闘 争

    (一)

 四谷の広田視学課長の八畳と六畳をぶっ通した部屋にはあかあかと電気の光がともって、床の間を背にして和
服姿の課長はにこにこしながら祝の酒盛りをしていた。その隣りには藤原区会議長、神崎学校医、愛宕の校長そ
の他校長視学を打ちまぜて十二、三名。思い思いの事をしゃぺりながら課長と区会議長の機嫌を取り取りしてい
た。各自の前には近くの料亭から取りよせたらしい五、六品の料理が行儀、よく並んでいる。
 藤原区会議長が、
『広田君、うまく行ったね』
『小林君の名案が図に当たって内務部長も一パイ喰った形でしたね』
 その時愛宕の校長がトンキョウな声を張り上げて、
『牧田のやつ、辞令をもらった時にはどんな顔をしたらうね。課長、様子を話しなさいよ』
 神崎ドクターが、
『今頃どんなにしょげていることでしょうな』
 課長が妙な顔をして返事をした。
『いやいや、ちっとも驚いてはいないんだよ。人の事のような顔をしてすましこんで、御命令ありがとうござい
ます。局長にいずれ転任の挨拶にあがりましょうと言っていた。じつに驚いた。いったい何の気か、わしにはわ
からんのだよ。しかし長年かかってやっと退治したと思うと胸もスッとしたよ。猪を撃ったようなものさ。勝っ
た時の気持ちと言うものは実に愉快なもんだよ。内務部長の鼻も明かしてやったしさ。政友会の陣笠連も目を白
黒させているだろう、保護者会だって星がなければ動きもなるまい。ねえ、神崎君』
『いやいや保護者会の連中も腰がないものですよ。トンビに油揚げをさらわれた形でね。あっちこっちでワア
ワア言うだけで一月もしたら事なく納まるでしょう。小野会長も一安心と言う所です。さあ小野さん、乾杯乾
杯』
『所で神崎ドクター、小野は安心しましたよ、一杯頂きましょう。神崎さん本当に課長にも礼を言いますよ。課
長の言い分ではないが勝った時は愉快ですな。ところで渡辺新校長、腕をふるってくださいよ。保護者なんてわ
けなくだまされるものだから、あなたのお上手で一つ頼みますよ。さあ一杯行きましょう』
 渡辺新校長はうれしげに杯を受けて、
『私のような者をお引き立てくだすって働きがいがあります。会長さんよろしくお引き立て下さい』とペコリと
おじぎをして議長と課長と二人並んでいる方へ向き直って、
『渡辺も根かぎり、御命令通り働きますからお引き立て願います』と言うてていねいに頭をさげた。そして視学
の誰彼(だれかれ)、先輩の校長連にペコリペコリと頭を下げて座を取りもち出した。ちょうどたいこ持ちのようであるが彼
はこうしなければ出世ができないという事を充分知っていたのである。
 その時、課長に向かって小林視学が、
『課長、牧田はきっと辞表を出しますよ。あんな片意地な奴が何で新堀なんか我慢するものですか、思うつぼ
ですよ、愉快々々』
 牧田首取りの課長邸の宴は夜を徹して賑やかなものであった。


    (二)
 牧田先生が新堀小学校へ転任の後は巌さんの生活は一変した。今まであっちこっと飛び歩いていた闘争ぶりは
一度になくなって牧田先生の事を忘れたような姿である。
 朝と晩のお勤めは非常に長くなった、非常な信心家に見え出して来た。人々が信心をひやかすと逆に猛烈な折
伏を始めて最後には祈りとして叶わざるなく罪として滅せざるなく福として来らざるなく理として顕れざるなき
大御本尊を早くいただきなさいとつけ加えた。そしてニヤリとして、敗軍の将兵を語らずといえどもわしにも祈
りがあるんでねと、わきにいる者は聞き飽きるほど聞かされるのであった。
 春暖五月の陽を浴びた事務所に、どっかと腰をおろして、ようやく事務を終わった巌さんの机の前へ雪子がお
茶を入れて来た。
『雪子さん散歩に行きましょうか。今日は土曜日で仕事も終わったし、しばらく散歩にも出なかったからね』
雪子は棒縞に赤線の入ったセルの単衣(ひとえ)を品よく着こなし、色白の細面の顔に喜びをたたえて、そのくせいたず
らそうな目をして、
『先生は私なんか忘れてしまったんでしょう。皆がいってますよ。西園寺詣(まい)りという事はあるけれども、うちの
先生は鷲(わし)見(み)詣(まい)りで大変だって大評判ですよ。どうせおともしたって一時間か二時間で打っちゃられて、又鷲見さ
んへいらっしゃるんでしょう』
 巌さんは面白そうに笑って、
『私だって嫌いな事をたまにはやる事もあるさ。親分子分の政治なんて大嫌いなんだけれども、その力は馬鹿に
強いのを知った以上は勝つまでは私だって立派な子分になり通さなくちゃね』
『あんな鷲見さんのように長屋に、入っている人に先生のようなお方が子分になるなんておかしいわ、おすしは
届ける、おみやげは持っていく、夜の十二時頃までお話相手はする、まるで気狂い沙汰だって皆が評判している
のよ』
『蛇の道は蛇とか言ってね。人を見る事においてはまずまちがいないつもりでいるんだがな。笑う奴には笑わし
ておこうよ。それはそうとね。今日散歩に行ってもらうのはね。白木屋でお嬢さんの帯を一本買って行くんだよ。
それを見立ててもらいたいのさ。帰りには御ちそうしてあげます』
 雪子はブッとふくれた顔をして、
『また私はだしなの。いやんなっちまうわ。散歩と聞いたから郊外へでも出かけるのかと楽しんでいたのにつま
んないわ。牧田先生だっておさみしいでしょうに、ちっともおたずねなさらないで、お弟子として薄情すぎるよ
うに見えるわ』
『先生はすました顔して社会学の本をいま読んでるさい中だよ。あんまりお邪魔しない方がいいんだ。職員が六
人しかいないんだし、訪ねてくる人もいないから先生は大いに暇だよ。つかまった日には二時間もお説教さ、鬼
門鬼門』と巌さんはおもしろそうに手をふった。
雪子はまじめな顔をして、
『鷲見さんへ子分入りなさって何の目的があるんですか』
『鷲見さんのおむこさんになるんだよ』
と言って、大声で笑い出した。
 この言葉が巌さんの運命に不思議な暗示があったことは後になってわかった事であった。
       (三)
 この日は月曜日であった。巌さんは二階の四畳半に閉じこもって朝から幾何の難題に考えふけっていた。丸を
書いたり、線を引いたり、うなったり喜んだりしている姿は、子供が積み木に夢中になっているのと同じであっ
た。二時間ほどしてから『ウマイウマイ』と言って一人で喜んで、持っていた鉛筆を投げ出して、大あくびをし
た。その時、唐紙の外で『先生』とどなるように叫ぶ者があった。
『野村か、入っていいよ』言葉につれて一人の青年が入って来た。
『野村、この間から考え抜いていた幾何がようやく解けたよ。とても面白いんだ。補助線を一本引くのに気が付
かなかったのでえらく弱ったよ。わかって見れば簡単さ』
青年は妙にまじめな顔をして、
『先生、今日は数学を教わりに来たんじゃないのです。先生の御心の中を伺いたいと思ってまいりました』
 巌さんは不思議そうな顔をしてつり込まれるように、
『何だい』
『じつは牧田先生が新堀小学校へ転任になって、私たち先生のためにいろいろ働いたので、非常に負けた事がさ
ぴしくなっているんです。牧田先生が転任になったので、あの事件はもう打ち切りなのですか』
『打ち切り! 打ち切りはしないさ、大いにやるんだ』
『大いにやるとおっしゃっても、先生は今何にもやっていらっしゃらないじゃないですか。先生がいつも口ぐせ
のように男の子は戦いを始めたら、骨がシャリになるまで戦うんだとおっしゃっているのに、私はじつに不思議
でなりません』
『いや、やっているよ。真剣なんだよ、僕は』
『私どもにはそう見えません。暇さえあれば鷲見さんへ出かけているという事ではありませんか。何をしている
のかと皆に聞いたら小使い同様で、夜はくだらない話相手を仰せつかって他の事は何もなすっていらっしゃらな
い』
青年はここまで来た時に自分の言葉に、感激して目に涙をうかべて言葉を続けた。
『男の子は戦を開いたら骨がシャリになるまで戦うんだと、先生は言葉だけを教えられていたんですか。私が
尋常六年の時もう十年にもなる話ですけれど、ドッジ・ボールで私の組がたった四、五人までになった時、先生
がひょっこり入って来て、子どもながらも先生の言葉を思い出し、私一人が阿修羅のように働いてとうとう大勝利
をとったその帰り道、先生が私の頭をなでて「男の子は決して負けてはならないよ」とおっしゃった言葉が胸に
やきついています。だから、牧田先生の問題の時も、我々同窓会は決起して先生の指揮のもとに働いたのではあ
りませんか。それなのに牧田先生が転任になってしまうやお経ばかり上げて、鷲見さんの所へばかりかよって、
牧田先生をおっぽり出して我々青年とも何のお話もなさらない。我々が揃って来ても〝ちょっと〝といっては自
動車で鷲見さんへ飛んで行ってしまう、我々同志の結束は日に日にへって行くし、一体どうすればいいのか、先
生のお腹の中を聞かせて下さい』
 青年は涙にむせんで自分の苦衷を訴えた。巌さんは青年の熱情につぶっている目からは同じく涙がにじみ出て
いた。