怨 嫉

       (一)

 春の陽のうららかな四月始めの月曜日の午後、中野の陣出クリーニング店の二階の八畳で、学会の座談会が開
かれていた。座談会の中心は寺西さんであったが、寺西さんの話ぶりはなかなか雄弁である。年の頃は三十五、
六で細面の美男子型の人であった。
 頭もよくて、教育学の研究の熱心な所から、牧田先生も大変信用されていたが、小才(こさい)が利(き)いて、薄っぺらだと
言って厭(いや)がる人もないではなかった。
『皆さん、此の陣出クリーニング店は信仰の御蔭で、実に立派な店であると牧田先生もおほめ下さっている。
あなた方は熱心に信仰して、牧田先生にほめられるようにならなければいけない。折伏活動もしっかりやって、
巌さん達のように商売々々って言って、折伏も満足に出来ない人達とはつき合わないようにした方が良い』
 此の話を引きとって、弟のずるそうな顔をした有田が、
『何もかにも此の陣出クリーニング店が学会の模範になろう、おかねさんしっかりやろうね』と隣りの席のかね
子さんを振りむいた。年の頃は二十五、六に見える色白の品のある、すこぶる美人であった。ニッコリ笑って
『ええ』とうなずいた姿は風情(ふぜい)のあるものであった。
 座談会も終わりになりかけたので、皆が思い思いの雑談に入った頃、寺西さんはゴロッとあおむけにひっくり
返って煙草をうまそうに吸い出した。
 誰か訪れる気配があってから、女中に導かれて牧田先生が座談会の部屋に入って見えられた。飛び上がるよう
にして寺西さんは起き上がると、居ずまいを直して叮嚀(ていねい)に先生を上座にむかえた。皆は父親を見るように先生を
見て、言い会わせたように行儀よくあいさつをした。厳格なお姿の牧田先生は、子供を見るようにニコニコとな
さって、
『今、巌君の所から此方(こちら)へまわったのだが、札幌へ一つ講演に行こうと思ってね、その相談をして来たよ』
 言葉が終わるや否や、つけ入るようにこびるようにして寺西さんは
『先生、私も連れて行って下さい。私一人が行けばたくさんですよ、巌先生も行くんですか』
『巌君はね、非常に忙がしい体だから講演の日だけ、飛行機で来るって言っていたがね』
『巌さんの一派は忙がしい忙がしいで大変ですね』
『巌君にも言うんだがね、一銭玉を数えるような仕事ぶりではいけない。百円札で数えるように、折伏と信心が
本なんだから、それさえしっかりやって居れば金を百円札で数えるのと同じ事になるんだからね。木本君なんか
も事業家なんだから一銭銅貨で金を数えるような事業をしてはいかんよ』
 木本君と呼ばれた中年の紳士は非常な好男子で、ニヤニヤした態度で、
『先生のおっしゃる通りにやって成功しようと思うんです』と言ってぺコンとおじぎをした。
『木本君、巌先生達のように忙がしい忙がしいといって折伏もしないのでは駄目なんだぜ』と、ひやかすように
寺西さんが茶々を入れた。実になごやかな風景である。


       (二)
 学会の二階に、床の間を背にしてどっかりとあぐらをかいている巌さんと向かい合って、松村さんがきちょう
面に坐って、その隣りに圭子さんが微笑ましそうな、和やかな顔をして巌さんを見つめていた。圭子さんに隣り
合って、小泉さんとおとら婆さんが松村さんの話す言葉を噛みとるような顔をして坐っていた。
『巌先生、学会が二派に分かれているように見えるのは本当に残念ですな。寺西なんかに威張られていてそれで
いいんですか』
『何も学会が二つに割れておるまい。私が理事長でがっちりと先生を抱いている以上、誰がどんなにしようと学
会は二つに割れっこないよ』
小泉さんが沈痛な声を出して、
『寺西さんがあなたに絶えず反対している空気というものは、知らず知らずの中に巌派と寺西派と二つの派が出
来るのではないでしょうか』
『このおとらばあは、断然巌派だよ』
 あわてるように巌さんは手を振って、
『それがいけない。私の派も、寺西の派もあるもんじゃあない。皆一ように牧田門下ではないか』
 その時、すき通るような声で圭子さんが、
『先生、雪子さんもいってましたよ。寺西さんは巌先生を憎んでいますって。私もそう思うわ』
 おとらばあさんがそれを引きとるようにして『本当に雪子さんは巌先生のひいきだから、怒るのは無理もない
よ。このおとらばあだって腹がたってたまらないよ』
『この松村は学会の前途を憂えるのです。あなたが仮りに腹が立っていなくとも、皆が腹立てるのはどうする事
も出来ないでしょう』
『松村さん、あなたの気持ちはよくわかります。私も凡夫ですから寺西君の挑戦ぶりには腹を立てています。何
んとなく陰険な感じを受けないでもありません』
『巌先生、あなたがここでどんとやる時ではないですか』
 巌さんは悲しそうな顔をして、手を組んだまま目を閉じた。暫く沈黙が続いた。
『この巌は牧田先生の弟子です。先生をいとしい。学会は可愛いという心の方が私情を殺すのです。考えて見て
下さい。又私の心をよく見つめて下さい、牧田先生なき後の学会を誰が継ぐのでしょう。私はその任ではない。
いやいやそれ以上に私は牧田先生のあとを継いで会長になる事が恐ろしいのです。二代の会長に私がならなけれ
ばならないと思うと、身震いがする程恐ろしいのです。私は事業人であって、然も牧田門下の第一の弟子です。ど
うしても牧田先生の後を継ぐべき人を作らなくてはなりません。その人を作る事がこの巌の責任です。任務です。
それにしては今の所、寺西君以外に人がないように思われる。何処まで育つかわからないが、先生と一緒になっ
て育て上げて見ようと思うのです。寺西君ばかりでなく神頭君、野崎君あたりも相当に見込みがあると喜んでい
るので、その時が来れば理事長職も、育ち上がった人にわたす積りです。そうしてその理事長のもとで大いに働
こうと思うのです。どうか二派などという事は考えないで下さい。私が寺西君に対して憤懣を持っている事は事
実としても、学会の前途の為には忍ばなくてはならないでしょう。皆さんも同じ心になって下さい』
 しかしこうはいっても、巌さんの心の中に寺西さんを憎む心は消えなかった。