(四)
 その時、廊下に四、五人の足音がした。巌さんが目を唐紙の方へむけるとたんに唐紙がガラリと開けられて、
若い二十二、三の青年たちが『先生』と呼んでドカドカと入って来た。
 野村がふり向いて、
『増田か』
『野村来てたか、皆そろって来たぞ』と言って野村に並んで、巌さんにペコリとおじぎをして皆が席についた。
増田と呼ばれた青年が巌さんに向かって、
『男の子は一たんに戦にのぞんだら』と言った時に巌さんがニヤリとして手をふった。
『わかったよ、今、野村からさんざんそれでお説教くっている所だよ』
『ぼくたちは残念なんです。あんな立派な名校長はめったにありませんよ。それを新堀なぞへ左遷されて我々が
だまっていられるのですか。巌先生は一番弟子なのでしょう。それなのに負けたら最後、そっぽを向いている態
度は、私どもが先生の弟子としてあまりに情けないです』又一人の青年が増田と呼ばれるのにかわって、
『小林は先生のおかげで四中へ入れてもらいました。あの時の先生の情熱にうたれて、巌先生こそ情熱の人で男
の中の男だと思いこんでおりますのに』と言って終わりはすでに泣き声であった。続いて今一人の青年も興奮し
た声で、
『その先生をいくじ無しだと思いたくないのです。できないまでも先生、戦おうではありませんか』
 巌さんは皆の顔を見廻わして、我が意を得たりと言うような顔をした。そうしてあんなにして育てた子供たち
がこんなに自分をしたってくれ、又こんなにも育ってくれたかと思うと、教壇に立った我が身の幸福をつくづく
とありがたいと思った。男一途の気持ちに生きよと教えたあの教えが、かくも深く心の中にくい入ったかと思う
と教育の力にもしみじみとその偉大さを感じた。市立の小学校の俸給のみに生きる教員にあきたらず、思想と情
熱に燃える自分の私塾を愛した彼等がいとしくもあり可愛くもあった。巌さんはしんみりとした気持ちでさとす
ように、なだめるように次のように語った。それは自分への述懐であり、又未来への闘争の方針でもあった。
『自治団体の内部の力というものはまことに強いものだ、政府に何も反抗しているものではない。対立している
ものでもない。しかし政府有力者の力は自治団体の内部までは絶対に届かない。太田政弘さんは台湾長官であり、
犬養さんは総理大臣、古島一雄先生は政党内部においては最高有力者だ。しかしこの政府の要路者も東京市と言
う、自治団体の政治はどうすることもできない。なぜならば自治団体の当局は決して政府の要路者を恐れてはいな
い。恐れていない所に力の及ぶわけはない。ぼくは暗中模索的な闘争であったし、試行錯誤を行なっていたので、
だがね諸君』
 諸君と叫んだ時に巌さんの顔は紅潮をしていた。あの元気一ぱいで数学の講義をしている時と少しも変わらな
くなった。
『ぼくは今の政治の行き方の根本を知っているのだ。いや再認識したのだ。その方程式はぼくの大嫌いな親分子
分の組織なのだ。ぼくの鷲見まいりもこの方程式を逆にぼくが使おうとしているのだ。まだ先生の退職には一年
ある。ぼくの忍従の生活もまだ一年は続く。戦いは捨てていないのだ。君等の力のいる時には必ず頼りとして頼
みに行くから、それまで静かに待っていてくれたまえ。それよりも肉でも煮て馬鹿話でもしようではないか。さ
あきげんを直せ』と言った。
 

              (五)
 夏も過ぎ秋もたって、十二月の暮れも正月の賑わいもあわただしく過ぎてしまった。もう二月も過ぎようとす
るある夜の事、鷲見氏の宅で巌さんは鷲見さんと向かい合って話していた。
『鷲見さん、もうそろそろ三月ですが牧田先生が自然退職になるのも目の前です。何べんもお願いしているとお
りでここであなたの全力を挙げて打開の道を作ってください』
『いやこれは三年来の懸案でいろいろの方法を取ってみたが、広田と言う奴は相当な力を持っている。私もずい
分調べたが奴の力はあなどりがたい。局長にもよくくい込んでいるし、市会にも力を持っている。あわよくば市
長に出るか、局長になろうかともしているし子分もずい分あるから、なかなか牧田の力ではどうする事もできな
いぞ』
『何もあなたに広田を讃(ほ)めてくれと頼んでいるのではありません。牧田先生が政治的でない事も知っているし、
政治力もないのもよくあなたは知っているはずではありませんか』
『いやそんなに広田を讃めるわけではないが、そう簡単に行かんという事を知っているだけだ』
『去年、古島先生や大先輩の力を借りても敗れたんだからそれは充分知っているが、私としてはこのまま引っ込
めないんです』
『あんな政界に死んでいる人たちは、名声がいくら高くてもやれる仕事ではない。大物は名前だけで細かい芸当
はやれないものだよ』
 巌さんは少し気色(けしき)ばんだ。
『あなたが一たん引き受けた以上、そんな事にこだわっているようでは大政治家になれますか』
 その時、奥さんがお茶を入れながら、
『あなたやっておあげなさいませよ。和子も栄子もお世話になった御二人の先生方の願いなのですもの。私が男
ならデンとやるのですが』
 鷲見さんはこう二人に攻めたてられて少し照れくさそうに、
『やらんとは言わん。方法だよ。まあ見ておれ、そこでなあ』
 と少し声を落して、
『広田の背後関係を調べてくれと言っておいたが、あれの政治背景は誰であったかわかったかね』
『青木代議士ですよ。青森から出ている長崎出身の男で、それが親分なんですよ』
『青木か、あれならわかっている秋田清の子分だ。秋田と私とは一緒の中だから、よし秋田からぐんと押さえさ
せてやろう』
 力があると巌さんは見とおしていたのだが、時めく政友会の統領(とうりよう)で大臣までした秋田清とそれほどの仲だとは
思わなかった。この人が政界の裏街道で歩んでいる道を少しも人に知らせないやり口はもともと知っているけれ
ども、どの程度の親友かはまだ巌さんにはのみ込めていなかった。
『だいじょうぶですか』と怪しむように言った。
『秋田はだいじょうぶだ。警視庁の方とも連絡を取らなければいかん。それは二週間もすれば完全にできる。秋
田の事なら心配いらんよ。これだ』
 と言って一通の手紙をポンと巌さんの前に投げ出した。中を見てもいいと言ったが巌さんは表に鷲見畏兄とあ
り、裏に秋田清と署名してあるのを見て、又だまって鷲見さんへかえした。 


      (六)
 節句も過ぎてうららかな三月の午後、東京市の芝公園の一隅にある視学課長室に広田課長と対座して、一人は
小柄な鷲見さんと、白せき長身の巌さんとが座っていた。課長はごくていねいであった。
『青木さんからくれぐれも粗そうのないようにとの御注意もあり、その上、やり出したら一徹(いってつ)で政界でもてあま
している人だから、御意向はできるだけ善意をもって受けたまわるように、とのお話でしたから私でできます事
ならばなんなりとさせていただきます』
 小柄ではあるが鷲のような金色の目の鷲見さんは、その体の中に凄気(せいき)が満ち満ちていた。
『牧田の事だが単刀直入にいうと、白金小学校の校長にもどしてくれんかという事で』とおだやかに言い出した。
 広田はびっくりして非常に当惑したような顔をして、
『牧田には悪い男がついていましてね。巌と言ってなかなかくせ者でね。あの巌を知らん人は、あの牧田の温厚
と学者振りを知って世話をしたがるんですが、当方ではあの巌にはホトホト手をやいているんですよ』その時、
突然鷲見さんが立ち上がってどなった声は、庁舎に鳴り響いてわれるようであった。巌さんも始めて聞いたその
声に飛び上がるような思いをした。
『馬鹿を言え! 巌は何年来のわしの子分だ。これの心柄はわしがよう知っておる。巌はここにいる、これだ』
 巌さんの方をあごでしゃくって、視学課長をジッとにらみつけた。視学課長は猫なで声で牧田をほめて巌をけ
なして〝いつもの手でコロリ〝と思ったので、大当てはずれで、しかもその形相のすごさに蒼白になって、声も
出なかった。鷲見さんは又も大声を続けて、
『出来んか、牧田を白金へ戻せんか』
 あまりの事に広田は声も出なかった。ただ首を横にふっただけである。
『よし出来ん? わかった。貴様辞表出せ。さあ辞表書け。おれが市長の所へもっていってやろう。わしは恐迫
ではないのだぞ。恐迫だと思うなら警視庁へ電話をかけろ。貴様がかけんければ、わしがかいてやろうか。ここ
から貴様を縄つきにしてつれていって見せる。貴様のしている事は皆わかっているのだ。電話一本で飛んでくる
ことになっている。縄付きになるか、辞表を出すか、牧田を白金へ戻すか、好きな方を選べ』
 ドンとテーブルをたたいて座って、ジッと視学課長の顔をにらんだ。庁舎の中は一瞬に墓場のように静かにな
って、誰一人声を出す者もいない。広田は細々とした声で、
『いろいろと事情があり、局長と相談しなくてはならぬ事もあり、一存では……』
『一存で出来んなら出来んでいいが貴様の腹を言え。面目上、白金へ戻せんと言うのなら視学にしろ、視学にす
るならかんべんしてもいい。貴様の腹を聞くまでは絶対に帰らん。三つの中の一つだ』
 広田はそう白な顔で、何十度もおじぎをしていろいろと詑びて最後にこう結んだ。
『絶対に悪くはいたしません。あなたの御期待通りとまではいかなくても、広田が職をかけて牧田の面目を立て
ますからお待ち願えませんか。あなたの事は青木さんから伺っておりますから、言い出したらおききにはなりま
すまい。必ず必ず御意にそいます』
 その後、いく度の折衝の結果、牧田先生の俸給は最高俸に上げられて、退職年金も最高給に上げられ、誰一人
もらわなかった犬養内閣の時の退職一時金も、最高の八千円を出す事になり、教育局嘱託として藤井局長も優遇
する事になった。お祝いが鷲見主催で帝国ホテルで開かれた時、一人巌さんは人に見せまいとする涙を、いく度
拭いた事か。