前 兆
(一)
岩瀬社長が司会者を務めた昭和十八年春、五月の総会も無事にすんだ。堀江尊師との会見があって以来、学会
が何か御本山の存立に邪魔をしているような空気が強くなって来た。
恰(あた)かも学会の強信な信心の態度が、本山の行き方と異なったような風評が盛んにかき立てられた。特に牧田先
生の強く主張する罰論は僧侶も古い信者も共に嫌ったものだった。罰論に対しては全僧侶悉くがこれを憎んだ。
その余波は学会といえば僧侶は全部白眼視したものだった。
牧田先生は口癖に、十年間御本山に対して何事も害した事はないと主張してやまなかった。その主義を大きな
紙に書いて総会の席上にはったのも、どれ程僧侶の反対を苦にしたものかがわかる。
こんな情勢下にますます時局は逼迫して来た。統制は厳しくなるし、出征は夜となく昼となく続き、多くの人
に見送られて出る日が多くなった。人々の気持ちはおしなべていらいらするようになってきた。
巌さんは兜町のカギサ商店の三階に陣取って、生活革新クラブの経済人を指導し、学会全体の統卒に苦心をし
ていた。
総会が終わって間もなく、巌さんが普通どおりに出勤して、朝のやわらかな日射しをうけて、心も平らかに今
日一日を工夫していた時に、矢平さんが青ざめた顔をして入って来た。
矢平さんは巌さんが社長をして、一切を専務である本馬さんに任してある平和食品株式会社の支配人である。
学会創立以来、牧田先生の指導を受けた信州の人で、元々は共産党の一人であった。しかし今は純然と仏教に帰
依して共産党攻撃の第一人者でもあった。
『巌先生、本馬さんが引っ張られたんですよ』
『一人かい』
『常務の村亀さんと一緒です。主脳部二人ともいなくなったので会社のやりようがないのです』
『一体何だって引っ張られたんだね、そんな悪い事もしてない筈だがなあ』
『塩酸を使っているのが見つかったのだそうです。群しい事は分からないが』
『塩酸を使ったからとて何が悪い。そして塩酸なんか何の為に使うんだね』
『平和食品の生命である鰹(かつお)出しの原料である、アミノ酸を作る為に塩酸を使ってるんですよ』
『そんな物が平和食品にあったのかい』
『本社の方には無かったんですがね、分工場にしている角筈の方にそっと置いといたが、それがみつかったんで
すよ』
『そんな事は大した問題ではなかろうよ』
矢平さんは真面目な顔をして、特異のギロリとした眼を尚もギロリとしながら、
『帳簿が全部押えられたんですよ、砂糖の配給があったのをコーヒーにして売っていたのが横流ししてニラまれ
たのですよ』
『ああ、あの砂糖なら俺ももらったがなあ。あれは何も横流しにはなるまい。ただ心配なのは、去年砂糖の横流
しで本馬君は一度入っているから、ちょっと面倒かも知れないぞ』
(二)
本馬さんの事件は非常に複雑化し、長引いた。平時ならば何も罪になる事ではない。緊迫した時代、しかも暗
黒政治の時代には止むを得ない事であろう。警察官というものは検事に忠実なもので、彼自身が一個の人間とし
て活動するものではなくて、検事の手か足の一部にしかすぎない者であり、それが罪人を作ろうとして懸命な態
度であるからたまったものではない。本馬さんもこのように警察に引っ張られ牢に入るというような事は、前世
からの宿命なのである。即ち仏法を以って論ずるとすれば、過去世に於いて法華経を持つ人を誹謗した罪なので
ある。
巌さんは本馬さんの留守の平和食品株式会社の面倒を見てやらなければならなかったし、警察の方の事も心配
してやらなければならなかった。
こうして一月も過ぎた頃、突然北村さんが神田警察署へ引っ張られたという報らせが来た。巌さんは又びっく
りさせられた。
使いに来た北村さんの使いに、
『一体何だっていうんだい、北村は何も悪い事をする男ではないではないか』
『闇金融の疑いらしいんですよ』
『何だって、又とんでもない事を言い出すんだ。金貸し所か金借りの親分ではないか』
『中滝先生が非常に心配しているんですよ、何しろ大きな投資先は日本証券と中滝先生からなんですからな』
『中滝君の心配するのは無理もない、それにしても何とかしなければ北村さんが可哀そうだ。いずれ中滝君と会
ってよく話し合ってみよう。中滝君は弁護士だから何とか良い工夫もあるだろうよ』
落付いた態度で巌さんが北村さんの使いを帰したものの、さてどう対策をとってよいものやら見当もつかなか
った。
『岩瀬君を呼んで来てくれ、一階にいる筈だから』
大きな声で給仕に言いつけた。
給仕が出て行ってから、間もなく岩瀬さんが入って来た。
『おい岩瀬君、北村君が闇金融の疑いで神田警察署へ引っ張られたそうだ、何か名案がないかね』
『やれやれ本馬に北村か、忙がしい事だ』
『のんきな事を言うなよ。こんな事は牧田先生に申し上げて見ても御心配をかけるばかりだしな。それでも御報
告だけはしなけりゃならんだろうし、処置は私共で執りますと申し上げるのが当然だけど、私共の共の字の中に
は君も入っている事を覚えておくんだぜ』
岩瀬さんは笑いながら、
『私共の共の字はよく承知致しました。千代木を使って様子を探らせる以外にないでしょう』
『あの赤い鼻かい』
岩瀬さんはニッコリ笑った。千代木というのは大きな顔の中に大きな鼻を持った男で、元警視庁の特高の刑事
をした男で、警察の内情をよく知っている男である。
『大した男でもないが、まあ君に宜しく頼もう』
こうしてその方は一応岩瀬さんに頼んで巌さんは静かに冥想に入った。
(三)
本馬さんの事件は中々片附かず複雑化する一方だったが、北村さんの事件は割合に簡単に片附いた。巌さんは
一時ほっとした形だった、しかし何かしら身に迫るようなものを感ずるようになって来た。
北村さんの事件が片付いて、翌日北村さんが見えた。なかなか元気だった。
『いやはや飛んだ濡れ衣を藩てえらい迷惑だった。何しろ留置所なんて所は始めてなんでね』
『馬鹿な、留置所が君の行く待合のように馴染であってたまるものかい』
『巌先生本当ですよ。戸を開けてガタンと中へ入れられるや、先ず裸になり、何だろうと思うと裸のままで二間
程しかない三尺程の廊下を歩かせて、帯を呉れんで着物だけ返し、札入やその他一切を預けて、ガチャンと錠を
開けて五畳間の中へ放り込まれた。五畳というと変な部屋のように思うだろうが、畳を五枚並べた部屋なんだよ、
その中に薄汚ないやつが七人程入っていた。いやはや』
『北村君、嬉しかったかい』
『冗談じゃない。その悲しい気持。事件は分からないし外とは連絡が取れんし、何日いるものか判らんしその悲
しい気持ちと言ったら何ともかんとも言えないもんだ』
『岩瀬君、君も一遍入ってみろよ』
『それこそ冗談じゃない』
と岩瀬君は笑いながら言葉を続けて、
『この間、警視庁で本馬に会ったけれど元気でいたぜ。あれはまあ体験者という形だからな。それにしても北村
さんは案外早かったね』
『なに、何にもない事をほじくられるんだから、むこうでもどうしようもなくて出してよこしたのさ。その時の
喜しいこと、足が踊るようにして家へ帰ったよ』
そんな話をしている時十一時を打った。
『十一時かね』
と巌さんがいい出した途端にドアーが開いて陣出さんの奥さんが子供を背負って入って来た。小柄な色白の無
邪気そうな奥さんで何かあわてているようであった。巌さんが声をかけて、
『どうしたね』
『先生、大変な事が起こったのです。陣出と有田さんが淀橋の警察へ引っ張られたんですよ』
『何でさ』
『宗教の事なんですよ、神棚の問題が元だともいうし、又隣りの人が訴えたとも言うし、そのはっきりした事は
判り次第申し上げますけれど、一先(ひとま)ずお耳に入れて、何とかして戴こうと思って参りました』
巌さんはじっと目をつむつて身辺を何かしら大きな力で、ヒシヒシとせき立てるものを強く感じ出した。自分
をヒシヒシと取り巻いて、自分に捕縄を出す何者かが、どこかにいるような気がしてならなかった。しかし持ち
前の勝気が、何くそ負けるものかと心の中で叫びつつ、
『兎も角、事情を調べて来て下さい。何とか手を打つ事を考えようではありませんか』
と答えた。
(四)
翌朝、巌さんがカギサ商店の前で車を止めた。三階建ての小じんまりしたカギサ商店は、今ちょうど商売が始
まったばかりであった。
『郵船五九二円』と相場をつたえている声が次々と聞こえてきた。活発な兜町の動きが生きているように心に響
いてくる。経済人としての巌さんは、思わず戦場にある強者のようにびくっとした。さあ戦いか! と会社に入
ろうとした途端、店先にしょんぼりしている陣出さんの奥さんが眼についた。陣出さんの奥さんは前々から気が
ついていたらしい。あどけない顔に昨日にもまして憂いをふくめて巌さんの側へかけ寄った。
『どうした』
『先生、事情が判ったんですよ』
『立ち話も出来まい、まあ部屋へ行こう』
巌さんが先に立って会社に入ると、後から陣出さんの奥さんがついて来た。
社員の者は皆巌さんに『お早う』と挨拶したのを軽く受けて、三階の自分の部屋へと静かに昇って行った。席
へ着くや陣出さんの奥さんを前の椅子に掛させて、
『一体それはどうした訳なんだ』
『岸田さんの奥さんが地所(じしよ)を借している人がありまして、前々からゴタゴタしてたんですよ』
『あの門を通すとか通さないとかどうとかいうんで騒ぎになった事かね』
『そうなんですよ。そこを折伏していたんですが、岸田さんが無理をいうもんですから感情的になってたんで
す』
『それが何も警察問題になる訳はないじゃないか』
『所が先生、岸田さんとゴタゴタしていた吉山さんの子供が突然死んだのですよ。それを罰が当たったのだと言
ったもんですから、向こうが非常に怒ったのです』
『子供が死んで悲しんでいるのに、そんな馬鹿な事をいうやつがあるか、それではまるで喧嘩をふっかけるよう
なものではないか。折伏と言うものは慈悲の行為である。四悉壇にも世間悉壇といって世間法というものも一応
考えなくてはならない。どうも寺西君一派の行き方はおかしいなあ、牧田先生のお心をはき違えて生活に利用し
ているのではないか』
『はい、申し訳けありません、その吉山さんは淀橋署の刑事を知っているので、地所のゴタゴタと子供の一件で
その刑事にナキを入れたらしいんです。それで陣出と有田さんとが大事だと思うて引っ張ったんです』
『そいつは弱った事だな。君の家は宮内省御用をしているから、何とか方法があろう。すぐみんなに集まって貰
って対策を立てるとするが、刻々に状況を報告して下さい』
陣出さんの奥さんは色々と細々(こまごま)話をして帰っていった。
巌さんは仕事を始める前に静かに冥想に入った。これはただ事ならんぞ、次々と大波が寄せて来る。今、九州
の大日本炭鉱を買取り、大阪の油脂工業を手に入れようとする矢先に、どうしてこう次々と事件が起こるのであ
ろうか。自分自身が狙われているような気がしてならない。自分が今堂々と事業の大道を進んでいるが、誰が、
又何の力が、かくも自分に迫って来るのかと唯不思議と思う以外にない。