(四)
昭和十八年の二月、学会本部の一階で生活革新同盟クラブの連中が、いつもの通り午後四時ごろ集まっていた。
北村さんが文部省で国家諌暁絶対反対の空気を打診して来て以来、学会運営の大幹部連の中に同じくこの空気
に順応して反対説を唱える者が多かった。唯大ぴらに巌さんをはばかって口を出す者はなかったが、巌さんと仲
のいい連中には、そろそろ言い出そうとする空気が見えて来た。唯、牧田先生にだけは巌さんを通して言って貰
おうと考えている人もあった。
巌さんは唯一人心を痛めていた。それは巌さんと特に仲のいい友人で、弁護士をしておられる中滝先生が巌さ
んに忠告した一言がある。軍部の中に宗教の一本化を企てている連中が出て来た、しかもその宗教は神道を元と
しているらしいとの話を聞かされた事である。その現われとしてか、日蓮大聖人を蒙古のスバイであるとか、日
蓮大聖人の御遺文集から逆賊の徒であると大聖人を非難したりする三流新聞が出て来た事である。
本山を見れば、身延への合同問題が火を吹き出して本山一同足並は乱れ出した。内務部長堀江尊師が猊下を護
って頑張っていられるのも涙ぐましい。笠公慈大は合同論の大将で神本仏迹論をひっさげて華々しい活動を開始
している。東京にも信者が居って、或る巣の北原氏一派がこれを応援して本山の一敵国をなしている形である。
本山の様子は分からないが、国家諫暁などは思いもよらぬ状態である。
牧田先生はガンとして自分の意志を翻(ひるが)えさない。
『巌先生、大丈夫かね。文部省も軍部の空気も反対に決っているそうじゃないか、ひどい目に逢うのじゃないか
ね』
事業上の片腕といわれる福島専務は言い出した。
『いやどんな事があっても僕は牧田先生の弟子なんだ、先生のお考え通りやる外ない』
その時、北村さんが手形を書きながら、
『危い事はせんがいい。だれか牧田先生に申し上げる者はないのかなあ』
『北村君、どんな事があったって君には迷惑かけないよ。面倒な事はよく知っている。しかしこの巌が一人引き
受けた。君等が一緒にやろうとやるまいと僕の構った事ではない。なあ諸君、僕と一緒にやる者はやるさ、やら
ん者はやめるさ。普段は兄弟分だの仲好しだのと言いながら、いざという時になって引っ込む、友達甲斐がない
じゃないか』
『いや北村だって信仰の為なら命は惜しいと思わないんだから、成功するか、しないか、危ぶんだだけさ』
岩瀬社長が、
『北村君がそれだけ力むからには、みんなやるにきまっていますよ、巌先生心配しない方がいいでしょう』
『内輪がまとまらん事にはどうにもならない。君等軟派は去って硬派だけ結束してくれ』
集まった中にいた西川さんは、ドラ声を出して『ぐずぐず言うやつは革新クラブから追い出してしまえ』
こんなような工合(ぐあい)から、だんだんと学会内の幹部は、牧田先生の意見を固く支持するように結束して来た。
(五)
年も明けて昭和十八年の春三月、やわらかい日光を浴びた学会の二階で十四五名の幹部が集まっている。午後
の陽ざしはやわらかではあるが、部屋の中には緊張して幹部の顔もみな引き締まっていた。
『国家諌暁というこの大きな仕事は日本の国家にとって是非やり遂げなければならないが、先ずお山に登って現
下に言上(ごんじよう)しなければなるまい』と牧田先生が厳(おごそ)かにおっしゃった。
『その事で堀江尊師が今日お見えになるのですから、その御意見をうかがってお決めになったらどうですか』と
言う巌さんの言葉を受けて北村さんが、
『あかんあかん、日蓮正宗がつぶされてしまいますよ』
『堀江尊師の御心配もそこにあるのでしょう。小笠原慈聞が身延との合併でさわぎ立てているし、政府は統制の
一本槍だし軍部は神道一本にしようと考えているらしい噂も聞くし、それでお山の足並が揃(そろ)わないとすると、手
の付けようがない。どっちにしても御本山ががっちりと腰を据えてもらってからの事ですよ』
誰に言うともなく野島さんが言い出した。
星とサーベルと顔、という言葉が流行して暗黒政治の時代が来ている。時の政治はだんだんと気狂いじみてき
て、恰(あたか)も戦車が人道をやみくもに走りまわっているようなものである。弾圧などは平気な時代、神札を燃やした
りするならばたちまち不敬罪として告訴されるような馬鹿馬鹿しい時代である。大衆もこれに引きずられて、や
みくもに走りまわっているような狂気沙汰だ。国正に破れんとする凶兆(きようちよう)ではないか。
『諸君、我々がどうなるなんていう事を考える前に、今もし日蓮大聖人が御出現あったと仮定して考えてみよう
蒙古襲来にもましての大事件である。七百年以前の大獅子吼が今なされないと断言する者があるであろうか。断
じて大聖人は国家諫暁をなさるであろう.弟子共も不自惜身命の心を以って大聖人に従うであろう。又大聖人が
今御出現あって我々弟子檀那共を御覧遊ばされたならば、どんなに強くお叱り遊ばす事か。その時、何のかんば
せあって大聖人にお目通りできようか。今の僧侶の中、或いは信者の中で誰が恐るる心なくお目通り願える者が
あるであろうか。大聖人御宝蔵の中にいまして、さぞやお悲しみの事であろうと拝察すれば、この胸も張りさけ
るようである』
剛気な牧田先生の目からはらはらと涙がこぼれた。巌さんは腕を組んだままジッと目をつぶった。正直者の稲
畠さんはハッといって頭を下げた。
『旦運正宗がつぶされるということを恐れて何になる。仏法の力によって国を栄えさせてこそ大聖人の真のお喜
びではないか。日蓮正宗のつぶれることを恐れて大聖人の意志をつげないということは弟子の道ではない』
厳かに牧田先生はいい放った。
(六)
沈黙が一、二分続いた頃、下の方から堀江尊師の来訪が告げられた。一同は牧田先生に従って一階の日本商店
の事務所へ下りて行った。そこで堀江尊師を上座にして、牧田先生はじめ弟子の連中は、皆牧田先生の後にかし
こまった。巌さんは牧田先生介添の形で少し下がって椅子に腰掛けた。
堀江尊師は名内務部長として多難なる御本山の行政を掌っていた。時の宗務総監は後の第六十四世管長水谷日
昇狼下である。
日蓮宗は全部統合せよとの文部省の命令に対して、時の御法主睨下鈴木日恭上人は、たとえ宗門は小なりと
雖も七百年の伝統と清浄なる法燈を護って来た当山として、たとえ如何なる命令たりとも合併は出来ぬとがんば
っていられる。
しかるに笠公慈大を中心とする軟派の不良坊主は利を以って喰わされてか、身延への合同を策している。獅子
身中の虫とは彼等の事か、然も神本仏迹論というふとどき至極の学説が笠公慈大によって唱えられ、日蓮正宗の
伝統たる大聖人の真の教学が、正に覆がえされようとしている。
上は文部省の命令で、下は馬鹿坊主の雷同(らいどう)、内は教義の乱れ、外は信徒の堕落(だらく)、然(しか)もこの事実を信徒に語る事
の出来ない位置にある堀江尊師の悩みは深刻であった。
『堀江さん国家諌暁を絶対なすべきだと私は信じますが、これは私一個が個人としてなすべきではないと思うの
です。当然法主猊下(げいか)のなさるべき事であって、皆尊師方から申し上げるべきではないのですか。勿論信徒として
恐れ多い事ながら私どもからも申し上げますが、如何お考えになりますか』
厳然として何時もの厳かな姿で、牧田先生は堀江尊師に申し上げた。堀江尊師は黙々として牧田先生の顔をみ
つめていられた。数分の後、静けさを破ってむっつりと堀江尊師は言葉をきられた。
『牧田さんそれは出来ない。時期ではないのだ。時期が早いと言っても良いかも知れない』
『それはどういう訳ですか。時期はむしろ遅すぎる。国家がこの大戦争をするにあたって、国土世間に強く尊き
生命が、把持されなかったらどうするのですか。ちっとも早過ぎない。むしろこの牧田から言えば遅すぎるとい
えます。是非猊下へ言上して下さい』
『いやいや国家の事を思えばあなたと同感でありますが、宗内の足並みが乱れていて一致しないこの時に、ど
うして国家諌暁が出来ますか。情ない事ながら宗内の足並みが乱れきっている。この私一人の力でどうしてこ
の潮流を支える事が出来ましょうか。今あなた方がこの問題を騒ぎ立てるなら宗内はますます紛糾するばかりで
す』
『宗内宗内というが、大聖人の御意志をそのまま実行しようというのに何の障りがありましょうか。万一日蓮正
宗がつぶれたとしても仏法の力によって国家が立ち上がるならば、大聖人はお喜びではないでしょうか。仏法は
観念の遊戯ではありません。国を救い、人を救うものです。救うべき時が来ているのに救わぬとすれば仏意に背
くものではありませんか』
『理論としてはあなた方の言う通りだが然(しか)し、実力がこれに伴なわない。今我々としては身延との合併を防ぐの
に手一杯なのです。要するに国家諌暁という事は出来ないという事に尽きますね。むしろあんた方の行動が御本
山の存在に害にならぬようにしてもらう事で精一ぱいだ』
『当学会は十年以来、御本山に害を及ぼした覚えはありません。歴史が証明している以上、今後もそんな事はな
い事は分かるでしょう。唯我々は仏意にそおうとする事なのです』
『断じて今は出来ません。この事ははっきり申し上げます』
腕を組んで牧田先生は唖然とした。一同シーンとして声なく、無言の十数分が続いた後に、静かに堀江尊師を
送り出した。