、三ヵ月はかかるさ、はっきり君等が物をいいさえすればさ』
『そんなに長くつき合うのなら名前さえしらなくてはしようがないじゃないか』
『ぼくは小竹というのさ』
『そんな他人行儀で本当の事をいえとか、うそいうななんていったって駄目じゃないか。今少し親密にしたらど
うだい、まさか牧田先生に手をつけてはいまいな』
小竹刑事はジッと巌さんの顔を見つめた。そしておもむろに口を開いて、
『牧田も下田でつかまえたよ。まああまりくよくよ考えないで、しばらくぼくと話をし合いなさいよ』
巌さんはくるものがきたというような感じがした。そしておごそかに彼に向かって命令するようにいった。
『牧田先生を粗末に扱ってはいまいな』
『うん大丈夫だよ、心配したもうな』
その返事の中に何かうろたえるようなものがあった。巌さんはおっかぶせるようにいった。
『一体誰と誰とひっぱったんだい、学会のことなんか他のやつらは知らんのだぞ。ぼくだけがやっておったんだ
からな。ぼくのいうことをききさえすれば学会の事は全部わかるんだから、牧田先生も他の連中も帰した方がい
いぜ』
小竹君は返事をしそうもない。
『後でゆっくり話をするよ、あまりこうふんしなくてもいいではないか』
といって巌さんをなだめた。二年の後になってわかったことではあるが、巌さんの一つの会社の支配人である
住田が吉原へ彼を呼んで充分に御馳走して巌さんのことを頼んだ次の日であったから、彼は巌さんにあまり強い
ことをいえなかった。


      (二)
 小竹刑事に別れて帰った巌さんは、再び細長い四畳の部屋へ帰ってきた。彼はうら悲しいようなおもいにとじ
込められた。
なぜかならば、彼が小竹刑事と話し合っている世界は、何となく人間のいる世間のように思われていた。それ
なのにこの細長い四畳の部屋へ入ってくると、人生が全部異ったものに思われてならない。話す人もいなければ
話してくれる人もいない。ただ細長い四畳の部屋にポツネンと坐っているだけであった。
彼の心にはもだえがあった。妻や子供やあるいは自分の事業を思うとジッとしてはいられない気持ちであった。
ことに経済界の一大転換期にのぞんで、九州に一大炭鉱会社を買おうとした時であったし、大阪に油脂工業の会
社を買いとらんとする、彼の事業的転換期にむかっていたのだから、一時間でも時間の欲しい時であった。
ガランと隣の留置室の戸が開いた。巌さんは珍しくもあるし不思議とも思った。彼はびっくりしたのである。
直径一寸ほどで長さ二尺、先がこぶし大のたんこぶのようにまるまった麻縄で一人の男をコンクリートの上に
坐らせてなぐっているのである。巌さんはただびっくりして見ているだけであった。こんな世界が日本にまだ残
っているのかと思った。留置所の司令官はとくとくとして、一人の弱き兵隊をなぐっていた。
『貴様、今何を話していたか』
『何も話しません』
『おれをだますつもりか、貴様の物をいったのはおれに聞こえたぞ』
『何も話なんかしていませんよ。旦那の思いちがいでしょう』
『貴様はおれをだますつもりか、はっきりきこえたじゃないか、返事をしなけりゃ、死ぬまでなぐるぞ』
そのなぐる力の強さには巌さんはただぼうぜんとして見ているだけであった。悲鳴がきこえてきた。
『旦那、おれは何も悪い事はしないだ。助けてくれろ』
巌さんはああ何とか便りが欲しいものだ、家からも、会社からも仲間からも、巌さんはこういう世界の経験は
ない、ただ知っているのは『差入れ』という言葉だけであった。もしや差入れでもしてもらえば外の世界の事情
がわかるかも知れないというわずかな希望で、彼は自分の前に坐っている先輩の耳もとでささやいた。
『おい、差入れってどうしてもらうんだ』
とたんにでかい声で
『貴様、今何を言った』
巌さんはこれ位おどろいたことはない、返事のしようもなければただ目をパチクリするばかりであった。
『出てこい』
扉をあけて引き出された巌さんは、前に先輩がすわった同じ場所に坐らせられた。
『貴様、何を言った』
ピシッとさっきの麻縄でなぐられた。
『何もいいやしませんよ。差入れをどうすればいいかといっただけですよ。それがなぜ悪いんだ』
『本当にそれだけか』
それから後、三つなぐられてまたもとの部屋に入れられた。