逆又逆

       (一)
 雪子さん帰る、雪子さん帰る。巌さんの勇気は活気づいていた。巌さんの負け戦以来、側を離れずに巌さんの
経済門下の十傑と言われた澄技君は
『おい高橋、雪子さんが今日来るというが、お互いに苦労した仲間だ、今晩御馳走でもしてやろうじゃない
か』
『うん、俺も女郎買いに行っては馬をつれて来て、随分迷惑をかけたんだが、こんだ(ど)の帰りにはウンとふんばる
よ』
『年のとったおじいさんだから几帳面だそうな、片桐さんは』
『雪子さんが帰ればこの会社も大万歳だ。会計の事で社長も頭を悩ましていたが、これで一安心というものさ。
何しろ几帳面ですぐ気がつくし、僕らと社長の間に入ってスムーズに事務を取り運んでくれるんだからな』
 その時、澄枝君はからかうように
『片桐君、兵隊勘定で今晩やるがどうだね、けちん坊だから止めるかい』
 片桐さんはカンの高ぶったように頭を振って、
『馬鹿言え、僕と雪子さんとは、この会社が糞づまり時代から一緒に苦労した仲だ、俺一人でも出してやる』
 高橋さんはニヤニヤして
『それじゃ一つ、頼んでしまおうではないか』
 片桐さんは手を大きく振った。そしてぽつんと一言、
『みんなで兵隊さ』
 その時、巌さんは入って来て社長席にどっかとすわった。
『やあみんな早いね。今日はひとつみんなと相談したい事がある。幹部だけ出るのをちょっと遅らして待ってく
れんか。石井支配人はまだ来んかね』
『いや来てますが。倉庫に入ってますよ』
 ちょうど石井支配人がひょっこり頭を出すと、その後から雪子さんがついて入って来た。
『来たよ、来たよ』
 石井さんが言うや言わずに、どっと二十人からの歓声が上がった。巌さんは右側へ立った。雪子さんはていね
いに頭を下げた。
『長い間お暇を頂いて、又そのお世話になりたいと、我儘に過ぎますが、お許し頂けるのでございましょうか。
挨拶もしませんで、気持ちだけはっきり申し上げます』
 とまじまじと巌さんの顔をみつめた。巌さんは懐しそうに雪子さんを眺めながら
『長い留守だつたね。何時かは帰って来るだろうというような気がしてならなかった。世話するもしないもある
ものか。帰って来るのを待ちかねていたんだ。貴女の椅子はあの通り誰もすわらずに半年の間あのまま……さあ
座ったり座ったり、物言いは後だよ、さあ、みんなに挨拶した。自分の椅子に腰かけて』
 いとも朗らかに巌さんが言い終わるや否や、両手を顔に当てたまま、雪子さんはすすり泣きをした。泣声のま
まに
『先生、死ぬまでお側に置いて下さい。どんな仕事でも死んだ気で致します。半年の辛さはゆっくりお暇の時
に申し上げます。この会社に居られなくては、私の生き甲斐はありません』全社員しんみりとして声もなかった。


       (二)
 巌さんの会社は、大敗の時支配人が逃げ出した程であったが、それが非常な幸福に変わった。前支配人の山西
さんは、社長と社員との間に自分の位置を守ろうとして、溝を絶えず作っておいた。
 支配人が逃げ出してから幹部社員がはっきりいい出したので、厳さんはびっくりし、自分の不明をわびると共
に全社員に新支配人の推挙を求めた。ここに全社員の人望をになっていた石井さんが支配人席についた。
 大敗の中から社長より給仕に至るまで、心を合わせての奮闘は涙ぐましい程であった。打ち融け合った社員、
頑張る社員、その力は当然会社の隆昌(りゆうしよう)を導いて来た。そこへ再び雪子さんが加わったのである。巌さんはここに、
新しく金融部門を作り、印刷、製本、出版の一連の組織を作ったので、会社の中は活気立って来た。
 一月とたち、二月と過ぎ、一年と数える時には〝あれ程の失敗に帰した会社が〝と皆が疑う程であった。牧田
先生の喜びも一通りではなかった。我が子の死んだのが生き返ったように、二言目には巌君巌君と呼んでいた。
 年も明けて、春もようやく過ぎて夏になろうとした時、日本橋の『ふぐ元』の料亭で、寺西さん、木本さんと、
岸田さんと三人が出合ってひそひそと話し合っていた。
『木本さんも寺西さんもだらしがないわね、配当も出せないなんて。私の虎の子のお金なんかどうしてくれる
の』
『奥さん、それが相談なんです。どうすればよいか、それを一つあんたに力を借りたいんです』
『相談も何もありはしない。木本さん何にもお金がないのかね、どうしてしまったの。随分御馳走にもなったけ
れど……。あれは儲かったお金でなかったの』
『岸田さん、そうぽんぽんいうもんじゃないよ。大もとは三谷の石油会社につぎこんだのがもとさ。会社がこっ
ちのものになるというので、それが手に入ったら株券をとろうという計画だったが、一月二月とおくれて、どう
にもならなくなったんだよ。一つ力を貸してくれんかね』
『牧田先生に相談したの』
『いや相談はしないよ。下手に相談したら叱られるじゃないか』
 岸田さんは、びっくりした顔から悲しそうな顔になり、次にふてぶてしい態度になった。そして少し考えこん
でいてから
『牧田先生を抱きこむのよ、それしか方法がないわ。先生は正直な人だから、五、六人でワアワア心配して騒げ
ば、きっと吃驚(きつきよう(びつくり))して、何とか考えて下さるに違いない』
『そうだなちょっと嫌だけど、なあ木本。先生に泣きつくより方法はあるまいよ』
『そうよ、先生も私達の仲間だと思いこんでいる人もたくさんあるんだから、その話もしてしまいましょうよ。
あんた方が言えなければ、私が先生に吃驚するように話して上げるわ。そうすればね、きっと巌さんが引っ張り
出されるわけよ』
それまで沈んだ顔をしていた木本さんはにっこり笑って
『巌さんが引っ張り出されてくればこっちのものさ。そんならいっそのこと、巌さんに直接ぶつかってみるか』
『馬鹿ね、あんた方がぶつかった所で、巌さんが動くわけがないじゃないか。牧田先生の声がかからなかったら
絶対駄目よ』
 二人は異口同音に
『そりゃそうだ、さすがに岸田さんだ、偉いもんだ』
 ほっと安心した顔に変わって木本さんが言った。
『さあ一杯呑もう』


       (三)
 ある日の午後二時頃、巌さんの事務所へ牧田先生が訪れられた。それは寺西さん達三人が『ふぐ元』で会食し
た日から一週間程後の事だった。
 お年にも似合わずさっそうたる元気で、事務所の戸の所へ来られたのを見た巌さんは、いそいで入口までお迎
えに出た。気軽に巌さんは
『いらっしゃい。こちらの方へ御用があってのおついでですか』
 先生は真面目な顔をして、返事もせずに巌さんの座っている椅子の方へと歩かれた。
 巌さんは自分の座っていた席を先生にすすめたが、先生は頭を振って『ここでいい』と言われて、巌さんの隣
りの客用の椅子に腰を掛けられた。
『寺西と木本君はまだ来ませんか、ちょっと困った事ができたんだが』
『何か学会の事で事件でも起こったんですか』
『どっちともつかないがね。実に弱った、どうしても君の力を借りなければ納まらない』
『先生の御用とあれば何なりと致しますが、事柄はどんな事柄ですか』
『寺西君達がやっとる仕事が失敗に終わったのだ』
『それは充分前から分かっている事です。あの仕事は〝二度失敗して三度目でなければ成功できない〝とまで言
われている至難な仕事なので、心配はしておりましたのです。しかもあんな小資本ではやり様がないのですよ』
『木本君は事業家としての充分の識見があると聞いていたのだがね』
『それは駄目ですよ。番頭としては良い番頭ですが、大将となってやるにはちょっと足りない所があります
ね』
 先生がそうかと言うような顔をなさった時に、寺西さんと木本さんが入って来た。巌さんは朗らかに迎えて
『一体どうしたんだ。先生に心配かけちゃいけんじゃないか』
 寺西さんは頭をかいて
『木本君、事情を話してくれ』
『細かい事はいいから、結論だけ話してくれ給え』
『実は全部コゲついてしまってどうにもならんのです。金利も払えないもんだから、皆がわいわい言い出して…
…』
 巌さんは態度を変えて、強い語調で言い出した。
『事業は勝負だ。勝つ事もある負ける事もある。負けたからといってその苦境を打開できないという事はあるま
い。御本尊には絶対の功徳のある事を君等は充分知って人にも説いている事じゃないか。君等が事業に負けた事
は驚くに足る事ではない』
『当然に来るべきものが来たという以外にはないのだ。僕の心配している事は、そんな事じゃあなくて、この君
等の負けた事業の責任者は牧田先生だ、と皆思い込んでいる事が非常に恐ろしいのだ』
『牧田先生を窮地におとし入れて、それで弟子の道が成り立つか。信心と貸借とがからみ合う事は絶対にいけな
い、と僕がいつも主張しているのではないか。このままにして放っとけば信心で退転する者ができ、牧田先生が
詐欺を働いたと噂されるではないか、小才子小策士はよし給え』
 巌さんの口調は、後になればなる程激烈なものになった。言葉を切った巌さんは、牧田先生の方へ向かって
『先生、御心配なく、いま岩瀬にも相談して無事に納めるつもりですから御安心下さい』
と言って二人の方へ向きを変えた。
『君等の為にするのではない、牧田先生のためにするのだと考えて、僕の指図通りにしなければならない』
 二人をじっと見据えた威厳ある巌さんの姿に、二人は只只頭を深くたれるだけであった。


       (四)
 四、五日してから学会本部の二階で重大会議が行なわれた。
 牧田先生を中心にして、巌さん、日本商事株式会社専務の稲畠さん、二葉株式会社の社長の岩瀬さんが上座に
並んで、寺西さん、岸田夫人、陣出クリーニング社長、寺西さんに使われている高山さんがずらりとならんでい
た。
『実にこの経理はおかしな事になってる』
 経理に明るい岩瀬さんが、ポツリと口を切り出した。前にはいろいろな帳面や手形・小切手帳が置かれてあっ
た。
 そして自分の調べた表を手にし乍(なが)ら、
『借入れ金総額十六万円、現在所有の手形・小切手が十三万円、但しこの手形がほとんど不渡りで無財産と言う
以外にはない。何とか生かしても一万二千円位のもんだろう。差引き約十五万円の損になってる』
『その手形は何とか生きないものかな』
 と巌さんが言った。
『まあ、絶対と言うてもいい位、生きませんね』
 稲畠さんは自分の商売柄、
『随分へまをしたもんだね』
 とポッツリ言った。がその時木本さんが、
『三宅を信用したもんだから、ついへまに行ったんです』
 岩瀬社長は鋭く言い出した。
『商売だから勝つ場合もあるし負ける場合もあるが、それはお互いに商売人だから、結果について論ずるのでは
ないが、只これからどうするか、という問題が残っているだけだが、どうしてこうなったか、という原因につい
ての反省がなければ、将来に向かっての貴方がたが勝つという方策は立ちますまい』
『この仕事の根本の責任者として、牧田先生を悩ましている張本人として、寺西君、君からはっきり説明してく
れ給え』
『さあそれが……、どうもそうなっちゃって、原因という事もないんだが……』
『そんな事では僕は納得出来ない。君等の言いたい事は、ただこうなったから巌先生の力を利用して、ただ何と
かしてくれというに過ぎないではないか』
助け舟を出すように木本さんが
『巌先生、何とかして下さい』
 岩瀬さんは寺西さんと木本さんを見つめ乍(なが)ら
『それは巌先生に頼まなければできない事はわかり切っている。けれども、君等の根性がはっきりしなければ、
僕から巌先生に進言はできない。しかし、ここで今一言いって置かなければならない事は……』
と言って、非常に強い語調になって
『一体、君等が払ってる日歩は七銭じゃないか。しかも、君等の貸出し金利は、日歩二十銭から三十五銭位の間
じゃないか、どう見ても月の純収入利息は六万五千円以上なければならぬ、経費はどんなに無理な考え方をして
も、二万円を越すわけがない』
『かりに、これが半分しか運営できないにしても、月に一万円は残らなければならない。三年近くもやっていた
のだから、相当の利益率を上げなければならないけれども、あらゆる点から研究して、最下低に見ても、創業以
来、六万円はどうしても残らなければならない勘定になる。差引き九万円という金を君等の当然収入以上に使い
込んでいる事になる』
 木本さんと寺西さんは悄然として頭を下げた。その時、巌さんは
『できた事は仕方がないよ、どう収拾するかが問題なんだ。岩瀬君、名案はないか』
『ありますよ、貴方の持っている日本殖産株式会社を無料で譲って下さい。但し社長はそのまま巌先生でなけれ
ばなりませんよ』
『それをどうするんだね』
『僕が専務になって、この二人が社員として今迄の地磐を生かして、今一度やり直しをやるんです』
 ジッと考えていた巌さんは、四、五分の後に
『君が絶対責任を負ってくれるなら、僕の名前を使う事もよかろう。君の腕なら安心なものだ。但しこれだけの
条件はきいてくれないか。いつでも会社の必要に応じて、僕が六万円、稲富君が六万円、岩瀬君が三万円、牧田
先生の為にと思って投げ出す事を承知してくれるだろうか、なあ稲畠君』
 稲畠さんは無条件にコックリとうなずいた。
 ホッとしたのは寺西一派であった。