八軒長屋(※(三)が抜けている)

     (一)

 おとしは、三人の子供の寝顔を見ながら長男の服のつくろいをしていたが、深い深いため息をついた。ここ

二、三日の雨続きのため、日雇に出るのを休まなければならなかったので、明日一日分の米もない家庭を思うと『明
日はお天気になってくれればよいが ー 今日のように又雨だったらどうしよう』と心配でならなかった。
 長男の英造は、きのうから急に足が引っついて歩けないと言い出し、もし米がなくなれば又三人の子どもたち
の腹が、へったヘったという言葉が鬼の責めるよりもつらいと思うと悲しさが一そう増して来る。淡い電灯は破
れ畳と破れ障子を照らしてひどく陰気である。
『私もつらいがうち(良人)の人もどうしている事か、南支へ渡ってもう一年、此の頃は手紙もこない、怪我で
もしているのではないかしら』と思わず一人ごとがでた。
 ドタン。壁に人のぶつかった音がした。おとしは又はじまったと思った。壁一重隣りの熊谷達雄の家では始終
夫婦げんかをやっている、その音と決まっているので、おとしはさして驚きもしなかった。
『此の野郎、止めねいか、線香くさい真似しやがって、なんだってそんな紙っ切れを拝んでありがたいんだ。ま
っ香くさいつらをして牧田の野郎が気に入らねい。止めろったらやめろ』
『あなたはのんだくれだし、安雄は病気だし、私がおとしさんといっしょに日雇に行ってやっと食っているんじ
ゃないの』
『それがなんだって言うんだ、それとこの紙切れと関係があるっていうのか』
『あるともさ、あなたののんだくれが治ってもらって、安雄の肺病が一日も早くなおるように拝んでいるんだも
の』
『それが真っこう気に入らねい、ぶっちゃいちゃうぞ』
『飛んでもないお前さん、そんな事したらお前さんが気狂いになる。私は死んだって手なんかかけさせるもん
か』
 ピシャッというたたきつける音がして、ドタバタ大さわぎが起こって来た。女房のおくらさんの悲鳴が聞こえ
てくる。毎度の事と言いながら今日はちょっと度が過ぎるようだ。おとしは『ああ、あれはこの頃おくらさんが
夢中になっている神様の事から始まったな。ああいやだいやだ』と思った。
『あの話は長屋の一番隅のおとら小母さんから、えらいありがたい事だと聞かされたけれど、私も隣りの達ちゃ
んのように拝む気にはなれない』おとしは針の手をちょっと休めて隣りへ耳をこらした。
『お前はどうしても諾(き)かないのか』
『ああ、殺されても諾かないよ』おくらさんの返事のすぐ次に優しい安雄さんの弱々しい声が聞こえて来た。
『お父つぁん、座って話を聞いてくれないか。ぼくが病気で会社の方も休んでいるんで、お父つぁんにもお母さ
んにもすまないと思っているんだ。ぼくは牧田先生にあってよく話を聞いたが、必ずなおると言われたんで一心
に信心しているんだ。これもお父つぁんやお母さんに、一日も早く安心させたいからだよ。だから、どうかお父
つぁん、安雄をかわいそうだと思って拝ませてくれないか』
 ガラっと表の戸があいた。
『偉いぞ安雄さん、この長屋中で偉物となると思われているお前さんだけある。おとら婆さんは気に入ったぜ。
……おい達ちゃん、この間、借した一円返してくれないか。何だ生意気に女房なんかたたく資格あるかい。さあ
ケンカはおれが相手だ。御本尊様へ手なんかかけて見ろ、このおとら婆がお前の赤っ鼻に食いついてやるぞ』
 どえらいけんまくのおとら婆さんのどなり声である。おとしは思わず腰を上げて、達ちゃんがどんなにペシャ
ンコにされるかと興味が手伝って出かけて行った。
 大体にこの長屋では夫婦ゲンカが起こるとみなが見物にいくのが礼儀となっている。おとら婆さんが入ったん
では、この長屋の老女王様だから、さぞや面白くなることだろうから皆が集ってくるに違いない。
 おとしがのぞいた時に、おくらさんは御本尊様とかいう壁にかけた神様の前に突ったって達ちゃんはあぐらを
かいたままで、安雄はきちんと坐って父の顔をさびしそうに眺めていた。おとら婆さんは十七、八貫もあろうか
と思うデップリした体に陸軍大将のような威厳を見せて片肌ぬいで、片ひざを立てて達ちゃんをにらんでいる。
『おい達公、今日かせいで十銭の利息をつけて一円返すって言ったじゃないか。さあ出せ。出さねえと承知しね
えぞ』
『おとら婆、明日の晩迄待ってくれねえかい、ぜひ頼む』
 さっきの元気はどこへやら、達雄は小さくなってペコリと頭を下げた。
『この野郎、女房をかせがせ、病気の子どもに飯も食わせないで、それでも男か、そんな野郎に一銭だって貸し
ておくわけにはおけねえ』
『長づき合いじゃないか、待ってくれったら待ってくれな』
『だめだだめだ。そのポロ洋服でもいいからな脱(ぬ)ぎな、御本尊様をもっていねいとも思わねえ野郎になおさらビ
タ一文借してやらねえ』
 おくらがたまりかねたようにおとら婆さんの前に手をついて、
『明日雨が上がったら私の働きで返すからおとら婆さん待ってくださいよ』
『おくらさんそれがいけねえんだ。そんな根性だからこの野郎が直らねえんだ。亭主を甘やかしすぎる』
 おくらはシンミリとしておとらの顔を見つめ、目に涙をためてすなおな声で言った。
『この間、もったいない事だけれども牧田先生に安雄と二人でお目にかかったんだよ。私のような長屋住いの貧
乏も区別しないで教えて下さった。安雄はその日から病気に自信が出来たらしい。大変元気になってきた。先生
からいただいてきた御本を一生けんめい毎日見ている。そして〝御本尊様はありがたいね〝とよく私に話をして
くれる。そのたびに思い出すのは先生の御言でしたよ。〝悪い亭主を持ったのはあなたの過去の宿業だ。この御
本尊様はその宿業を良い方に変えて下さるありがたい仏様ではあるけれども、それと一緒にあなたは自分の宿業
を見つめて、その亭主のために悩みなさい。泣きなさい。そして夫を頼らずに安雄さんを立派に育てなさいよ〝
と優しく言われた先生の……』
 感きわまっておくらはすすり泣き出した。
 その時、達雄が大きな声で泣き出した。おくらは達雄にすがりついて
『先生が言ったの、今の亭主がどうしても悪い男ならあなたの宿業が切れれば自然にいい亭主ができる。いやだ
いやだあんたとは別れたくない。御本尊様をいっしょに拝んでいい亭主になってよ』
 

       (二)
『偉い』
 おとらは突然大きな声を出した。そして座りなおして
『いい女房だ。達公には過ぎた女房だ。おれが惚(ほ)れてもいい』
『おとらさん、こんな馬鹿な達雄でも信仰できるかしら』
 と泣きながらいい出した。
 その時、可愛らしい鈴の鳴るような声が、突然起こった。
『熊谷さん。信仰しなさいよ。この御本尊は世界で一番という御本尊なのだ、馬鹿は利口になるし、病気の人は
丈夫になるし、貧乏人は金持ちになるし、どんな願い事でもかなうんです。うちの会社の社長さんがいつもおっ
しゃっているわ』
『長屋の女王様の雪子さんがあんたの会社の社長さんの、牧田先生の一番弟子の巌先生だもん、まちがった事は
いいやしない。雪子さんが信心したんであんたの家はあんなに良くなったんじゃあないか。最初は私もうんと反
対したけれども、あんたの家は良くなるし、巌先生にはどなられるし、こんな悪い婆さんでも良くなると。優し
く牧田先生に言われるし、とうとうこの長屋での二番の弟子になっちゃったのさ。信心するとなれば達公なん
て呼んじゃあすまないから、ねえ達ちゃん、このありがたい仏教を信じて八軒長屋の生活革命の闘士になろう
よ』
 八軒長屋の生活革命の闘士 ー 牧田先生の口ぶりそっくりに……
『オホホホホ』雪子の笑声につれて部屋の空気ががらりと変わった。安雄はうれしそうににっこりとほほえんだ。
 そして父親の方へ頭を下げて
『お父さんありがとうございます』
 達雄はてれくさそうに
『今月からお前の弟子になってちゃんとやるよ。そのうちにはわかるだろう』
『今にわかるなんて、わかったらやるんじゃないか。何が不思議なんだい』
 おとらの声がまた尖り出した。
『おとらさん、そう怒らんでくださいよ』
『怒るわけじゃないけれど、お前さん何がわからないんだい、このありがたい御本尊を』
『この紙を、拝んでとてつもない事が起こるという事が不思議なんだよ』
 おとらは胸をポンと叩いてオホンと咳をした。得意満面な顔である。また雪子からひやかされるおそれは充分
あるのだが、あたかも大学の教授になったような態度で
『紙に字が書いてあるという事はなかなかおもしろい事さ。書いた人の心、書いた人の命が紙にはっきりと顕わ
れるんだよ。いいかね、お前さんが借金の証文を書いたとすればその証文の紙はあんたには怖い紙になって、そ
の紙には力があるという事が分かるかね、安雄さんが遠い所に行っていて達ちゃんに手紙をよこしたとすると、
安雄さんの命がその手紙ににじみ出ているといえないかね』
『牧田会長代理、しっかり』
『ひやかしちゃいけないよ、雪子さん。ねえ達ちゃん、あんたに一万円くれるという手紙が来たら、その手紙が
あんたを喜ばせる紙じゃないか。お前を殺すという手紙があったら、その紙はお前さんを悩ませる紙じゃないか
紙に字の書いてあるというのは恐ろしいもんだよ。達ちゃんは御本尊の文字を読めないからわからないんで、こ
の文字を偉い人が読むとちゃんとわけがわかる。仏様の命がにじみ出ているんだよ。仏様の力が一ぱいに光って
いる。それが達ちゃんたちにわかるぐらいなら妙な法、妙法とは言わないんだとさ』
 

       (四)
 熊谷達雄は御曼荼羅をしみじみと見上げながら『そんなにありがたい仏様かね』
 とつぜん表の方に立っていた人の中から声が上がった。それはこの長屋の夫婦喧嘩の附き合いに来た者の中か
らだった。
『熊谷さんそれは迷信よ。あなたの最初考えていたようにただの紙切れなんだよ』
 そう言いながら、ズカズカと中へ入って来て御曼茶羅の方へあごを突き出したのは、ベレー帽を冠って赤いケ
バケバした洋装で、首にガラスの首飾をかけ、クリーム色の厚化粧に真赤な口紅をつけた二十歳ほどのモガらし
い少女であった。雪子さんの細面に白足袋の似合う細(ほ)っそりした姿とは対象的な人である。おとら婆さんは先刻
の大学教授から本性のおとらのあねごに返った。
『何をいってるんだい知りもしないくせに、お前さんの家は罰だらけじゃないか。おっ母あは病気する、やっと
治ったらその時の借金で首が廻らない、おまけに差押えまでされているんじゃないか御本尊様の悪口を云うから
だよ』
『その罰って云うのが気に入らないよ。太鼓のバチではあるまいし、そんなにポンポン当たるものか』
『ポンポン当たっているからそう云っているんだよ。それが分からないから気が狂っているって云っているん
だ』
『お前こそ法華気狂いじゃないか、どうだいついでに太鼓でもポンポン叩いたら』
 おとら婆さんはカッとなってしまった。
『地獄女め、八軒長屋の貧乏神はお前の所じゃないか』
『貧乏したってお前さんからは一銭も貰っていやしない。そんなに威張るなら、千円札の一束もポンと出してみ
ろ』
 おとら婆さんは気ばかりあせるけれどもどうしようもない。目ばかりギョロギョロさせて、この無信心の娘を
どう云ったらギュッとさせられるかと、頭の中にお湯がたぎっているようになっていた。
『よし江、あんまり乱棒な口をきくもんじゃないよ。それでなくてもおれの差し押さえとお前の男遊びは、長屋
の衆によく云われてない時だからな』
 おとら婆さんはよし江の父の甚兵衛さんの突然の応援でホッと息をついた。
『甚兵衛さんお前さんがだらしがないんだよ。こんな小娘お一人ぐらい示しがつかなくては八軒長屋の恥だ
よ』
『おとらさん、おれも信心しろしろという事は勤め先の和泉社長さんからも、おかみさんのおつやさんからも
終始云われているんだがこの娘ががんばるので、御本尊様に若しもの事があっては、と思ってまだやらないんだ
よ』
『お父ちゃん。そんな紙なんか拝む事いらないんだよ、お父ちゃん。そんな紙なんか拝む事いらないよ。私が今
金を儲けて長屋の奴等を見返してやるから』
 鈴を振るようなすき通った雪子さんの声がすぐそのあとに続いた。
『よし江さん、御本尊様の事だけはそんなにいうんじゃないのよ、巌先生もよくおっしゃっているけれど』
 その言葉を奪い取るようにして
『巌が何さ、巌なんて奴だって堀江さんから聞いたけど、不渡りをして貧乏してるんじゃないの』
『巌先生は貧乏はしてるかも知れないけれど二十三人からの人を使って給料だってちゃんと払って下さるし、大
きな計画をもっていらっしゃるし、貧乏したって毎晩のおつき合いはよした事はないし、本当に男としての生命
力が旺盛で、これも皆御本尊様の功徳だとおっしゃっているわ』
『あなたが惚れているからそんなに見えるんだよ』
 と言って、よし江は雪子さんをにらみつけた。